Visitor 仕立て屋ネイラ
特別な人間しか入ることの出来ない店がある。
その店は、どこの世界とも繋がっていて、どこの世界にも属していない。
ある世界では王宮の地下に、別の世界では空に浮かぶ島に、また別の世界では魔物が棲む洞窟の奥に、店への入り口はある。
入り口はどこの世界も同じ、焦げ茶色の一枚板の扉。少し錆びた銀色の取っ手を手前に引くと、チリンチリンと扉の内側に括りつけられた鈴が鳴る。
扉をくぐる瞬間、客は空気が変わるのを実感する。具体的に何がとは言えないが、店には客をほっとさせる力があった。
薄暗い店内でスポットライトを浴びてるカウンター。吸い寄せられるように座ると、どこからともなく仮面を被った店員がカウンター越しに現れ、一礼と共にこう言うのだ。
「いらっしゃいませ、ようこそBar《洞》へ。ご注文は何になさいますか」
今回の客はとある世界にある国、アストレイの仕立て屋で働く女、ネイラ。背中まである明るい茶色の髪を揺らして席に着いた彼女は、可愛らしく顎に指を当ててにっこりと笑った。
「何でもあるんですか? じゃあ、激蜜酒のミルク割をお願いします。なんか貴族様の間で流行ってるらしいんですよね」
「……畏まりました」
仮面の店員は後ろの棚から蓋がミツバチの形になっている瓶を取り、氷の入った薄赤のグラスに半分ほど注いだ。冷えたミルクも入れてくるくるとかき混ぜると、どうぞとカウンターに置く。
「ありがとうございます。……うっわ、ゲロ甘っ!」
一口飲んだネイラは思い切り顔をしかめた。
酒の名前から想像できるだろ、と仮面の店員は心の中で突っ込んだ。
「あー、無理だわコレ。よく皆こんな甘ったるいモノが飲めるわね。貴族様には甘党の人が多いのかしら」
ぶつぶつ言いながらネイラは、ゴクゴクゴクっと一気に飲み干した。
「ぷはーっ! すいません、酸弾の麦酒割を下さい」
「畏まりました」
今度はまた真逆のものを注文したなと思いながら仮面の店員はグラスを用意する。
「どうぞ」
「うほーい、やっぱりお酒はこれでなくちゃね! ……っくぅ、美味い!」
酒に弱い人間が飲めば一発でぶっ倒れるほど強い酒を、幸せそうに飲むネイラ。だが、次にグラスを傾けたときには表情はがらりと変わっていて、彼女はカウンターに頬杖をついて、はぁ、と溜息を吐いた。
「何か、お悩み事ですか」
「ええ、まあ……ちょっと店長に怒られちゃいまして。それでヘコんでるんです」
昨日今日と連続で織り機を壊しちゃったから怒られるのも当然なんですけど、と続いた言葉に仮面の店員の動きが一瞬止まった。
「わたし、仕立て屋で働いてるんですけど、昨日はちょっと寝坊しちゃいまして。パンを食べながら走って仕事場に向かってたんですよ」
「……ええ」
パンを食べながら走るとはまた器用な。喉に詰まらないのだろうか、などと仮面の店員はどうでもいいことを思った。
「早く食べ終えないと駄目だって、そればっかり考えてて周りをよく見てなかったんです。だから四つ角を曲がった瞬間に……」
誰かとぶつかってしまったのか。当然、仮面の店員はそう予想した……のだが、
「馬車に激突しちゃったんですよねー」
「は?」
真実は大分違った。
それでもパンは死守しましたけどねー、とあっけらかんと笑うネイラに、仮面の店員は全力で突っ込みを入れそうになった。
「びっくりしましたよ? 紋章が見えたから貴族様の馬車だって気付いたし。ほんとびっくりしましたけど、でもそれよりも仕事に遅れることの方が重大だったんで、すみませんって謝って去っちゃったんです。そしたらですねー、なんと次の日その馬車に乗ってた人が仕事場に来たんです! あり得なくないですか!?」
「そう、ですね……」
あり得ないのはアンタの身体の方だよ! 喉元にまで出かかった言葉を、仮面の店員は無理矢理飲み込む。
「それだけでも信じられないのに、あろうことかその人はわたしに守護兵士の養成学院に入れって言ってきたんです。ご丁寧に推薦状まで用意して。失礼極まりないですよ」
ネイラはグラスを傾ける。よほどの酒豪でもグラス一杯飲めば酔っ払う酒を、顔色一つ変えずに飲む彼女を見ているうちに、実は人間ではないのではないかと仮面の店員は思い始めた。
もちろん、世界の番人としてネイラが人間であることは十二分に承知しているのだが。
「わたしは二十歳の大人ですよ? 職にだってついてます。なのになんでまた学校なんかに行かなくちゃいけないんですか! ほんと貴族様ってのはどいつもこいつも平民を馬鹿にし過ぎです」
アストレイ国の守護兵士団は他国にもその名が響き渡るほど強いことで有名で、国民の憧れの的となっている。養成学院には毎年大勢の入学希望者が押し寄せるが、入れるのはほんの一握り。つまり学院に入学するだけで凄いことなのだが……何故かネイラはそれを知らないらしい。
彼女はこれからアストレイ国初の女性守護兵士となり、一騎当千の活躍を経て団長にまで上り詰め、後世にその名を残す存在となる。そのためには学院への入学が大前提だというのに。
まあ、ネイラが素直に推薦状を手にしていれば、ここに来ることなどないのだが。たとえそのきっかけが馬車と激突という無茶苦茶なのもだったとしても。
彼女の行動を軌道修正するには何と言えばいいか、仮面の店員は考えた。
「とまあそういうわけで感情のままに布を織ってたら織り機をぶっ壊してしまった次第でして。もっと頑丈な織り機にして下さいって店長に言ったら、お前が馬鹿力すぎるんだよって怒鳴られちゃいました。わたしこんなにか弱い乙女なのに、ひどいと思いませんか?」
「そうですね……おそらく店長さんはこう仰りたかったのではないでしょうか。お客様には仕立て屋よりもっと相応しい職業がある、と」
「うーん、そうなんですかねー?」
本心から出た言葉に違いないと思ったが、仮面の店員は、きっとそうですと答えた。
「お客様に推薦状をお持ちになられた方も同様に、お客様ご自身でもお気づきになっていない、秘められた力を見抜いたのだと思います。お客様はまだお若くていらっしゃるのですから、ご自身で可能性を閉じてしまわれずに様々なことに挑戦してみてはいかがでしょうか。きっとその経験を通してお客様の天職が見つかるでしょう」
馬車に激突して無傷の時点で秘められてないどころか丸見えなのだが、ネイラは店員の言葉に素直に頷いた。
「……そうですね、うんそうしてみます! 貴族様が道楽気分で面白半分に書いただけだろうけど、せっかくだから行ってみることにします。授業料も無料みたいだし。ご馳走様でしたー」
「またのご来店をお待ちして……おります」
鼻歌まじりに去って行くネイラの背中に、仮面の店員はいつもより控え目にそう声をかけた。
「ほとんどの人間はここに来るのは一度きりなんだが……あいつは例外になるかもしれないな」
推薦状をネイラに持っていったのは彼女の生涯の伴侶となる男なのだが、そうなるためには幾多の障害を乗り越えなくてはならなそうだ。
「はぁ、出来ればもう来ないでくれよ……」
世界のバランスを保つのは楽じゃない。仮面の店員は誰もいなくなった店の中で軽く首を振り、グラスを洗い始めた。