☆7 夢のおわり
「ねえ、後山君」
放課後。少しけだるそうに箒を動かす後山君の後姿が、私は好きだ。その後ろ姿を見ているだけで幸せだったはずなのに。それ以上を求めるようになったのは、いつのことだろう。
「ん?何、二木さん」
そう振り返る彼はとても嬉しそう。
「私のこと、好き?」
「そりゃ、もちろん……」
「待って!!」
言いかけた彼の言葉を遮り、私はペットボトルを差し出した。彼は不思議そうにペットボトルを見る。
「これ、新発売の〈人魚の目覚め〉味のジュース。答えは、このジュースを飲んでから教えてくれない」
「二木さんって、どうしていつも得体のしれない味のジュースを買ってくるの?」
「いいから、飲んでってば」
半ば強引にペットボトルを持たせる。
「じゃあ、一口もらおうかな」
彼は戸惑ったように首を傾げながらも蓋をあけた。透明の液体が彼の口に注がれる。大きな喉仏が、ゴクッゴクッと上下する。
その様子を私は瞬きもせずにずっと見つめていた。彼の喉仏の動きはそれはそれは魅力的で、それだけで私の心をときめかせる。
ああ、あの喉仏も何もかもが、もうすぐ、私のものではなくなるのね。
もっと、悲しくなるものだと思っていたけれど、今の私は意外と冷静だった。いや、正確に言うなら、自分自身は顔を真っ赤にして今にも泣きだしそうになっているけれど、同時に、至極冷静にその様子をじっとみつめいるもう一人の私がいた。もう一人の私は、泣き出しそうな私の頭をなでて、「自分がつらい思いをしてまで、彼を元通りにしてあげるなんて偉いね」と優しく呟く。
「うん、これも普通よりちょっと甘いソーダって感じだね。正直、前のやつとどう違うのか分からないよ」
この際、どうでもいいコメントを彼は吐く。
「ね、後山君」
私は、足元の綿ぼこりを見ながら尋ねた。
「なに?」
まるで覇気のない声はいつも通り。
「なんで後山君は細胞が好きなの?」
すると、急にねじが数本吹き飛んだように明るい声になった。
「だってさ、細胞って僕たちの身体の中に何億匹何兆匹といて、それぞれが日々僕たちのために働いてくれてるんだよ。僕たちは細胞のおかげで生きているんだよ。それ考えるとさ、細胞がけなげに思えてきちゃってさ」
こんなに雄弁に語る後山君を始めてみた。
顔を赤くして、眼鏡の奥の瞳をキラキラ輝かせて、その様は、まるで少年のよう。思わずつられて、私まで笑っちゃう。
かなわないな、そう思う。
細胞にも。――後山君にも。
綿ぼこりが涙のせいで少し歪んで見えたのは、誰にも内緒だ。
「ねえ、二木さん」
ふいに、背後から後山君に名前を呼ばれた。
「何?」
私は振り返らずに答える。
「どうして、二木さんは僕なんかを好きだって言うの?」
例の如く純粋無垢な少年のように、尋ねる。
「二木さんは友達もたくさんいるし、僕なんかよりももっといい人と付き合うべきだと思うけど」
彼の口から『付き合う』という言葉が出たのが意外だった。そういう男女の間のあれやこれやなんてまったく知りもしないのだろうと思っていたから。だが、やはり後山君も年頃の男の子だったということか。
「私には、後山君が一番いい人だと思える」
「どうして?」
彼がしつこく聞くので、わたしはきっぱりと答えた。
「そんなの、私が聞きたいわ!!」
こんな奴の、どこがいいの。たいしてカッコよくもないし、眼鏡はダサいし、細胞オタクだし、運動神経が悪いし、クラスの皆からキモがられてるし、こんな男、大っ嫌い。なのに…。
「でも胸がドキドキするんだもん。後山君を見ていると切なくて、苦しくて。でも、嬉しくなるの。あなたを見ていると、幸せな気持ちになるの」
「なるほど、理由がないのに胸が痛む。そういうものなんだね、恋って」
ふーん、彼は平たんに鼻を鳴らしながら続けた。
「だったら、二週間前、二木さんが僕に『好きだって』いった次の日から二木さんを見ると、胸が苦しくなった。この状況も恋というものなのかな」
え……。
あまりにもさらっと言ったものだから、私は意味をすぐに飲み込むことが出来なかった。
「じゃあ、僕は二木さんに恋をしているのかな」
だんだんと後山君の言葉が私の頭の中でぶわっと広がって、そしてピンク色に染まっていく。
どうやら、あの薬はいらなかったみたいだ。
最後まで読んでくださって、本当にありがとうございました。