☆6 夜をさがして
掃除が終わると、「帰ろっか」と後山君が声をかけてくれた。それを私は「ごめん、今日は用事があるから」と断った。
彼をおいて、私は一人走り出した。猛ダッシュで校門を抜け、繁華街まで一気にたどり着く。繁華街は今日も人であふれていて、人ごみの中を縫うように走り抜けていった。二日前通った路地裏に入る道を見つけ、私はまるで吸い込まれるようにそこに入っていった。飲食店の裏側は今日もおいしそうな煙があちこちでもくもくと上がっている。つい二週間前に通ったばかりの道なのに、ひどく懐かしい気持ちになる。だって、この二週間で本当にいろいろあったから。
けど、ゆっくり感傷に浸っている場合ではない。急がなくては。
私は息を整えることなく、走り続けた。
雑木林を抜け、たどり着いたのはあの不思議な青い鞄を持った少年と出会った神社であった。
空には夕日が輝き、あたりをオレンジ色に染めている。
神社の前の階段、そこで少年はギターを弾いていた。けれど、今日は少年の姿はなく、ただ虚しく夕日が照らしているばかりであった。
それを見て私は一気に気が抜けて、その場でへたり込んでしまった。
どうしても、少年に会いたかった。会って、元の後山君に戻す方法を教えてもらいたかった。
元の細胞にしか興味を示さない、私のことなんて絶対に愛してくれない、後山君に。
二週間前に来た時よりも時間が少し早いからまだ来ていないだけかもしれない、そう思って、階段に座ってしばらく待つことにした。
一時間半ほどたつと、日も暮れ、空には月が登りだした。風が徐々に冷たくなっていく。私は自分を抱くようにしながら、ぶるぶる震えた。それからまた一時間ほど待ったが、アオ少年は現れなかった。
さすがにあまりにも帰りが遅いと、親に心配をかけてしまうので、家に帰ることにした。
暗い道を、とぼとぼと歩いていく。途中、背の低い華奢な少年を見かけたので、アオ少年かと思い声をかけそうになった。しかし顔をよく見てみると、まったくの別人だった。
歩いていると、踏切にひっかかった。向こうからガタゴトと音を立てて、電車がやってくる。黄色のライトがパーッとあたり一面に広がる。
踏切の向こう側もライトに照らされる。と、そこに少年の後ろ姿があった。背中にギターを背負っており、肩には青いカバンがかけられている。
私は背中に向かって、
「すいませーん」
と大きな声で叫んだ。けれどその声は電車のガタゴトに紛れて少年の元には届かない。彼は私の存在に気付かずにどんどん向こうへ歩いて行ってしまう。早く言って引き留めたい。けど、踏切は全然上に上がってくれない。もどかしかった。
どうか、彼を見失っていませんように。祈るような気持ちで通り終わるのを待っていた。
完全に通過し終わり、踏切が上がる。目を凝らしてみると、視界に入るギリギリの距離のところに青い鞄の少年がいた。
私はひとまず胸をなでおろし、すぐさま彼を追いかけて行った。
「すいません!!」
呼びかけると、少年は首だけをくるりとこちらに向けた。闇夜の中で、街灯の光がちょうど少年の顔をぼやっと幻想的に映した。背は私より少し高い。体系を見ると、たぶん私と同じ年くらいか少し年上だという感じがするのだが、その顔には子供特有のあどげなさがまだ残っている。
そのアンバランスさが、見ているものを奇妙な気持ちにさせる。
以前鳥居の下で出会った、青い鞄の少年に間違いなさそうだった。
「お願いがあるんです」
肩で息をしながらも言った。
「聞いてもらえないでしょうか」
少年は私の姿を見ても、驚きも喜びもしなかった。そこには何の感情も浮かんでいない。ただ星の宿る黒い瞳に、私の姿を映すだけ。美しい瞳に吸い込まれそうになるけれど、私はそれに耐えてつづけた。後山君を戻したいという気持ちばかりが急いて、身体では納まりきらず、言葉があふれてしまうのだ。
「先日、あなたからもらったピンク色の薬。あの薬は本物でした。あなたが言ったとおり、あの薬を私の好きな人に飲ませたら、今まで細胞にしか興味がなかった彼が、私を好きになってくれたのです」
少年は頷くこともせず、突っ立ったまんまだ。
「本当にうれしかった。彼が私を好きだなんて、夢みたい。信じられなかったけど、彼がはっきり私を好きだと言ってくれるから、そのたびに幸せを感じて、胸が熱くなりました。素敵な薬をくださって、本当にありがとうございました」
胸に手を当てて、深く頭を下げる。
「けど、けど……違ったんです」
急に、喉のあたりが熱く、痛くなってきた。
「確かに後山君と付き合えたことはうれしかったんですけど、それは違うくて……私を好きだと言ってくれる後山君は、本当は後山君ではなくて……変ですよね。私が仕向けたことなのに」
涙がじゅんわりと浮かんで、視界がぼやけた。少年の美しい顔が歪んで見える。
胸を上下にはげしくうごかしながら、一生懸命しゃべるが、うまく自分の気持ちが言い表せない。自分でも何を言っているかよくわからなくなってきた。それでも、心に浮かんだ気持ちを、吐き出し続ける。
「私、気付いたんですよ。私が好きなのは、誰にも何にも染まらない、ただ細胞が大好きなだけの後山君だって。だから……」
頭の中はぐっちゃぐちゃのごっちゃごちゃ、口の中はカラカラで、もう自分でも訳が分からなかったけれど、
「お願いです。この間もらったピンクの媚薬を解く薬をください。そして、元の後山君に戻してください」
自分の一番伝えたかったことを、言った。青い鞄の少年は私の姿を瞳にぼんやり映すだけで、しばらく何も言わなかった、
「お姉さん」
やっと彼の薄い唇から零れた声は、唄うように美しくて滑らかだった。彼は相変わらず瞬きをしないで、私を、私の眼をみる。
やがて、彼はかくっとぎこちない動きで首を傾げた。
「お姉さん……誰?」
え……。
さっきまでマグマみたいに熱かった心が、急激にひゅんっと冷たくなった。
「お姉さん、誰なの」
綺麗な声が、残酷に響く。
どうして、私のこと、覚えてないの?
「ボクがお姉さんに薬をあげたの?」
「え、うん。そうです。確かにあなたにピンクの薬をもらいました。『この薬をおねえさんが一滴飲む。そしておねえさんが好きだと思う人にも一滴飲んでもらう。そうしたらね、奇跡が起こるよ』って言って」
私が説明してもピンと来ていないようで、少年はふーんと頷きながらも腑に落ちないといった顔をしていた。
もしかして、二週間前のあの出来事を覚えていないのだろうか。
「で、あの媚薬を解く薬ってありますか?」
「あるよ」
少年はいともあっさりと答えた。私は嬉しくなってついつい少年の手をつかんだ。
「それ、それをください」
「どうして?」
「どうしてって、さっきも説明したでしょ。私が好きなのは元の後山君であって、今の後山君ではないって!!」
少年がさっき説明したことをまた不思議そうに聞くので、思わず語気を強めて答えてしまう。
「あれは、後山君の姿をした別人なんです。薬で造られた別の人格なんですよ。私が好きなのは、あんな後山君じゃあ、ない」
話していると、喉の奥がかーっと熱くなって、涙がぽろぽろと零れた。
もとはといえば、この少年がわけのわかんない薬を渡したから悪いのだ。そのせいで私がこんなに苦しんでいるのに、少年は悪びれることもなく平然と突っ立っている。それが許せなかった。
けど、本当はちゃんとわかっているのだ。少年は何も悪くない。悪いのは効果を知っておきながら、薬を用いた私自身。後山君を変えてしまったのは、他でもない、私自身だって。
分かってて、それでも少年に当たり散らすように怒鳴っている自分が、情けなかった。
少年は理不尽に怒られても、表情を変えなかった。黒い瞳は相変わらず、私の姿をそのまま映すだけだ。
まるで精巧に造られたビスクドールのよう。感情を持たず、美しい顔でただ、そこに立っているだけ。夜風が、少年の髪を冷たく揺らす。
「分かった」
しばらくたって、少年は白い唇を開いた。
「お姉さんがどうしても薬がほしいっていうのなら、あげるよ」
そう言って、鞄から小瓶を取り出し、私に手渡した。前と同じデザインの瓶だ。ただ違うのは、前がピンクだったのに対し、今度の中身は藍色をしている。
「それを飲めば、ピンクの薬の魔法が解けるよ」
「ありがとう、ありがとう」
藍色の薬はピンクの薬と違って、月の光を受けても、キラキラ光らない。けれど、涙でにじんで見えるせいで十分綺麗に見えた。
「けど、その薬を一度飲んだら、もうピンクの薬を飲んでも、二度とその人はお姉さんのことを好きになってはくれないよ」
「それでもいいの。それでも、私が後山君を好きだという気持ちは変わらないから」
両手で、小瓶を優しく包んだ。瓶はとても冷たくて、ほてった私の身体を冷やしてくれる。
「そっか。お姉さんが喜んでくれるなら、よかったよ」
風が、少年の前髪をあげる。はっきりと現れる少年の二つの、目。黒くて深くて、美しくて。
「お姉さんの幸せが、ボクの幸せだから」
と、少年は一度目を閉じて、またすぐに開いた。その瞬間、長い睫が揺れて、目の奥がきらきらと光った。
あ、私、この子が瞬きをするのを、はじめて見た。
「じゃあね、お姉さん。バイバイ」
少年はそういうと、私の返しも待たずに歩いて行ってしまった。その細い背中はすぐに夜の影に消えた。
手元の小瓶は私の熱が移ったせいか、少しぬるくなってしまっていた。