☆5 ピンクになったり群青になったり
掃除を終わらせた私たちは、二人並んで校門を潜り抜けた。周りを歩くのは学年やクラスが違う子ばかりだったので、別に視線は気にならなかった。
背は私より五センチほど高いくらいなのに、足は私よりずっと長くて、ついていくのが大変だった。
駅前の喫茶店を目指して並んで歩いていると、これってデートなんだよねと改めて実感し、にやにやしてしまう。男の人とのデートはこれが初めてだった。
初めての相手が、大好きな人とだなんて、本当に幸せなことだ。駅前の地下にあるレトロな雰囲気の喫茶店に入っていく。後山君がドアを開けると、頭上でカウベルがカランコロンと可愛らしく鳴った。木でできた机といすが二つほど並び、カウンターの向こうでは髭のマスターが優雅な仕草でコーヒーカップを洗っている。
私たちは一番奥のテーブル席についた。私はキャラメルマキュアートを、後山君はオリジナルブレンドを注文する。
「ねえ」
沈黙になるのが怖くて、私はすぐに話しかけた。
「後山君はよく喫茶店に来るの?」
「いや、あまり来ないな」
「へえ、そうなんだ……」
本当は、こんなことを聞きたいわけではない。もっと他に聞きたいことがいっぱいあったはずだ。後山君のこと、いっぱいいっぱい知りたいのに。いざ機会を与えられると、とっさに思いつかない。
何を言えばいいかわからなくなって、黙りこくってしまう。もともと人と話をするのは上手ではないのだ。沈黙が二人を包む。店に流れるジャズミュージックがやけに大きく聞こえた。
お願いだから後山君、何かしゃべってよ。と目で訴えるが、頭では無駄だとわかっている。彼はクラスで一二を争うほど無口な男だ。細胞に夢中になりすぎて、クラスメイトとの会話の仕方なんて知らないに違いない。
コーヒーが運ばれてきて、助かったと思った。コーヒーを飲んでいる間は無言でも、苦にならないはずだ。一口、コーヒーをすすると、キャラメルの甘くも香ばしい香りが口いっぱいに広がった。後山君はミルクも砂糖も入れず、飲み始める。それでも、眉を顰めたりしない。
「後山君、コーヒー、ブラック派なんだね」
「ああ、甘いのはあまり好きじゃないんだ」
そうなんだ。よし、一つ新しいことを知れた。心の中でガッツポーズをする。
「じゃあ、何が好きなの?」
一度声を出すと、とっかかりが外れたみたいに、またすぐに質問をすることが出来た。彼はすぐに答えた。
「何が好きって……二木さんだよ」
「へ?」
彼は全く照れもせず、平然と言った。逆にこっちが面喰って声が裏返ってしまった。
な、な、なにしれっといってくれちゃってるのよ。
「あ、ありがとう。そういってもらえてうれしい」
耳に熱を感じながら、お礼を言うと、
「いや、思ったことを言っただけだし」
と、無表情でコーヒーをすすった。
「そ、そう」
恥ずかしくってお腹の下あたりがむず痒い。と同時に心の奥底にもやっとわだかまりのようなものがあるのを感じた。彼の言葉に頬を緩めつつも、素直に嬉しいと思えない自分がいた。なんだろう、この違和感は。
「後山君は、さ」
コーヒーの表面を見つめながら、尋ねる。表面のクリームがぐるぐると渦を巻いている。
「どうして、細胞が好きなの?」
以前からずっと聞きたかったことだ。教室で暇があれば細胞の本を見て、何が彼をそんなに魅了しているのだろう。
「細胞?」
「そう。だって後山君、いつも幸せそうな顔で白血球や血小板やミトコンドリの写真を眺めているじゃない」
同じまなざしを私に向けてくれたらどんなにいいか。そう、どれだけ願ったことだろう。
「ああ」
後山君は切れ長の目をさらに細めて、少し考えるようにしてから、首を傾げた。
「どうしてだろうね」
カサカサに乾燥した血色の悪い唇から発せられた、低い声。
「どうしてって…」
「うーん」
顎のあたりを撫でながら、彼はうなる。
「どうして俺は細胞の本を見ていたんだろうって考えていたんだ。幸せそうな顔で眺めていたんだったら、俺は細胞が好きだったってことなんだろうけど、どうしてかな、今はまったく細胞に魅力を感じないんだよ」
それから目線を私の方に向けた。
「でも二木さんを見ていると、胸がきゅーっと苦しくなるんだ。切なくてどうしようもないのに、だけどずっと二木さんを見ていたい。二木さんを見ていると、幸せな気持ちになるから」
ストレートな愛の言葉を直接投げかけられ、私の心臓は、きゅうんと甘くときめくように鳴る。
と、同時に胸の奥底がざわざわとざわめいているのを感じていた。
ずっと焦がれていた、後山君。そんな彼に愛の言葉を向けてもらえて、嬉しくて仕方がないはずなのに……。
この言葉は本心ではないのだ。〈魔法の薬〉によって人工的につくられた気持ちなのである。
後山君は、私のせいで言いたくもないセリフを言わされているんだ
ごめん、ごめんね……。
そう考えると、今までただ甘いだけであったキャラメルマキュアートがとたんに苦くすっぱいものに感じられる。口に合わなくて吐き出したいけれど、そんなみっともないことはできないから、我慢してゴクリと飲み込んだ。
それから先、私たちは何を話したのだろう。私から何か話しかけて彼がそれに答えて、その繰り返しだったような気がするのだけれど、内容をいまいち覚えていない。どうしようもなく平凡でとりとめのない話だったからだろか。それとも、私の頭の中がまったく別のことでいっぱいに満たされていたからだろうか。
次の日の朝、学校で後山君と廊下ですれ違った。後山君は頬を赤らめながら「おはよう」とあいさつをしてくれた。私も、少し首を曲げて「おはよう」と返した。今までは学校でであってもあいさつなんてしたことなかったのに。
ああ、私たちはもう他人ではなくて、彼氏と彼女なんだと実感した。
けれど友達たちには後山君と付き合っていることは内緒にしておいた。教室で彼が話しかけてくることはなかったので、バレる心配もなかった。
休み時間が来るたび、私はちらちらと後山君に視線を投げかけた。すると彼も私を見ていて、何度も目が合った。後山君は嬉しそうに頬を緩ませて会釈をした。私もつられてお辞儀した。
あの不思議な薬を口にしてから、後山君は細胞の本を開かなくなった。
私たちが付き合いだしてから二週間がたった。その間、誰も私たちの仲を勘ぐってくるものはいなかった。学校で言葉を交わすことはほとんどなかったし、私と後山君には共通点なんて一つもなかったから、まさか付き合っているなんて誰も思わないのだろう。
付き合っているといっても、特別なことはほとんどなかった。デートするお金もないので、放課後、どこかへ寄って立ち食いをするのが精いっぱいだった。二人だけでいられる時間が少ない分、せめてメールでやり取りくらいはしたいと思っていたが、後山君は携帯もパソコンも持っていなかったので、それも無理だった。
放課後の掃除の時間、私たちはまた廊下で二人っきりになった。
私は無心に廊下を掃いていた。後ろから彼が箒を動かす音が聞いていると、背中で彼の存在を感じ、体がほてったように熱くなる。
せっかく二人っきりになれたのに、話しかけられないどころかろくに顔も併せられなかった。
「ねえ、二木さん」
ふいに背後から後山君が話しかけてきた。
「へ?」
声が情けないくらいに裏返る。振り向くが、やっぱり顔は見られない。
「二木さんって、本当に僕のこと好きなの?」
頭上から、彼の低い乾いた声が降ってくる。
「え。どうしてそんなこと、聞くの?」
自分の声も、同じくらいカサカサに乾いていた。
「どうしてって……だって二木さんさっきから僕に背中を向けて、全然こっちを見てくれないじゃないか」
少し、すねたような甘えた声を出す。
とたん、〈違う〉と、思った。
「後山君はさ、」
灰色の廊下を見つめながら、静かに声を発する。
「もう本当に、細胞が好きじゃなくなっちゃったの?」
二週間前、告白した時も同じようなよれよれで情けない声が出た。けれど、あの時はこんなにも悲鳴には近くなかったはず。
彼は平然と、首を振った。
「うん。前も言ったでしょ。僕は細胞なんて好きじゃない。好きなのは、二木さんだけだよ」
違う、違う、違う。
ドクドク。身体の芯が、マグマのように熱く燃えたぎる。けれど頭の中はそれとは正反対に真っ白に冷えて、私はもう何が何だか分からなくて、ただ震えることしかできない。
これは私が望んだ結末。
私が求めた、幸せのはずだったのに。
「ありがとう。そういってもらえてとても嬉しいよ」
涙で、廊下が歪んで見える。透明な涙が、頬を伝う。
「だけど……」
ここまでしゃべって、声を詰まらせた。
だけど……なんだろう。この言葉の後に何とつなげればいい?私は嬉しくて幸せで仕方ない。これ以上、いうことなんてないはずなのに。
言わずにはいられなかった。
「ごめん、ね」
うまく言えないから、ただ一言言った。急に謝られて、後山君は意味が分からないだろう。実際、目の前で彼は「え?」と首を傾げていた。
それを見て、私は慌てて笑顔を作った。
「ううん、何でもない。気にしないでね」
「あ、うん。まあ、別にいいけど」
後山君はまだ不思議そうにしながらも、私が掃除を再開するので箒を動かし始めた。それきり、私たちは会話らしい会話をしなかった。