とある商人から見たお嬢様 後編
淀んだ心をそのままにしていると、いろいろと、許せることが増えてきた。五年の歳月を経て、大人になった、とも言えるのかもしれないが。
今では誰も、俺を貴族嫌いとは言わない。むしろ、積極的に関わりを持っている。当然下劣な奴もいるが、心根が優しい奴もいるのだと知った。
「お兄ちゃん!」
妹が、嬉しそうな顔で駆け寄ってくる。その素直な笑顔が、別の誰かを彷彿させる。
というか。
普段は小生意気な妹が、この顔をしているのが少し怖い。
「見てよこれ! ナンシーのコンサートのチケット! すごくない!? 倍率半端無いのに当てたあたしの運の良さ!」
「………ナンシー?」
誰だそれ、と思ってから、ああ今やけに流行っている歌姫のことか、と思い当たる。歌だけじゃなくた演技も凄いんだから、とは妹の談だが、極めてどうでもいい。
「二枚当たったから、仕方ないから一緒に連れていってあげる」
「俺はいいよ。気になる彼と行けば?」
「それじゃあ心臓が持たないでしょ!? この日はナンシー一筋なんだから、そのくらい分かってよ!」
分かるかよ。
女心は面倒臭い。本当にそう思う。
どうやら、ドキマギせず、かつ足として遠慮なく使える兄は、お供にピッタリらしい。はあ、とため息を吐くと、嬉しそうにしてよね、と文句を言われた。
「流石は人気ナンバーワンの歌姫だな」
会場は、ひどい人混みだ。妹は、のろのろ歩く兄に愛想をつかせて、単身、気色悪い程の人だかりができているグッズ売り場に乗り込んでいった。
先に席に座っているか、とチケットを片手に会場に入る。意外と前の方だ。確かに妹は、運が良いのかもしれない。
時間が余っているので、パンフレットに目を通す。
奇跡の歌声をご堪能あれ―――。
そう書かれたチラシには、本人の姿は無い。舞台以外の場所には、顔を出さないらしい。それは、外に持ち出せるチラシも例外ではないらしい。徹底しているな、と思う。
隠されれば隠されるほど、希少価値は高まる。「俺はあの歌姫の顔を見たんだぜ」と言うことによる優越感。そしてその価値に見合う歌声。
上手い商売だ、と笑う。
ナンシー。ナンシーね。
不意に、ラドラゼルフ家のお嬢様を思い出す。忘れたこともない、一度も呼ぶことが無かった、あの名前。あの名前の愛称として代表的なのも、確かナンシーだった。
妙な偶然もあるものだ。
「お兄ちゃんお待たせ!」
多少よろっとなった妹が、数々の戦利品を手に、帰ってきた。「お兄ちゃんの分も買ってきたんだから、感謝してよね」と彼女はフフンと笑いながら、小さい袋を手渡す。なんだこれ、と言えば、キーホルダー、と返事があった。
母にしろ、妹にしろ、なんだってキーホルダーで俺が喜ぶと思うのか、謎だ。
「じゃああたし、ちょっと化粧室で髪整えてくるから、荷物盗まれないように見張っててね!」
妹はパワフルにも、また飛び出していった。やれやれ、と思いながら、キーホルダーをポケットに突っ込む。妹がその場にいたら、ここで開けて、わざとらしく喜ばないと怒鳴られる。それが避けられただけでも感謝しよう。
十数分後、「めちゃくちゃ混んでた」とヘトヘトになった妹が戻ってきた。
「キーホルダー、見た?」
「ああ。ありがとう」
サラッと嘘を吐き、礼を述べる。
「あれ、すごくない!?」
「…そうか? 普通だろ?」
苦し紛れに言えば、なんとかセーフだったようで、「ま、そりゃ、普通なんだけど。でもそうじゃなくて…」と妹は唇を尖らせた。
「憶えてないならいいや」
何を、と訊ねる前に、開幕の合図がした。
最初からメインが出てくるわけではないらしい。代わる代わる、小さな劇が繰り返される。当然彼らも聴き惚れる程上手い。これ以上のものがあるというのか。会場の期待は、高まっていく。
ハードル、あげるなあ。
俺は一人、冷めた顔でそんなことを考えた。当然、楽しんではいるけれど。
会場が騒めく。いよいよだ、と誰かが呟いた。
幕が開く。
「きゃああああああ!」
そこらじゅうから、歓喜の悲鳴が聞こえた。それから、溢れんばかりの拍手。
まだこれからだというのに。普段だったら、そう笑っただろう。
けれど。
「ロザンナ…」
あり得ない。
あり得ないはずだ。しかし。
それは、かつて悪名高きラドラゼルフ家の良心、あるいは生粋の馬鹿者と嗤われた、あのお嬢様にしか見えなかった。
俺の呟きは、隣の妹の歓声で掻き消えたはずだったのに、壇上の彼女は、一瞬こちらを見て固まった気がした。いや、気のせいだ。こんな広い会場で、目が合うはずがないのだ。
彼女が歌い始める。奇跡の歌声。そう称するに相応しい、透き通った歌声。
悲しい恋の歌が、響き渡った。
「すごかったねええええ!」
妹が、興奮している。
「ああ…」
俺は、今見た現実が、夢ではないかと疑っていた。だって、あまりにもこれは、俺がこうであればいいのにと、思った通りだったから。
「それにしても、お兄ちゃんも…挨拶させてくれって言いに行っちゃうくらい気に入るなんて」
「ああ…」
「…ねえ、魂抜けてるよ?」
「ああ…」
気の無い返事ばかりの兄に、妹は「つまんなーい」と頬を膨らませた。
どうやって家まで辿り着いたのか、よく憶えていない。上着を脱いだ時に、ポケットに違和感を覚えた。
妹に押し付けられたキーホルダーだ。
そういえば、憶えてないのか、とかなんとか言っていたな。首を捻りながら、袋からキーホルダーを取り出す。
「………え」
それは。
多少細工は違うが、かつて彼女がつけていたキーホルダーによく似ていた。
ロザンナ。ナンシーという名で活動する歌姫。ロザンナの愛称。よく似た顔立ち。経歴不詳。没落した貴族。公の場には顔を出さない。似通ったキーホルダー。彼女しか知るはずのない、ソレ。
様々な情報が頭の中を飛び交っていく。
「あぁ…!」
神よ。俺の思い違いではないのだと、言ってくれ。
顔を手で覆い、蹲る。唇が震える。目頭が熱くなってくる。
もし、もう一度チャンスがあるのなら、次は絶対に、諦めたりしないだろう。相手の事情も自分の立場も、何もかも利用してやる。そう思っていた。
俺は気付く。今がその、再び訪れたチャンスなのだと。
五年間押し込め続けた覚悟は、簡単には壊れはしない。俺は笑った。
いい具合に成長しました。
お兄さんを利用する気満々な妹さん、パワフルです。一人だと荷物番とかいろいろ大変なので、彼女的適材を連れていきました。
結果的には、お兄さんとしても利はありました。うん。
ライブならともかく、コンサート…貴族の皆様方がいるようなところだと、大声で叫ぶとかマナー違反な気がしますが、そこの部分は蓋をして………。(うふふ)
さてさて、ここでアンカー登場です。
はい、バトンを渡して………商人さん、離してください。渡してください。(無理矢理に交代)