とある侍女から見たお嬢様 中編
そんな彼女の恋は、ついに終わりを迎えた。他ならぬ、彼女自身によって。
引き金は、陰口だった。
普段は親の権力を恐れて、なかなかロザンナの耳には届かないのだ。しかし、その日はたまたま、二人組がコソコソと話しているのを、ロザンナが目撃してしまった。
「知ってる? あのラドラゼルフ家の娘の話」
「あー。エルネスト様に言い寄ってるって件? 馬鹿だよねえ、あの人、貴族嫌いなのにさあ」
「ていうか、アレもどんだけ手を広げれば気が済むわけ、って感じ」
―――シュナイダー商会まで裏で繋がるようになったら、ラドラゼルフ家も“安泰”だよね。
悪意たっぷりの言葉に、ロザンナは目を見開いた。それからポツリと、「私としたことが…」と呟く。
「お嬢様?」
「ああ、エミリー。私…どうしましょう。恋は盲目ってこのことね」
あからさまに肩を落として、傷付き、後悔しているロザンナは、はあ、とため息を吐いた。
「私はラドラゼルフ家の娘。私と関われば、お相手の名誉に傷を付けることになるわ。まして彼は、信頼が第一の商人。最初で最後の恋だからって、それを壊すなんて、許されることではないのに」
「お嬢様…」
確かに、ラドラゼルフ家と関わるということは、すなわち「あいつも実は…」という目で見られることを意味する。それは、否定しようがない。事実だから。
しかし、心を痛めているご令嬢に何も声を掛けないというのも、なかなかに辛いものがある。よし、と気合いを入れて口を開く―――よりも早く、ロザンナが「私、決めましたわ!」と叫んだ。
「シュナイダー様のことは、きっぱり諦めます。これ以上ご迷惑をお掛けしてまで、私の我儘を突き通す訳には参りませんもの」
泣きそうな顔で、ロザンナは笑った。
「私は、ラドラゼルフ家のロザンナ。心を殺し、道具に徹する、以前の自分に戻ることなんて、容易ですわ」
私はこの時、この主人を馬鹿だと思った。同時に初めて、彼女をどうにかして助けられないかと思ったのだ。
その日から、彼女は自分の言葉通りに動いた。本当に心を殺したように。
元々、エルネストとの接点は、ロザンナが努力して作り出しているものだった。中庭に行く習慣だって、エルネストがそこを通ると知っていたからだし、朝少し早めの時間に着くのも、彼がその時間に登校するからだ。
ロザンナは、更に早い時間に登校するようになり、中庭に行くことも止めてしまった。それだけで、エルネストと会う機会は一切無くなった。
徹底的に自分を律することができる彼女は、たとえ窓から彼が見える場所にいようが、決して窓の外に目を向けることすら、しなかったのである。
代わりに、本当に心をなくしたように、ぼんやりとどこかを見つめることが多くなった。あれだけ幸せそうに笑っていたのに。今は笑っても、幸せそうではない。いや、笑顔は素敵だ。エルネストの前で見せた笑顔を知らなければ、本当に笑っていると錯覚する程には、上手だった。
「お嬢様、よろしいのですか」
「エミリー、貴女の優しさに感謝するわ。でも平気よ、大丈夫」
彼女はそう言い、柔らかく笑った。
その一ヶ月後、ロザンナの結婚が決まった。
相手は、一切良い噂を聞かない貴族の男だ。歳は四十。ロザンナは今、十八なので、二倍以上も違う。それでも良い相手ならばまだ良かったが、この男は、これまでにも何度も結婚を繰り返し、その度に相手は謎の失踪をしているのだ。
そんな家に嫁ぐことになったのは、高額の持参金目当てだろう。おそらくこの辺りの貴族の中で、一番“条件”が良かったのだ。
「お嬢様、これはもう、逃げるべきです!」
私は、諜報員としての立場を飛び越え、ロザンナに詰め寄った。
「逃げるなんてできないわ。逃げる先なんて無いもの。お父様もお母様も娘を血眼になって探すでしょう。そうして、匿った相手を殺して、私を連れ戻すわ」
ああ、やりかねない。
「ですが…」
「エミリー」
ロザンナは、静かに名を呼んだ。そうして、最近はめっきり見ることが無かった、本当に幸せを感じている顔で笑ったのだ。
「ありがとう。貴女の心、本当に嬉しく思うわ」
―――反則だ。
今、ここで、そんな笑顔を見せるなんて。
押し黙った私の手を取り、ロザンナは微笑みを浮かべたまま、「早まっては駄目よ」と言う。
「貴女は、貴女の仕事を着実にこなすべきよ。こんなことで左右されては駄目」
息を呑んだ。
あくまでも柔らかい瞳を、見つめ返す。その瞳には、なんの気負いも浮かんではいない。
彼女は、ずっと前から知っていたのだ。
私が、この家の悪事を暴くために潜入していることを。
悪意・悪行に満ち溢れたラドラゼルフ家において、彼女はあまりにも聡明すぎた。不憫に思う程に。
ラドラゼルフ家の一人娘が、とある貴族の元へ嫁ぐことは、一週間も経てば、学校中の噂になった。真実もあれば、虚偽もあるが、どちらにせよあまり良い噂ではない。この頃になると、ロザンナがエルネストに迫っていたことは、既に忘却の彼方だった。人々は、終わった恋よりも、新しい刺激のある噂を好んだ。
だからこそ、その邂逅は、偶然以外の何者でもなかった。
「ぁ…」
小さく、声が漏れる。それが、ロザンナが見せた唯一の動揺だった。
ちらりと顔を窺った頃には、その顔には普段通りの綺麗な微笑みが浮かんでいた。それだけだった。
前方からエルネストがやってくる。向こうは、立ち止まった。彼は、ジ、とロザンナを見た。その目は、明らかにロザンナを気になっている目だ。
無理もなかろう。妙なフィルターを通さずに見たロザンナは、本当に魅力溢れる女性なのだ。
彼の視線には気付いているだろうに、ロザンナは歩調を緩めることも早めることもせず、視線を動かすことも表情を崩すこともせず、その横を通り抜けた。
「待っ…て、ください」
絞り出した声にも、反応することはなかった。
直後に嫌そうに眉を寄せたのは、腕を掴まれ、無理やり足を止められたからだ。
「貴女は………」
「お離しくださいませ。人を呼びますわよ」
本当に嫌悪している、と言いたげな顔を作り出す。心の内は違うはずなのに。
「っ、結局は、貴女のお遊びに付き合わされたという訳ですか」
「なんのことでしょう。…ああ、あの時のことね。なあに、まさか本気だなんて思っていなかったでしょう、貴方だって」
彼は動揺したように瞳を揺らした。彼自身、まだ惑っているように見えた。その惑いが無い分、ロザンナは強かった。躊躇いが無い者は、非常に強いのだ。
フ、と鼻で笑うと、ロザンナはエルネストの腕を振り払った。「いい社会勉強でしたでしょう? それではごきげんよう」と嫌味を含ませて笑うと、踵を返す。結構な悪女っぷりだった。女優になれそうだ。
呆然としていた彼は、チャリ、という音に、視線をそちらへ向けた。私も、つられてその音の発生源を追う。―――ああ、これは彼女の作戦の内か、それとも違うのか。どちらなのだろう。
視線の先には、あの時のキーホルダーが揺れていた。忘れられなくて付けたままだったのだろう。どれだけ綺麗に繕って消しても、それだけは捨てられずにいたのだ。―――これが作戦だといったら、私は本当に、彼女に平伏す。
「っ…」
堪らずに飛び出そうとしたエルネストの前に躍り出て、彼の進路を塞ぐ。
攫うなら攫えばいい。けれども、今の彼にその資格は無い。
キーホルダーを見たから、なんて理由付けをしている時点で、アウトだ。
「中途半端な覚悟なら、手を出すのはお止めください。貴方様に、我が主を救い出すのは、到底無理です」
ギッ、と睨み付けると、立ち尽くすエルネストを放置して、ロザンナの後を追った。
追い付くなり、彼女はうふふと幸せそうに笑う。
「シュナイダー様からお声掛け頂くなんて初めてだわ。最後に話せて良かった。いい思い出になったわ」
「…お話の内容がアレでも、いい思い出、なのですか」
引き攣った私に「当然よ」と言った。
恋する乙女は、変なところで強いらしい。
ワザとかワザとじゃないかは、秘密です。
ただ、100%、純粋に忘れていただけではありません。決して。
少なからず作為的な面はあります。
悪意ではないですが、…なんといいましょう、構って欲しくて好きな子の靴に画鋲入れちゃう女の子の気持ちです。いや、そこまで尖ってはないけども。ていうかそんな女の子怖い。
侍女さん視点からだけだと、入れるところが無かったので、苦肉の策で、小説外で暴露。