第96話 痛みなき傷
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精獣が池のほとりにいなくても、剣呑な気配を漂わせているメイドがいようとも、母親は池まで歩いていくと、革袋に水をいっぱいに入れ、重くなったその袋と娘の手を両手に強く握りしめる。幼子のオレンジ色の服は、裾がほとんどほつれ、右の靴先がパカパカと開いていた。
そうして、母娘は去っていった。
ふたりの姿が見えなくなると、少女の姿をした主が小さく息を吐き出した。
「ガーゴイルを置きっぱなしにするのは危険だけど、三日に一度ぐらいなら……」
飲み込んだ先に、どんな言葉があったのか。
後ろに控える黒き精獣もまた分かったようで、翼を広げて池まで舞った。直後、舌のはみ出たグロテスクな口が水を吐き出す。見ていて気持ちいい光景ではなかったものの、縁まで溜まった池の水は、それまでにも増して美しく輝いた。
池が満ちたことに満足したのか、精獣はふたたび主のそばまで戻ってくると、今度はゆっくりと閉じられていく翼と同じ速度で、体が徐々に縮んでいき、手のひらほどにまで小さくなった。
人の身の丈よりやや大きかった精獣が、翼を閉じた彫像に変化し、地面に転がる。
主はそれを拾い上げると、付いてもいない土を指先でそっと払った。
「ありがとう、ガーゴイル」
その言葉を聞いた時、だれであろうとも羨ましく感じるだろう。それほどまでに声は慈愛に満ちていた。
主は白いエプロンのポケットに彫像をしまい込むと、おもむろに顔を上げた。
「ヴォルフ、おまえさ」
今し方まで慈愛があふれていたというのに、彼の表情は突然険しくなった。
主は履き慣れない女物の靴を引きずりこちらへと歩み来ると、やおら細い人差し指を立て、それを我が鼻先へ突き出した。
「なんで、いつまでもそんな聖人みたいな顔している?」
「聖人……?」
「今はどうせフェンリルなんだろ? “我は~主は~”みたいな感じなんだろ?」
「なにを……」
「もういい、帰る!」
主がなにを怒っているのか分からなかった。
靴はまだ彼の足元を掬おうとしていて、華奢な体がふらついている。黒いスカートから出ている両足はいつも以上に白く見える。
いや、足ばかりではない。普段は見えない白い首筋。数本の後れ毛がまるで誘っているように揺れていて__
突如、どうしようもなく欲しいと体がうずいた。その衝動に突き動かされて、少年のあとを追った。
こちらの気配に気づいた少年が、木の下で振り返る。その体を覆うようにして、幹に手をついた。
「なんだよ、いきな――!?」
言葉ごと舐め取るように、艶のある唇を塞ぐ。ヌルリとした舌触りが心地良かった。
人間であるこの感覚は、意識するごとに強くなる。
背中に回された指がもがいて、この体にある欲情を掴み取ろうとしていた。
貪るほどに、口角から唾液が滴り落ちる。どちらのものか分からないほどに、それはドロドロと混じり合っていた。
唇を離し、潤んだ少年の瞳を覗き見る。上気した頬が、少女のように可愛らしかった。
「ホント、いきなり過ぎ……」
凹凸がないワンピースの胸元が、荒い息を繰り返していた。
「悪い、なんか急に……な……」
「急に?」
「自分でもよく分からない」
「急に発情した?」
それは感覚として不思議な言葉であった。
むろん意味は分かっている。
しかしこの体は仮の姿なのだから。
「子孫が欲しいと言うわけではない」
「それはそうだろ、同性なんだし……。ってか今まではどうなんだよ?」
「きみを手に入れたかった、ただそれだけだ」
なにが気に入らなかったのか、彼は胸を軽く小突いて、体ごと突き放した。
「手に入ったから、もういいって? でもこの前も言ったけど、僕はおまえだけの物じゃないぜ?」
「まさか、他にだれか……」
「ふざけんな! そういう意味じゃないから!!」
強く否定した少年の瞳は、怒りに満ちていた。
しかしどこか危うさがある気がして、その細い腕をつかむ。
「俺はずっときみを守るさ」
「おまえ、そればっかりだな。僕は――」
だがその時、頭上から聞き覚えのある声が振ってきた。
『ホーホー、そろそろ終わらせてくれぬかのぉ?』
「うわっ!!」
相も変わらず、地の精霊の不意打ちには弱いらしい。少年は二歩下がることで驚きを表現した。
『おや、いつ性転換をしたのじゃ?』
「してない!!」
『ならば趣味か』
「ってか、精霊のくせに“趣味”とか言うな!」
『苛立っているようだのぉ』
「なんの用?」
するとフクロウは落ちるようにして、木の枝から地面へと舞い降りてきた。クルクルと頭が回る。その動きに釣られて、我々も辺りを見回した。
『もうひとり、そなたを守る人間がいたと思ったのじゃが……?』
「さっきまでいたよ。あの男になんか用なの?」
『用があるのはゲオニクスの方じゃ。ちょいと島まで来てくれないかと。だが、そなたの護衛を連れていってしまうのも、慎み深いワシとしては気兼ねをするのでのぉ』
「は?」
『いやいや、そう怒るでない。どうしてもというわけでもないから。実はあの火竜の件で、少々マズいことがのぉ……』
忘れかけていた竜の存在を思い出し、それと同時にフクロウがなにを頼みに来たのかピンときてしまった。
「もしかして、親か?」
『さすがはゲオニクスじゃ。そう、親が来たのじゃよ』
「だったら返してあげたら? 僕はあの竜が欲しいとは思ってないし」
『返せるものなら返す。だがあの子竜は地表に長く居すぎてしまった。竜たちは人やエルフから敢えて遠ざかっておる。だから子供といえども、仲間を守る為にはその存在を無にしてしまうこともあるのじゃよ……』
「無にするって、殺すってこと!?」
『あの子竜はそなたに懐きすぎたからのぉ……』
致し方がないことだ。
それがこの世界を守る秩序というもの。
秩序なくして、この世にはいられないのだから。
『どうやらゲオニクスは、行きたくないと思っているようじゃの?』
「秩序を乱すわけにはいかないからな。魔物と人やエルフがまぐわあえないように、竜もまた人やエルフとは交わうことは許されない」
「……そうか、分かった」
フクロウより先に返事をした主の表情は、凍てつくほどに冷たかった。
「ヴォルフ、いや、フェンリル、行けよ。子竜のことはおまえに任せる。秩序を乱す存在だと思ったら、守る必要はないから。すべてはおまえの判断だ」
「だがそんなことをすれば、きみを守れなくなる」
「しばらくは大丈夫。戴冠式までは時間があるし、たぶんソフィニアを出ることはないと思う。今のところジョルバンニも全力で守ってくれるさ。それに、僕にとってベルベ島がどれほど大事か分かってるだろ?」
揺るぎのない青き瞳が、鋭い光を湛えている。
「きみがそうしろと言うのなら……」
「解決したら、すぐに戻って来いよ。おまえは永遠に僕のそばにいるのが運命なんだから。どんな姿であろうともね」
その言葉が矢のごとく、魂の一部に突き刺さる。
しかし、不思議なことに今は痛みを感じなかった。




