第93話 麗人 前編
その日は特別なにかがあるというような告知はされなかった。
だから宮殿も街も、特別な準備などせずにいた。ユーリィも特になにもないということを装って、通常通りの公務を熟すことにした。
だが実際には、あまり嬉しくもない出来事が予定されいた。
「ご到着なさったようです」
その知らせを持ってきたのはジョルバンニであった。
「会わなきゃダメ……だよね」
「謁見はオーライン伯爵とともにお願いします、陛下」
もうすでに皇帝のように扱うジョルバンニに辟易しつつ、ユーリィは渋々と立ち上がり、執務室をあとにした。
今朝、実母がイワノフ城から来た。
それはこういう事情によるものだ。
アルベルトことオーライン伯爵が財務大臣に就任することは、数日前の総議会で決定した。これはユーリィの強い希望であるとともに、ジョルバンニも珍しく積極的に賛成したことだった。それと同時にその領地と爵位を、皇帝へと献上されることも決められた。
しかしそうなると今度はオーライン家そのものが消滅してしまう。これを防ぐためにまず、アルベルトが伯爵であるうちにユーリィの実母レティシアと婚姻し、異母弟のフィリップを養子とし、爵位献上後に改めてフィリップにその爵位を授けるという、複雑な手順を踏む必要があった。施行される帝国法で、養子を跡継ぎにすることを禁止したために、このような形となった。
さらにアルベルト自身にも問題があった。
アルベルトの両親はどちらも名門の出身である。しかも双子の兄がパラディスの第一王女と結婚し、ふたりの間には王女まで誕生していた。
だがパラディスは現在、王族が二つに分かれて混乱状態にある。なのでこのままアルベルトが就任すれば、ソフィリアス帝国が第一王女と繋がりがあるようになってしまう。今のところパラディスの内政に関与するのは、新国家には危険なことだ。
そこで早急にレティシアと結婚をさせて、“パラディス王女の配偶者の弟”という肩書きではなく、“ソフィリアス皇帝の義理の父”にしようという話になった。
謁見室に入る直前、物わかりの良い重臣のような口調でジョルバンニが言った。
「お会いになりたくない気持ちは、重々承知していますよ」
「っていうか、母をおおっぴらに公開したくないくせに」
エルフとの混血である母親は、ユーリィよりもさらにエルフに近い容姿をしていた。
ジョルバンニに言わせれば、まだ宮殿や街に残っている貴族たちに、“皇帝はエルフである”と強く意識させることを避けるべきなのだそうだ。
そのせいで母も大勢の護衛を従えながら、その姿を公に見せることなく、宮殿へと連れてこられた。謁見に立ち会うのも、数人の貴族とギルド議員のみだった。
「分かっておいででしょうが、ご身分が違うことを……」
「みなまで言わなくてもいい。そもそも今まで一度も、母とは感動的な再会などしたことがないよ」
謁見室に入ってすぐ、目を見張ったのは母の姿だった。完璧な貴婦人という雰囲気は、豪華な白いドレス姿のせいだろうか。
白いレースがたくさんついているドレスは、赤いリボンの縁取りがされている。胸元は閉じられて、そこにもレースのプリーツがある。ユーリィよりも色の薄い金髪はエルフ女がよくしている三つ編みではなく、綺麗に結い上げられ、耳の上に白い羽根の髪飾りが留められていた。
ユーリィが近づくと、彼女は片手を差し伸べてきた。
その指先を下からそっと支えると、母は深々と腰を落として挨拶をする。ぎこちなさはあるもの、身のこなしは以前と比べてどことなく洗練されていた。
いったい母になにがあったのかと考えて、すぐにその答えが見つかった。
(ああ、そうか。オーライン家のヒルヴェラ夫人か)
あの令夫人が、母に貴婦人としてのあれこれを叩き込んだ。もともと素直な質らしいから、母も大人しく教えを受けたのだろう。物覚えが良いか悪いかは別の話だ。
「お久しぶりでございます、皇帝陛下」
うつむいて、腰を落としたまま母は言った。
「いや、僕はまだ……」
言いかけて、背後に並ぶ男たちの顔をちらりと見る。だれも不機嫌になっていないようなので、否定することは止めてしまった。
「お久しぶりです。お変わりはありませんか」
「はい、ありがとうございます」
母と子の会話としてはよそよそしいものだ。しかしジュゼと再会した時の方が、この百倍ほど嬉しかったのだから仕方がない。
いつまでも無理な姿勢をさせておくのも悪いと思い、ユーリィは母から手を放し、その隣にいるアルベルトの方を見た。
「いよいよ結婚かぁ」
「はい、十日後に迫りました。早いものです」
「なにか不備があったら、なんでも言えよ」
「ありがとうございます。おかげさまでだいたいの準備は整いました。しばらくはソフィニアにあるオーライン家の屋敷で暮らそうと思っています。式をカンティア大聖堂で行えるのは、身に余る光栄ですよ」
アルベルトの言葉に、ここぞとばかりジョルバンニが口を挟んだ。
「本来なら街にあるシュプールゲルン教会が妥当なのでしょうけれど。多くの貴族がそこで式を挙げていますからな。しかしご生母の結婚式に侯爵がご出席しないわけにはいきますまい。そうなればまた大混乱が生じてしまいますのでね」
「民衆が“金の天子”を求めて集まってしまうのは、致し方のないことです」
「参列者はもう決まってるの?」
「あまり大勢にご出席いただくつもりはありません。ここにいらっしゃる方々と、それからヒルヴェラ夫人とフィリップ君も」
「フィリップがソフィニアに来るのか!」
それは嬉しい知らせだった。
血のつながりのない弟は、自分にも家族というものがあるのだと教えてくれた唯一の相手だった。
「彼も、とても兄上に会いたがっていますよ」
「そっかぁ。なら半日ぐらい公務を休んで、フィリップと一緒にいてもいいよな?」
駄目だと言われると覚悟してジョルバンニを見上げると、
「では、そのように手配いたします」
と、ふたたび物わかりの良い家臣のような態度で返事をした。
次の日は相も変わらぬ一日が待っていた。
午前中は貴族院会議があり、ライネスク侯爵領を公爵領にするかが議題であった。
現在、公爵という爵位を持っているのは、ユーリィの父一人である。第二位である侯爵はユーリィを含めて十二人が持っている。しかし皇帝の本来の爵位が、他の者と同じであるのはどうかという話になった。
そこでイワノフ公爵の爵位を剥奪する、ライネスク領を公爵にすると様々な意見が出て、最終的に大侯爵という珍妙な地位を作るということで話がまとまった。
会議の間、ずっと熱弁を振るっていたのは一人の男だ。
『皇帝の実父を罪人にも、平民に堕とすわけにもいきません』
そんなふうに切々と訴えて、皆の意見をまとめたその男はミュールビラー侯爵。歳は五十中頃で、先端が上へと整えられた口髭がある。右の眼窩に片眼鏡を装着し、その紐を首元に垂らしていた。
(ミュールビラー領は、確か南部にあったな……)
もうすでに利権争いが始まっているのだと思うと、ユーリィはなんだかウンザリした。
会議が終わり、執務室に戻るとすぐに兵士がひとりやってきた。彼はなにも言わずに小さな紙を机の上に置き、そして立ち去っていく。これが最近の日常だ。
男は以前に異母兄の下で働いていた二人の諜者の一人。給金は兄の頃と同じように、イワノフ公爵家の私財から定期的に支払われている。
どちらも名前は知らない。
そればかりか話もほとんどしたことがない。謀略やら陰謀やら、そうしたことはあまり好きではなかった。
それに兄のようになりたくない。だからいずれ解雇しようと思っていたユーリィであったが、少しは使ってみようという気になったのはつい最近だった。
男が持ってきた紙に幾人かの名前が書かれている。彼らは昨日ジョルバンニの執務室を訪れた者たちだ。
手始めにやらせているのが、こういう簡単な情報収集だった。
我ながらつまらないことをしていると思いつつ、何気なく紙を眺めると、中ほどに思わぬ人物の名前が書かれてあった。
(そう来たか……)
面倒なところが繋がったものだと気が滅入ったと同時に、ジョルバンニの抜け目の無さに感心した。
それにしても奴らの目的はなんだろうか。
様々な想像を巡らしながら宙を睨む。
視線をそのまま右へ横に動かすと、薄い雲に覆われた空と、さらに裏庭園に突き出している東館の屋根が見えた。
ガーゼ宮殿の裏側は、南北に広がる四階建の本館に、東館と西館と呼ばれる別棟が、直角に突き刺さっているような形をしている。どちらも二階までしかなく、東は主に使用人や厨房がある場所で、西はギルドの連中、つまりジョルバンニの聖域であった。
ユーリィが宮殿の構造を完璧に覚えたのはつい先日だということは、むろんだれにも言っていない。
そしてその東館の屋根の上で、一体の魔物がこちらを見ていた。
(ヴォルフのやつ、あの姿の方が楽ってことなのか?)
本人は魔物でいたほうが護衛をしやすいと言っていたが、本当は別な理由があるような気がしてならない。
(またつまらないこと考えてるわけじゃないだろうなぁ)
だったらいいなとちょっと思った。
フェンリル化したヴォルフは、聖人じみててつまらない。以前のように喜怒哀楽の激しい方がいいのに。
(ヴォルフもジョルバンニたちも、近いうちになんとかしなくちゃ)
気を取り直し、ユーリィは密書を机の引き出しに放り込んで鍵をかけた。
目下の問題は、まさに目下にある書類の山。
貴族院会議とギルド議会会議の両方に出席し、その合間を縫ってこれらに目を通す。
『目を通さずとも、ご署名していただければそれで結構ですので』
ジョルバンニがそう言うから、余計丁寧に読んでしまう。子供っぽい意地だと分かっていても止める気が起きない。だから連日、深夜まで読みふける。それがヴォルフの機嫌を損ねているのだろうかと考えた。
(だといいけど……)
とにかく仕事だ。
そう思って山の一番上にある紙を手に取った矢先、今度はエルネスタがやって来た。
「この間ご依頼された件ですが……」
エルナが口にしたコレットと接触している者の名前を聞いて、ユーリィはやっぱりと思っただけで別に驚きもしなかった。




