第92話 蒔かれた餌
『王様はもう二度と国へ帰ることが叶いませんでした。なぜなら、そこは禁断の地であったからです』
――『カンティバ王物語』より
タナトスにとってガーゼ宮殿は、窮屈でもあり自由でもある場所だった。
窮屈に感じるのは、自分が何者であるかをいちいち説明しなければならないからだ。身につけているのはフォーエンベルガー家の軍服なので、兵士たちから常に警戒される。何度か不審者と間違えられて捕らえられた。
さらに衣食住に関してもままならない。来たばかりの頃は、毎回ライネスク侯爵に訴え用意してもらい、物置部屋で食べる始末。しかも寝起きもそこで、埃だらけの床で丸く丸くなる夜が続いた。
しかしそんな苦労も十日ほど経った頃には少なくなった。実直者という演技が身についていたおかげだろう。メイドと使用人に顔を覚えられ、信用も得られるようになると、侯爵にいちいち言わなくてもメイドに頼めば、使用人用の食事を用意してくれ、毛布を二枚手に入れた。
だが身体的な苦痛が減った反面、暇を持て余すことが多くなった。領地にいた時より自由といいだろう。兵だがソフィニア兵たちは相変わらずタナトスとは交流を避けていた。
頼みの綱 ――頼みたくはないが―― である侯爵は連日連夜会議。さらに葬儀の日からは近づくこともできなくなった。
もしも金を持っていたのなら、街に繰り出すこともできただろう。だが残念なことに、フォーエンベルガーを出てから一度も給金を受け取っていない。
(あのクソガキに直談判すべきかな……)
とは思うものの、侯爵には常に従者がついていて、彼らに金をくれと訴えたことを知られるのはためらわれた。
そんなこんなで葬儀の日より数日経った。
穀潰しである自分を悲観することなく、だらだらと毎日を過ごしていたタナトスは、その日昼近くになってやっと起き出した。前の晩は料理人にもらった酒を堪能し、久々の飲酒に二日酔い気味となったせいだ。
物置小屋があるのは宮殿の二階東側で、使用人部屋に囲まれた場所でもある。
裏庭の貯水池で顔でも洗うかと部屋から出ると、ちょうど斜向かいの部屋から女が出てくるところであった。
侯爵付きの世話係をしているコレットという女だ。彼女とは冗談も交わせるほどずいぶん親しくなっていた。
たぶん二日酔いも手伝ったのだろう。挨拶を交わしたのち、タナトスは考えなしに彼女に金の愚痴を漏らしてしまった。
すると女は思いもよらない提案をした。
「それだったら、ジョルバンニ議長に言った方がいいと思うわ」
「ジョルバンニ議長ってあの眼鏡のか?」
「ええ」
そういえばギルド議会っていうのが作られて、議長にその眼鏡が就任したと使用人たちが噂していたなと、タナトスは思い出した。
「金をくれるのなら、俺はだれでも……」
言いかけたその時、隣の部屋より若いメイドが外に出てきた。
怪訝な視線でふたりを見る。しかし娘はなにも言わず、その場を去っていく。
やがて娘が廊下の角から消え去ると、「私が口を効いてあげるわ」とコレットが小声で言った。
「きみはその議長様の世話係も?」
「まさか。実は私、議長の口利きで侯爵の世話係になったの。だから時々、色んな相談に乗ってもらえるのよ」
「相談ねぇ……」
薄ぼんやりとした女だと思っていたが、出は良いのだろうか。
胸も尻もない貧相な体つきの女を、タナトスは遠慮なく眺め回した。
「議長さんは、俺に金を支払ってくれそうなお人なのか?」
「とても公平な方。ハーンさんのことも分かってくださると思う」
「だといいけどな」
召使い女の言葉など信用はできない。気を引くための口実とも考えられた。
(もし俺の気を引きたいなら、一回ぐらいは寝かせてもらえるかな)
好みとは言いがたいタイプである。だがそれはそれ。ここ半年以上、女の肌に触れていないせいで溜まっているし、この際だれでもいいかと色気とはほど遠い女の体をもう一度盗み見た。
しかしそれ以上は話もなく、コレットとはそのまま別れた。
それからタナトスは貯水池で手と顔を洗い、厨房で料理人に食べ物を頼んだ。前日酒を分けてくれた男だ。
彼は快くパンとチーズを分けてくれ、それらを水と一緒に胃袋に流し込んでいると、コレットが顔を出し、議長が今すぐタナトスに会いたいと言っていると告げに来た。
驚くほど素早い対応だった。そこまで親身になってくれるコレットは、もしかしたら本当に自分に気があるのだろうかと考えた。だとすれば気安く手を出すのは止めておいた方がいいだろう。後腐れがある一夜の相手ほど、厄介なことはない。
議長の執務室は、宮殿の三階中央にある、意外に小さな部屋だった。
中に通されてすぐ、自分を注視する視線にタナトスは気圧されそうになった。
男は、小さな机の前に座っていた。少々癖があるオリーブ色の髪、細い目と細い唇、そして細い体。見た目の存在感はないと言ってもいい。しかし眼鏡とその奥から放たれる視線は、すべてを見通されている気分にさせられた。
「おかけ下さい」
最初の一言としては打倒だろう。彼は貴族ではないのだから。
ジョルバンニ家はもともと大きなガラス屋らしい。今でもソフィニア中の窓ガラスを作っていて、“ジョルバンニ”と言えばガラスだと思う人も多くいるのだと、使用人たちが語っていた。
ギルドという複雑で単純な世界だからこそ、金と知恵さえあれば権力が持てたのだろう。
だがそれも昨日までのこと。皇帝が統治する帝国になれば、金や知恵ではどうにもならない世界となる。それともあの若き皇帝陛下は、身分という秩序を壊す勇気があるのだろうか。
そんな陳腐な考察を頭の片隅に追いやり、タナトスは示された椅子に腰を下ろした。ジョルバンニは机を挟んで真っ正面に座っている。タナトスがコレットに送った視線よりもネチネチとした、まるで値踏みをするようなそれに、体の内部まで見透かされている気分になった。
「話は聞きました。給金が支払われていないとか?」
「ええ、まあ……」
男の思惑がどこにあるか分からず、曖昧に口を濁した。
「貴殿には侯爵がなんども助けられたとのこと。それ相当の手当をすべきでしょうな」
「自分はまだフォーエンベルガー配下ですので、頂戴する権利があるのかどうか」
「侯爵に届いた手紙によれば、貴殿は解雇されたのとほぼ同じ。違いますか?」
「直接言われたわけではないので、自分としてはなんとも……」
実際は見放されたことは、タナトスも分かっている。しかしフォーエンベルガーの者であることを匂わしておいた方がいいと判断し、そう答えた。
「では、いずれフォーエンベルガー家にお戻りになりたいと?」
「侯爵が帰れとおっしゃるなら、早々に立ち去りますよ」
「そうですか?」
おもむろにジョルバンニは立ち上がった。左手が上着のポケットに入れられる。さらにゆっくりとした歩調で机を迂回し始めた。
表情だけではなにを考えているのかまったく分からない。だが攻撃を仕掛けられても、腕力で負ける気はしなかった。もしも左手にナイフが握られているなら、どのタイミングで逃げればいいだろうか。タナトスは相手の一挙手一投足と注意深く見守り続けた。
やがてタナトスの前まで来た男は、不意にその左手を抜き取った。
「――――!!」
武器は持っていない、拳だけだ。
一瞬で判断しつつ、その手首を掴み取る。
「なるほど、素晴らしい」
目線を上げれば、前に立つ男の唇は歪んだように微笑んでいた。
「なにごとですか?」
タナトスの質問に答える代わりに、男は拳を広げた。
金貨三枚がこぼれ落ち、タナトスの太ももに当たって大理石の床へと転がる。
「給金ですよ。それとも気を悪くしたかな?」
手首を掴んだまま、タナトスはなおもジョルバンニを睨み続けた。
「拾わないのですか?」
なんともいけ好かない男だ。だが挑発に乗るほど馬鹿ではない。視線は動かさず、手首を放し、目の端に見える足元の一枚を拾い上げた。
「本物のようだ」
「当然です」
「当然?」
「大侯爵のお命をお守りいただいたのですから。ところで、もし貴殿がフォーエンベルガーには戻らないと言うのなら、私の下で働く気はありますかな? むろん給金は今お渡しした額だけ、毎月払いますよ」
ずいぶん美味しいそうな餌が落ちてきたなと、タナトスは相手を睨みつつ考えていた。
タナトス編のみ、冒頭を加筆しました。85話、88話も加筆しましたが、物語には大きく影響があるわけではありません。




