第91話 少女は正義を胸に抱く
「そうですか……それは仕方がありませんね……」
エルネスタが答えると、相手の女は表情を曇らせたまま二度三度頷いた。
女はベレーネク伯爵の遺児三人の養育係をしている。他に五人いて、その中で一番年上が彼女であった。
「私からライネスク侯爵とジョルバンニさんにお伝えしておきましょう」
「では、下のお二人は今夜から別のお部屋にお移してもよろしいですか?」
「ええ、そうして下さい。ただカミル様に知られるとまた騒ぎになりますので、なにか別の理由を作って、連れ出すように」
「かしこまりました」
小さく腰を落として挨拶をすると、女はそそくさと部屋から出て行った。
パタンと閉まった扉をしばし眺めたのち、エルナはゆっくりと肩の力を抜いた。
「仕方がない……か」
エルナがガーゼ宮殿の管理の一端を任されたのは、ひと月ほど前であった。相手はジョルバンニ氏で、任されたと言っても正式な役職をもらったわけではない。『女性の目があれば、行き届かないことにも気を配れる』という曖昧な申し出である。
けれど宮殿の大まかな管理はシュウェルトという男がしている。鼻の下に小さな髭を生やした、非常に気が回る従者であった。彼の手にかかればあらゆることが効率よく機能する。女であるエルナすらとても太刀打ちができないほど、彼はいかなる場所も綺麗に整え、気の利いた料理が出来上がるよう、召使いや料理人を動かした。
ジョルバンニ氏が自分に望んでいるのは、そんなことではない。
従者であるシュウェルトがどうにも手が下せないこと。例えばベレーネクの遺児たちのこともそうだろう。今回のように貴婦人たちが訪れた時の配慮もそうだろう。
だからこうして与えられた小さな部屋で、その役目を果たすべく座っている。
「でも、本当にそれだけかしら?」
ふとその言葉が口を吐いた。
ユーリィとジョルバンニの確執は、エルナも薄々気づいていた。
ジョルバンニ自身、本当はユーリィを蹴落として、自分が最高権力者になりたがっているのではないだろうか。もしかして自分もその企みに荷担することを望んでいるのではないだろうか。そんな懸念が常にある。
もちろんそんなことをするつもりはない。することはひとつ。新皇帝が望むだろうことを想像して、自分なりに動く。ただそれだけ。
(それなのに私、あんなことを言ってしまって……)
ユーリィが本心からククリに重罰を与えようと思っているはずがない。たった今、遺児たちの長男カミルと、下のふたりとの隔離を仕方がないと思った自分のように。
カミルには何度も面会した。しかしあの子供はひたすらユーリィに呪いを吐き続けるばかりで、一度もエルナを見ようとはしなかった。
医者は“気が狂っていらっしゃる”ときっぱり言った。それでも諦められずにいたが、数日前にナイフを向けられてとうとう諦めた。このままでは下のふたりも同じような精神状態になってしまう。それだけは避けるべきだ。
ユーリィもきっと苦渋の選択をしたのだろう。ククリを放置すれば、さらに沢山の者を危険に晒すことになる。なんのためらいもなくソフィニアを襲撃した彼らを考えれば、その可能性が高い。
そんなことは分かっていたはずなのに……。
「とにかく謝るしかないわ」
エルナは独り言つと、今朝届いたばかりの書類を手に立ち上がった。
ライネスク侯爵の執務室を訪れた時、彼はそこにはいなかった。中で待っているかという兵士の質問に、エルナは横に首を振った。
今は少しでもユーリィを不審がらせる行為は避けるべきだ。彼はまだ、だれが信用できる者なのか探っている最中のはずだから。
しばらくしてユーリィことライネスク侯爵が、従者を四人ほど引き連れて現れた。
その出で立ちは、前身ごろに凝った金の刺繍があしらわれた黒い上着、その首元には白い宝石のブローチが留められて、大きく折り返された袖にも同じ刺繍かある。ズボンは同じ黒で遠目からも素晴らしい仕立てだと分かる。黒革のブーツは、旅人が履くようなものではなく、金のバックルと鎖が付いていた。さらに右肩にかかる薄紫の短いマントの光沢は、廊下の右側から差し込む陽光を柔らかく反射させる。なにもかも目を奪われるほどの贅沢な装いだ。
だが注目すべきはそれら衣装ではなく、彼自身だった。
背筋を伸ばし、視線を上げて近づいてくるその姿は、その昔、草原で気恥ずかしそうな笑みを浮かべていた少年のものでない。彼は王者という風格を身にまとう術を覚えてしまったのだと、エルナは改めて実感した。
「なに?」
エルナの前まで来ると、彼は怪訝な表情を隠しもせずそう言った。
「少しお話したいことがありますの」
「ちょうど良かった。僕も話がある」
世話係の女がユーリィの肩からマントを取り去った。水差しを持った男がトレイを主人の前へと突きだしたが、少年はいらないと小さく言って断った。
エルナも幾度か目撃したこの一連の儀式を、少年はどう思っているのか。眉一つ動かさないが、きっと内心では馬鹿馬鹿しいと感じていると思い、エルナはひどく同情した。
それから警備兵が扉を開けて中に入り、窓、机の下、暖炉の中、テーブルの下を一通り確認し、その兵士が出てくるとユーリィは室内へと入っていった。その後ろに従者の一人が続くのだが、彼は身体の後ろ手を強く組んでいた。さらに促されてエルナが通される。これは新皇帝の暗殺を防ぐためであった。
従者が立ち去り、ようやく二人だけになった時、エルナは知らず知らずにため息を吐いていた。
なんて物々しいのだろう。やはり中で待っていなくて良かった。
まるでその心の声が聞こえたかのようにユーリィは、「中で待っていれば良かったのに」と言った。
「そんなことできないわ」
「どうして?」
「なにかあったら、疑われるから」
「僕は疑わないよ」
「貴方が疑わなくても、だれかが疑う。貴方はそれを平気でいられる方ではないわ」
ユーリィはなにか言いかけて、そして止めてしまった。その代わりというわけではないだろうが、閉じられた扉を横目で睨む。
「あんな大げさなことをしなくてもいいのに」
「貴方になにかあっては大変だと、みなが考えている証拠です」
「違うね。なにかあるかもしれないと、みなに思わせる演出だよ。ジョルバンニが思いつきそうなことだ。今はここにも街にも貴族たちが残っているし、ククリの連中もいる。ギルドもまだ危ういからね」
葬儀と総議会に出席した貴族は、侯爵および伯爵は宮殿に、それ以下は街にそれぞれ別れて留まっている。宮殿に軟禁されていた者たちも今は解放されてはいたが、領地に戻ることは許されなかった。それは貴族院会議に出席するためだ。
「会議ではなにが議題になる予定なのかしら?」
「まずは戴冠式の件。もし本当に行くなら、こっちから数人貴族を連れていく必要があるからね。それと施行される帝国法のこと。もうほとんど取り決めてあるから、告知だけだけど」
「大勢なので大変でしょうね」
「会議で発言できるのは侯爵と伯爵のみ。数は二十五人そのうち三人は来てないよ」
「そうでしたか」
短い沈黙が流れた。
エルナもそうだが、ユーリィも言葉をためらっている気配があった。
ふたりの距離は近すぎるわけでもなく、かといって離れているわけでもない。大きなライティングデスクの後ろにも、部屋の中央にも椅子はあるというのに、彼は座ることなく、むろんエルナも腰をおろさなかった。
この距離が、この立ち位置が、今ふたりの心の距離なんだろうとエルナは思っていた。
やがて沈黙を先に破ったのはユーリィだった。
「で、話って?」
「できれば侯爵から先にお願いします」
「きみに侯爵なんて呼ばれるのはこそばゆいね、まあいいけど。僕のは話っていうか頼みなんだけど大したことじゃない。ええと……」
彼は上着のポケットから小さな紙切れを出すと、エルナの方へと差し出す。一歩踏み出し黙ってそれを受け取ったエルナはそこにある文字を素早く読んだ。
「これは……?」
書かれていたのは三人の貴族名。二人は子爵、一人は男爵だった。
「見ての通り」
ユーリィは戯けるように肩をすくめてみせた。
「会ったことかある人はいる?」
「ええ、お二人は」
「それはちょうど良かった。できればでいいんだけどこの三人と茶会でも開いて、ちょっと話をして欲しいんだ」
「でも……どうして……?」
名前だけを知っている者はともかく、あとの二人はとても陽気で善良で、企てなど考える人たちではなかった。
「心配することはない。なにかを疑っているというわけではないから、今のところ。ただ帝国と僕のことをどう思っているか、さりげなく聞いてきて欲しいんだ」
「でもどうして?」
同じ質問をすると、ユーリィは軽く微笑んだ。
「それはまだ言えない。きみに予備知識を与えたくないから。もし嫌なら断って」
「いいえ、お引き受けしますわ」
どんな理由であろうと、今は彼を信じるだけだ。
「良かった。ならもうひとついい? これは無理する必要はないし、して欲しくない」
「どんなことですの?」
彼は一瞬考えてから、少し声をひそめて話し始めた。
「さっき僕の世話係の女を見ただろ? あの女が召し使い、使用人、兵士の中でだれと親しくしているか、もし見かけたら教えて欲しい」
「親しいとはどの程度のでしょうか?」
「おおっぴらに会話をしてるのもそうだけど、目配せとか、そういう類いのもかな」
「それはつまり、密通というような……」
言葉にするのが恥ずかしくて、エルナはやや目を伏せた。
「違う違う、そういうんじゃないよ」
「これも伺わない方がいいのでしょうか?」
「いや、言うよ。エルナの身に危険が及んだら困るし。ええとね、あの女はジョルバンニの諜者なんだ。もちろん表向きは僕の護衛。だけど本当は別のことを企んでいる可能性もある。しかも宮殿にはあの女の仲間もいるらしいんだ。たぶん一人は料理人かな」
「まさかジョルバンニさんが貴方を……」
「さあ、どうだろう? 今のところはその心配はないと思うけど。でも僕の知らないところでコソコソ動くのは気に入らない。やつの動きを全部把握しきれるとは思えないけど、できる範囲で尻尾を捕まえておきたい、ただそれだけ。だからエルナが無理して動く必要もないからね、これだけは言っておく。一応僕にも諜者はいるし、さっきの三人もその者たちに調べさせた。だけど諜者同士をむやみに接触させたくないから」
「え、ええ、なんとなく分かります」
「頼めるかな……?」
心配そうな上目遣いになった時、彼は少年を取り戻した。
やっぱり彼は彼であり、なにひとつ変わっていないのだと分かり、エルナは嬉しくなった。と同時に酷いことを言った自分を、ここまで信用してくれること辛かった。
あの時自分は、間違いなく彼を傷つけた。けれどユーリィが責めたのは自分自身だったはずだ。それが手に取るように分かるというのに……。
「ダメ……?」
「もちろんお引き受けします。無理をしない程度にさりげなく、で良いんですよね?」
「うん、それ」
照れたような彼の微笑みは、あの草原となんら変わりがなかった。
「それでエルナの話って?」
「ああ、それは……」
まずどちらから話すべきか考え、重要な方を選択した。
「カミル様のことです」
「ああ……」
彼はなにもかも分かったようで、辛そうな表情を浮かべる。
けれどそれも一瞬のことで、凍りつくほど冷たい目でエルナを見返した。
「下のふたりと早急に引き離さなきゃならないね。カミルはまだ子供だけど、二、三年経てば召使いにも危害を加えるかもしれない。そうなる前に幽閉して、兵士に見晴らせることになるだろう」
「ええ、そうですわね」
すると彼は意外だという面持ちで、大きな瞳をさらに見開いた。
「……責めないの?」
「先ほどカミル様のことを聞いた時、私は自分に言いました、“仕方がない”と。貴方も同じ気持ちであの時おっしゃったと分かっていたはずなのに、責めてしまった自分をとても後悔しています」
「別にエルナは悪くないし、間違っていたわけじゃない」
「いいえ、貴方のお立場を考えなかった私が悪かったのです」
「それでもエルナはエルナでいて欲しい」
その真摯な瞳に、エルナはドキッとした。
もしも好意を抱くことが許されるのなら、間違いなく今そう思ってしまっただろう。けれど自分は分別と思慮を身につけた。それが長所であり武器でもあるのだ。
「話はそれだけ?」
と言いつつも、彼の視線はエルナの手にする筒にある。もちろんそれも話の種だ。
「これをライネスク侯爵に」
エルナが差し出した筒を受け取って、結わえてある革紐を解き、丁寧に広げて中を見た時、ユーリィの顔はわずかに曇った。
「これ、もしかしてリマンスキー家の……?」
「はい。ようやく弟の後見人が決まり、正式に弟が子爵を継ぐことができました。まだ十三と幼いですが、芯はしっかりした子です。血判も自ら進んで押したと聞きましたわ」
「そう……」
少年は本当に辛そうな顔した。
いったい彼はどんな罪で、自らを責めているのだろう?
それを思うだけで切なくなった。
「なら、きみは帰りなよ。幼いリマンスキー子爵を助けなくちゃ」
「どうか私をここに置いてください」
「どうして?」
「貴方のそばにいたいからです」
それはエルナの強い願いであった。
愛や恋という儚い想いではなく、この美しく雄々しい皇帝に仕えることが自分に課せられた使命であると心から思った。
しかし彼はその気持ちを誤解した。寄せられた眉がそれを物語っている。視線が泳ぐように左右に揺れて、そして逃げるかのようにエルナと距離を作り、窓際へと歩いていった。
「もう気づいていると思うけど……」
彼は声色を消した声で、窓ガラスに向かって語りかける。そこに薄らと映っているのは、ひどく強ばった表情をしたエルナ自身であった。
「僕はヴォルフと体の関係がある」
はっきりと言われてしまった今、どういう表情をしたらいいか分からず、エルナは強ばったままの顔でユーリィの次の言葉を静かに待った。
「それだけじゃない。女性にこんなことを言うのはどうかと思うけど、きみにはちゃんと伝えるよ。僕はまだ男としての生殖能力がないんだ。みんなはエルフの血が入っているからって言うけど、本当かどうか分からない。僕の母親は人間とエルフの間に生まれた“脆弱なキメラ”じゃないかと思っている。僕はその母親から生まれてしまった」
「つまり……」
「つまり、もしかしたら生涯、子供が持てない体であるかもしれないってこと。前にきみは僕が結婚しなければならなくなった時、その相手になってもいいって言ったよね? 権力も欲しいと言った。だから嫡子の母親として、もし……」
「違うわ!!」
そんなふうに思われていたなんて思いもしなかった。
自分がその程度の女であると思われていたと思うと、どうしようもない怒りが浮かんでしまった。
「でも……」
「自分の子供を欲望の道具に使おうなんて、考えたこともない!」
「ご、ごめん」
「ええ、そうよ、貴方のおっしゃるとおり私は権力が欲しかった。でもそれは女を武器にして使うって意味じゃない。思慮と分別をわきまえた者として、見合うべき地位にありたいと願っただけよ」
「うん……」
振り返った少年は、まるで叱られた子供のようにうつむいてしまった。
きっと彼はまた自らの心に刃を立てている。
それが分かった途端、エルナの怒りは急速に萎んでいった。
「ごめんなさい。こんなに怒るつもりじゃなかったの」
「いいんだ、僕が悪いんだから」
「違うの。私の過去の言動が、貴方にそう思わせてしまうものだったからよ」
「でも、なんでエルナは僕のそばにいたいの? やっぱり権力が欲しいから?」
「昨日まではそう思っていたかもしれない。でも今は違う」
彼と自分は生まれも育った環境もまるで違うのに、それでも同じ場所に立ち、同じ者を見ているのだとエルナは確信した。
だからこそ、ここにいるべきなのだと。
「私と貴方はとても似ている。恨みたくない、憎みたくない、欺したくない、傷つけたくないと心が願う者。でも貴方は権力者として、時には非情にならなければならないことがある。さっきみたいに“仕方がない”と諦めなくちゃならなくなる時もあると思う」
「うん」
「だから私はここにいて、貴方の正義であり続ける。もちろん責めたりもしない、怒ったりもしない。そういう者がそばにいると分かっているだけでいい。ちゃんと貴方が忘れないように、私は存在し続けるから。だからもし、貴方が皇帝として私を二度と見たくないと思った時、その手で必ず殺して。私も貴方のそんな未来を見たくないから」
自分はそういう者であり続けよう。
必ずそういう者であり続けよう。
彼のために。
私のために。




