第88話 金の髪が輝く時
『邪悪なる魔物が入り込むのはひとえに、神マルハンヌスの恩恵に預かりたいが故。この世界が双つに分かれし時より、彼等は哀れな存在であるのです』
――マルハンヌス教外典『双世記』第五章より
カンティア大聖堂は、ガーゼ宮殿の敷地内にあった。二つの建物は白い柱と屋根がある回廊で繋がれている。王宮時代に建てられただけあった立派であるが、ここ二百年はほとんど使われていないという。
その立派な建物で行われる二百年ぶりの儀式が葬儀というのは、嘲笑的で面白いとタナトスは思っていた。しかも宮殿の正門から出発した棺は、街中を引きずり回された挙げ句に、その大聖堂に戻ってくるのだ。死者たちもおちおちと死んではいられないだろう。
哀れな死者たちの為の棺は、それぞれ違う色で塗られていた。黒はライネスク侯爵の異母兄であるエディク・クリストフ、白はメチャレフ伯爵のものだ。しかし実際に黒い棺桶にはなにも入っていない。エディク氏の遺体は先の戦いで消失したそうで、代わりに黄金のマントが収められた。
メチャレフ伯爵はフラン=ドリエから運んできたらしいが、すでに死んでからひと月以上経っていた為、洗浄と防腐処理を施されてもなお酷い状態だったと、遺体の移し替え作業をした者が話していた。
その日の早朝、葬列はガーゼ宮殿から始まった。先頭は黒い棺を乗せた馬車、次は白い棺を乗せた馬車が、見物人があふれる道を移動する。だが人々は死人などには決して興味を示さなかった。
二つの馬車が通り過ぎると、民衆は身を乗り出すようにしてその後ろを見る。そこには二個連隊三百人の騎馬兵と、さらに七百人の歩兵が続いている。だが人々は騎馬兵にも歩兵にも、目もくれなかった。
兵士たちの中心には白い四輪の馬車があった。牽引する白馬は黒い礼服の御者がまたがっている。
そして馬車には乗るは、黒いマントをまとう若き支配者だった。
葬儀の行進とあって、さすがに歓声が上がることはなかったが、老若男女みな首を伸ばし、隣を押し退け、黄金の髪をした少年をひと目見ようと浮き足立っていた。
しかし当の本人はそんな人々には目もくれず、前を行く棺を見つめている。いったい彼がどんな表情をしているのかと気になったタナトスだが、騎馬兵に混じって背後を行進しているので見ることはできない。だが、なんにせよ度胸が据わっているガキだとわずかばかり感心した。
時折ではあるが、ライネスク侯爵は空を見上げるような素振りをした。その理由をタナトスも知っている。頭上には数十の魔物らが飛び交っているのだ。もちろん敵ではなくラシアール族の魔物どもである。さらに連なる屋根を、青い大狼が軽やかに駆けていた。
(ここまで見せつけられちゃ、簡単には反逆などできないな)
前日までにソフィニア入りをした多くの貴族たちを思い出し、タナトスはふと思った。
彼らの半数近くがライネスク侯爵に反感を抱いていることは、その表情を見れば一目瞭然であった。なかには取り入るような笑みを浮かべる者もいたが、本心ではないはずだ。
フォーエンベルガー領内と同様、庶子でありエルフとの混血児などに王冠を被らせたくはないのだろう。
しかし逆らえないのは、やはりソフィニアに住む何万もの民衆が、侯爵を崇敬しているせいだろう。領民ばかりではなく兵士たちの多くも、彼に対して畏怖の念を抱いていた。
ある兵士が言った。
『銀の狼魔に乗ったお姿はまさに天子だった。あの方は神の生まれ変わりなのさ』
(まあ、分からなくもないが……)
タナトス自身もその姿を直に見ているので、納得せざるを得ない。しかし見た目と違って、中身はクソガキだという意見を変えるつもりはなかった。
行進は街のほぼ半分を周り、やがてカンティア大聖堂の正門へと到着した。
正門の中に入ってすぐ、歩兵たちがそれぞれの馬車から棺を降ろし、連なって大聖堂の方へと運んでいった。
大聖堂の扉は大きく開かれている。その前には数十段はあろう長く狭いエントランス階段があり、その上部には白い祭服に身を包んだ三人の司祭が、粛々とした雰囲気で死者たちを待ち構えていた。
棺は兵士たちの手によって、急な階段を引き上げられる。すると司祭たちは手にした銀の器から、聖水を棺へと振りかけた。それがマヌハンヌス教における葬儀の始まりであった。
だがそれから先の儀式は内部で行われる。つまり棺とライネスク侯爵が大聖堂の中に消えてしまえば、兵士は待機するのみ。中に入ることを許されているのは、支配する側にいる者たちだけだ。
待機している間、兵士たちは整列をして、大聖堂の前を行ったり来たりと行進を続けていた。その姿を門の外から大勢が眺めている。統制された軍隊だと言うことをアピールしたいのだろう。
ご苦労なことだと思いつつ、参加するつもりも資格もないタナトスは邪魔にならないよう、馬と共に端の方に避けていた。
それは葬儀が始まり、聖歌が聞こえてきた頃だった。ソフィニアは暑い街だと思ったその時、タナトスの横に立った男が陽光を遮った。
自分よりやや背の高い男を見上げる。ソフィニアでは珍しいブルーグレーの髪は、北方ではよく見かける色だ。彼がセシャール人であることを、タナトスはすでに知っていた。
「やっぱり、あんたも中には入れないのか」
「セシャール代表と言うには無理があるんでね。あんたは?」
「俺もフォーエンベルガー代表としては認められていないようだ」
「だろうな」
これがヴォルフ・グラハンスとタナトスが初めて交わした会話であった。
嫌う理由は見当たらないが、相容れない相手だろうという予感はした。
気配が受け入れられない。そんな根拠のない予感であった。
しばらくしてグラハンスがふたたび口を開く。乾いたような声はどこか耳障りで、タナトスはイラッとした。
「侯爵を守るのは一人でいい。あんたはさっさとフォーエンベルガーに戻って、あの男を警護するんだな」
「あの男……?」
「リカルド・フォーエンベルガーだ」
言葉の感じから、彼が伯爵をよく思っていないらしいと判断できた。
「そうは言っても、侯爵本人から居ろと命令を受けたのでね」
「居ろとは言っていなかったはずだ」
「どう解釈するか俺の自由」
睨みつけられた双眸は右と左で色が違う。特に右目は黄色の奇妙な瞳をしていた。
「もしも侯爵を陥れるような真似をしたら、必ずお前を殺す」
「それは面白い」
別に怖くはないと、タナトスは笑みを浮かべた。
強がりではない。腕には自信があった。目の前の男がどの程度のものか、身のこなしでだいたいの想像がつく。互角か、自分の方が上だろう。
(たぶん槍使いだな、装備はしてないが……)
セシャール人のくせにソフィニアの軍服を着ている。紺色の生地は丈夫そうだが、極寒地では耐えられないだろう。胸元に八つ、袖の返しに二つずつ、肩にも一つずつ、金のボタンがついている装飾華美の嫌みなデザインだった。
「笑っていられるのも今のうちだ、忘れるな」
ありふれた物言いに、タナトスは吹き出しそうになってしまった。
それと同時につまらぬ男だと評価を下した。
戦ったとしても数分で終わってしまうだろう。それも分からず強がってみせるとは馬鹿な男だ。ここは暇つぶしにからかってみるか。
「へぇ、ならばどうやって殺す?」
さらに笑みを広げて、タナトスは遠慮なくじろじろと相手を眺め回した。
こんな場所ではないとは思いつつ、一応は腰の大剣を意識する。馬鹿者は時と場合を考えないのが厄介なのだ。
ところが男は小さく肩をすくめただけで、タナトスの挑発には乗ってこなかった。
「どんな殺し方でもできるが、焼き殺すのが一番簡単だろう」
「焼き殺す? おいおい、冗談は止めてくれ。火矢なんて放ったって当たりやしないぜ」
「そんな回りくどいことはしないさ。それに矢は得意じゃない」
「まさか松明でなんて言うんじゃないだろうな?」
しかし男はもう一度肩をすくめただけで、返事はしなかった。
(チッ、つまらない)
暇つぶしは諦めて、タナトスは改めて大聖堂の大きな二枚扉に目を向けた。
問題はいつまでこの地に居座れるかということだ。
やはりフォーエンベルガー伯爵にはあの件がバレていたらしい。だからあんな田舎娘を押しつけられて……。
(いや、あの娘は気の毒なことをした。もっとも俺が悪かったわけじゃないが)
婚約者だった女を殺したのは自分ではなく、エルフと魔物どもだ。確かに積極的に助けに行こうとはしなかったが、死んで欲しいと思っていたわけではない。あの時は少々むしゃくしゃしていたので、判断が鈍ってしまっただけだった。
(お嬢様はすっかり手なずけていたと思ったのに、女は分からないな)
フォーエンベルガー家令嬢ティーナ。従順で大人しくて幼いだけの娘だと思っていた。兄のリカルドに愛着を持ちすぎているきらいはあったものの、完全に手中に収めていると信じていた。
それなのに、まさかセシャールの第二王子との婚姻を、ああもあっさりと承諾するとは思わなかった。
もちろん身分違いの関係をおおっぴらにしていたわけではない。けれど婚姻が決まる前では、“タナトス、タナトス”と子犬のように付きまとっていた娘が、視線も合わせなくなったらだれだって勘ぐるだろう。
猟犬ではなく、あの扉の中へ入れるような者になれなかったのは、少々残念だった。
(ま、済んだことだ。そういえば、あの子爵令嬢はなかなかいい女だな。頭も良さそうだから簡単にはいかないだろうが……)
時間つぶしとして、才女にはどんな手を使えば効果的なのかという下らない妄想を抱きつつ、半時ばかり待っていると、やがて焦げ茶色の二枚扉がゆっくりと開かれた。
最初に現れたのは司祭らである。扉のそばに控えていた兵士が十数人中へと入っていき、棺を二つ担いで戻ってきた。
死者たちの安息所がどこになるのか、タナトスも知っていた。
黒い空の棺は、ソフィニア中央にある丘へと運ばれる。あの下が旧王族の眠る墓地となっていることは一昨日教えてもらったばかりだ。
一方、腐りかけの死体が入っている白い棺は、フラン=ドリエへと運ばれて、そこでもう一度葬儀が行われ、メチャレフ家の墓地へと収められるらしい。棺はソフィニア兵五十人とラシアール十五人が護送するとのこと。棺を収めたのち、彼らが親殺しの罪人をソフィニアへ移送することはどうでもいい情報だった。
門のそばで待機していた二台の馬車が、大聖堂へと近づいてくる。行進を続けていた兵士たちは隊列を組み直して、道を開けた。
(やれやれだな……)
客兵としては非常に居心地が悪かった儀式が終わってホッとする。棺のあとから出てきた少年の姿を見て、またクソガキをからかえるのかと思うと少し気分が晴れた。
だがその時、思ってもみない事態が発生した。
千人近くいた民衆が動揺した声を上げ始めたのだ。
侯爵が現れたことによる騒ぎかと思ったタナトスだったが、よく見れば彼らはみな空を見上げていた。
なんだろうかと視線を上げる。
すると上空で滞空していたはずの魔物たちが、秩序なく飛び回っていた。
(やっぱりエルフは信用ならないぜ)
どうせ奴らも反逆か、逃走をするつもりなのだろうと考えた。
しかし自分の予想が外れたことを知ったのは、そのわずか数秒後。薄い雲が流れる遙か上空、見たことのある魔物の集団が、陽光を散らしつつ現れたのだ。
(ククリの連中もしぶといな……)
敵の数は七体。以前見たワシのような魔物だ。それに対してラシアールの使い魔は三十以上飛んでいたが、ひと目見ただけで戦闘には向いてなさそうだと分かる蝶もどきや、蛇もどきが混じっている。
(反撃できるのは、十体がいいところか)
そういえばあの狼魔はどうしたのだろうかと、タナトスは辺りを見回した。
あの馬鹿みたいに強い魔物なら、躍るようにしか飛べない蝶の数十倍の戦力があるだろう。むしろラシアールが戦う必要すらなさそうだ。
(でもクソガキが地上にいるし、参戦はしないか。ま、俺はどっちでもいいけどね。落ちてきたエルフを殺ればいいだけなんだから。ククリと間違えてラシアールを殺ったとしてもそれはそれ。この世にエルフなんていない方が……)
その矢先だ。
「ヴォルフ!!」
背後で男を呼ぶ声がした。
振り返れば、ライネスク侯爵が司祭らを押し退け、長い階段を駆け下りている途中であった。彼の背後にある扉から、ふ抜け面の貴族が数人、顔を覗かせる。しかし上空の様子に気づいたのか、すぐに中へと隠れてしまった。
「お止めしろ!!」
どこかでだれかが叫び声を上げた。たぶんあのディンケルという副官だろう。その命令に従って、兵士たちは階段を降りてくる侯爵を止めようと駆けていった。
それがあまりにも一斉だった為、驚いた司祭の一人が尻餅をつき、馬たちも騒がしくいなないた。
それから先起こったことは、タナトスも目を疑うようなことだ。
「フェンリル!!」
もう一度侯爵が叫ぶと、隣に立っていた男が動き出した。
最初は歩いて三歩、そして大股で三歩。その間に男の体は青白い光を放ち始める。
男がとうとう走り出し時、その体は光に包まれ見えなくなった。
「来い!」
次の瞬間 ――――光が四散した。
光の中から現れたのは、あの狼魔だ。魔物が宙を駆け、兵士たちの頭上へと飛んでいく。
すると百人近くの男たちは上官の命令より、自分の命を優先させ、頭を抱えてしゃがみ込んだ。
しかし階段の下にはまだ数十人が残っている。数人はまだ命令に従おうとしている者もいるようだった。
その時、少年の体が宙を舞った。
地面まで十段ほど残っている場所から跳んだのだ。
兵士たちは少年を受け止めようと手を伸ばす。だがその手をかすめるようにして抜けていき、少年の体を受け止めた。
細い指がブルーグレーの体毛をつかんでいる。
狼魔はそのままゆっくりと上昇を開始して、その間に侯爵は魔物の背中へ登ることに成功していた。
その後どうなったのか言うまでもない。
黄金の天子を乗せた銀の狼は、真っ直ぐに迫り来るククリへと向かっていった。
「おお、天子様……」
鉄門の向こうにいる民衆は逃げることも忘れ、一心に空を仰いでいた。
「と、とにかく皆を避難させるのだ!」
気を取り直したらしいディンケルの声がした。兵士たちも同じく気を取り直し、タナトスの前を通って人々の方へと走っていた。もう隊列もクソもない。馬はすべていきり立ち、とても役に立ちそうにもなかった。
通りの方に残っていた兵士たちも加わって、民衆を散らそうとする怒鳴り声が何度も聞こえてくる。それに驚いた子どもが泣き出した。
上空はもう戦闘が始まっていた。狼魔は上にいる敵には火を放ち、下から来る敵には牙と長い尾を使って応戦する。もちろんラシアールも加わって、ソフィニアの上空は完全に戦場と化していた。遠くの方からざわめく声が聞こえるのは、街中が大騒ぎになっているからだろう。
そんな中、タナトスはひとり漠然と空を見上げていた。
「……なるほど、焼き殺すってそういうことか」
今さらの答えに気づいた自分が可笑しくなり、クスリと笑う。最初の驚きが消え去ってしまえば、あとはいつもの自分に戻るだけだった。
「どうにもこうにも手に負えないクソガキ、いや、皇帝陛下だ」
あんなのに振り回されたらこの国がどうなってしまうのかと思うと、興味はますます大きくなっていく。
「眉目もいい、頭もいい。だがあの性格は……」
遠目からも、金色の髪が輝いているのがはっきり見えた。
少年は嬉々として、戦いに臨んでいることは間違いない。
「なるほど、美しき天子か……」
そう呟いて、タナトスは悠々とした面持ちでポケットから煙草を取り出した。




