第87話 緑風薫る
星空に、初夏の風が吹く。
その風に金の髪がなびいている。
――あれは我が主。
以前もあの場所に立っていた。細い屋根飾りを片手でつかみ、闇に染まるソフィニアを悠然と眺める。
愛おしきその姿に引き込まれ、彼の元へと一歩踏み出したその時だ。
気配を感じたのか、少年はゆっくりと振り返った。星明かりだけでは表情は読めず、かける言葉が見つからない。
だた互いの視線だけが、螺旋になって絡みついた。
無言のまま、足場の悪い屋根をそろりそろりと歩いて行く。
「ここだってよく分かったね」
目の前まで近づくと、ようやく彼はそう言った。
明るい声ではあるけれど、無理をしているのは手に取るように分かってしまう。ここ数日のことを考えれば当然だ。
しかし、それでもなお強く輝くから、彼は美しい。
「とりあえず、なんとかなりそうだよ」
「いよいよ明日か……」
彼は軽く肩をすくめ、口の端を少し引き締めた。
「明日はただの余興だ。なんて言ったら、兄さんと伯爵に怒られるね」
「どちらも薄ら笑いを浮かべているだろう」
「かもね」
その時、彼の羽織った黒いマントが突風に煽られて、その体がグラリと揺れた。慌てて手を伸ばし、華奢な体を落ちないように受け止める。
夜に流れる緑風は、少年と同じ薫りがした。
ククリ族の女子供が処刑されたのは五日前のこと。もっとも情報がもたらされた当初は静かな騒動でしかなかった。主はただ困惑し、だれの命令かということばかりを気にしていた。
それが大騒動になったのは翌日だった。
ククリ族の残党が報復を開始したのだ。標的にされたのは、葬儀に参列するため領地を出立していた貴族と、いくつかの町だった。
それから丸三日、ラシアール族とソフィニア軍は数度かの戦いを余儀なくされた。幸いと言うべきか、ククリの攻撃は前回のように大規模ではなく、魔物も数体使われただけで留まった。それでも貴族二人が殺されて、町が一つ破壊された。
戦ったのは人間やラシアールばかりではない。この身体も人から魔物へと変化させ、敵の匂いを探りつつ、二日ほど空を駆けた。しかし倒した相手は魔物一体、エルフ二人。町の破壊は防げなかった。
「あのさ……」
腕の中にいる主が顔を上げる。青いはずの瞳は黒くくすんで見えた。
「ん?」
「お前はだれ?」
「またそれか……」
「ヴォルフ? フェンリル? どっちだよ」
「どちらでもあると言ったと思う」
「じゃあさ、今とフェンリルの時と、どっちが本当の姿だと思う?」
それは難しい質問だった。
長らく魔物の姿となっていて、久しぶりに人へと戻った時、違和感があったことは否定できない。手と足が借り物のようにぎこちなく、意識すら漠然としていた。
けれど自分が何者かなどと考えはしなかった。崩れゆく少年を、ひたすら抱き締めたいと願っただけだ。
どんな姿をしてようと、愛しさは魂に刻まれているのだから。
それを分かってもらおうと、黄金の髪に唇を寄せる。それでも少年はしつこく答えを求めてきた。
「どっち?」
「本当の姿は魂だけだよ」
満足させられる答えではなかったようだ。背中に回した腕が振り払われ、肌に感じていた温もりが離れていった。
「ここに味方はお前しかいないんだ、ヴォルフ」
「そんなことはないだろう? 君を想う者は大勢いる」
「自分勝手な理想と理念を押しつけた想いだよ。だれも僕自身であることを望んでいないくせに、僕自身であることを望んでいる」
「あの子爵令嬢に、また責められたのか?」
もしもそれを悲しんでいるのなら、胸を貫く寂しさはあるものの仕方がない。ここにいるのは魔物であり、彼の未来を守るだけの存在なのだ。
「だれに責められたかじゃなく、なにを責められたかが問題なのさ。もちろんあの処刑は僕の知るところではなかったし、このタイミングだったのは陰謀なのかそれとも偶然なのか、これから調べる必要がある。アーリングはククリへの私怨が元となったことだろうと言っているけど。ジョルバンニの策略ではないとは言いきれない。奴は否定しているけどね」
「ならいいじゃないか」
「良くなんてない。僕はなんの為にここにいる? だれかの理想を実現させる道具のまま生きていく為?」
「では、君はどうしたい?」
その瞬間、少年は大きな瞳をさらに見開いて、動きを止めてしまった。
なにをそんなに驚かせてしまったのか分からぬまま、彼の言葉を黙って待つ。それが今できる唯一のことだった。
やがて__
「僕は……自分ですべてを動かしたい……」
「つまり?」
「ずっと流されてきた。そういう運命だって思ってきた。でも本当は認められたいと思って、それができなくて自分に腹が立った。藻掻けば藻掻くほどどうしようもなく未熟で、誰かの手を借りなければならないことも嫌だった。僕は守られる者なんかじゃない」
「うん」
「正しいこともそうでないことも、自分の意志で決めたことなら納得ができる。でも流されるまま、正しいと思うことをただ選んで、責められるのも仕方がないと諦めて……」
主は口を閉ざした。心の中で自問を繰り返しているのだろう。今までの自分を振り返り、これからの自分を想像して。
彼がどういう結論を出すのか、今は静かに待つだけだ。
風に乱れた黄金の髪が、星の光に煌めいている。
それはまさに雄峰に立つ若き獅子だった。
「運命を諦めるなんて嫌だ。僕の運命は自分で作る。絶対に飼い慣らされる者にはならない」
「皇帝として?」
「そう、皇帝として」
それが決められた運命だったとしても、彼が積極的にそうなりたいと思うことが大事なのだ。今、初めてその決意を口にして、若き獅子は一つ成長を遂げたようだ。
「だが俺はやはり君を守り続ける」
「分かってるさ」
そう言いつつも、彼は一瞬辛そうな表情で目を伏せた。
「でもそれはヴォルフとして? それともフェンリルとして?」
「どうしてその答えを欲しがるんだ?」
「僕の欲望をお前に押しつけたくないからだよ」
その言葉とは裏腹に、細い指に胸元をつかまれて、強引に引き寄せられた。
見つめる青い瞳は、驚くほど熱を帯びている。
しかし夜風に乾いていた唇は、とても冷たく。
確かに以前ほど彼を欲しいとは思わない。人でなくなったからだろうか。だが大切な者であることには変わりはなかった。
――未来永劫、彼は我が宝石、我が主。
失うことなどあるはずが__
「油断をするなよ。明日から僕はお前だけの者ではなくなるんだから」
囁かれた言葉に、魂の一部が焦りに似た何かを感じていた。




