第84話 過去と未来と
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『ワシらは、“時”という海の上を未来に向かって進んでいる船に乗っているのじゃよ』
リュットはそんなふうに説明を始めた。
ユーリィとすれば屋敷に残っているかもしれないラウロを助けに行きたかったし、そう訴えたのだが、リュットに強く止めらてしまった。
しかたなく部屋にいる者たち同様大人しくリュットの言葉に耳を傾ける。そばにはヴォルフが立っていた。二人だけにして欲しかったけれど、だれも出ていってくれなかったので諦めるしかなかった。
自分がどんなに会いたかったか彼らは知らない。
この時をどれほど望んでいたのかということを……。
だからリュットも素知らぬ顔で先を続ける。
『だれも“時の海”に入ることはできない、ある限られたモノ以外はのぉ』
「それがフェンリルってこと?」
ヴォルフの反応を窺いつつ、ユーリィは内面を隠して質問をした。
『他にも色々おるが、それはまた今度話して聞かせよう。話はゲオニクス、つまりフェンリルがワシらの乗る船に穴を開けたということじゃ。島にいたワシはそれが分かり、急いでここまで飛んできた。“時の穴”は頻繁に開けて良いものではないし、フェンリルもよほどのことがない限り、開けることはない』
「体を乗っ取られたんだ」
感情のない声でヴォルフが説明をする。すかさず「す、すみません。うちのデロデロちゃんの仕業です」とブルーが謝った。
「それで屋敷はどうして消えて、そして現れた?」
『まあ、待て。まずは穴に落ちたらどうなるかという話をしよう。“時の海”に落ちれば人であろうと物であろうと、すぐに船の上へと押し戻される。その建物も穴に落ちて早々に戻ってきたのだろう』
「それなら、まだ中にラウロがいるかもしれないじゃないか!」
『待てと言うたろう』
リュットは頭を左右に振って、なにかを確かめるように室内を見回した。リュットの後ろには神父が立っている。フクロウが喋ることがよほど怖いのか、顔面蒼白の彼は、離れていても分かるほど震えていた。
アシュトは小さな窓のそばに立ち、部屋全体をぼんやりと眺めている。元領主の息子としてそれでいいのかと思うものの、彼は資質的に指導者には向かないことは、もうとっくの昔に見えていた。
ベッドに前には男が三人並んでいる。ハーンもやはりリュットに驚いているようだが、神父のように怖がってはいなかった。ブルーは真剣に話を聞いているらしい。
そしてヴォルフは気のない表情をしているだけ。
フェンリルの魂と同化したということは、つまりヴォルフがヴォルフでなくなっているということ。それに気づいたのは、彼が“自分でもどちらなのか分からない”と言った時だ。彼が戻ってきてくれることばかり期待して、そんなこと考えもしなかった。
もしかしたら彼は、自分が知っているヴォルフではないかもしれない……。
そんなユーリィの不安などつゆ知らず、フクロウの丸い瞳はヴォルフを真っ直ぐに見た。
『ゲオニクスよ。そなたはどこに穴を開けたのじゃ?』
「あの屋敷の中に境界を作った。建物が全部持ってかれるほど大きいものじゃないが、あれだけ長期間開けっ放しにしていたからな……」
『していたらどうなる?』
「あんたの言う“穴”の境界が広がって、すべてが流されてしまうだろう」
『つまり中は“時の海”が浸っていくといことじゃな?』
「端的に言えばそういうことだ。放置しておけばこの町どころか、世界そのものも流されてしまうだろう。もっともそうなる前に、俺以外のだれかが閉じに来るだろうが」
ヴォルフの言葉はフェンリルそのものだった。ヴォルフならそんなことを知っているはずもないし、言うはずもない。ユーリィの不安はますます大きくなった。
『流されたらは、その後どうなる?』
「あんたも言っただろう、押し戻されると。屋敷が戻ってきたのはそのせいだ」
『中にいた者たちは?』
「屋敷と一緒に戻るってこともあるだろうが……」
ヴォルフは意味深に室内を見回すと、「そうではなさそうだ」と付け加えた。
「つまりラウロたちは、もっと未来に戻ってくるってこと?」
『未来とは限らない。過去ということもある』
「過去……」
「何百年も前ってことはないだろうな。俺ですらせいぜい二、三百年しか動けない」
この話をしている最中、挙動不審な動きをしている人物が一人いた。彼は近くの物を手に取っては置き、置いては手に取り、さらに顔面からは完全に血の気を失われていた。
その人物に注目しつつ、ユーリィは質問を続けた。
「もしかしたら、過去に行ったラウロが今、ここにいるってことあるんだよね?」
『同じ船に同じ魂が乗るとすれば、どちらか一方が消え去るか、もしくは別の魂として存在するという形になるかもしれないが、有り得なくはない』
フクロウの瞳もまた、同じ人物を捕らえている。もちろんヴォルフもそうだった。
それは彼が何者であるか、ユーリィの想像が正しいことを証明している。しかしその人物はみなの視線を無視するように、暖炉の上にある古びたランプをいじり続けた。
「神父、あなたはもしかして、あいつなのか?」
堪りかねて、とうとうユーリィが尋ねる。振り返った相手は焦ったように瞳を揺り動かした。その態度は肯定を意味しているのと同じ。だが神父はぎこちない笑みを浮かべると
「なんのことをおっしゃっているのでしょうか?」
「ラウロに凄く似てる、表情とか態度とか。そうなんだろ?」
「私はずっとマルク・リュフールであり、それ以外であったことはありません」
「嘘つけ。さっきからずっと動揺してるじゃないか」
「動揺しているのは、町が大変なことになったからです」
「なんで誤魔化すんだよ!?」
すると神父はそれまでの動揺を抑えて、真顔でユーリィの方へと向き直った。
「私はこの四十年、一度も辛いと思ったことはありません。それはひとえに神のご加護を信じていたからです。だから死ぬまで神父として生きていく所存です」
「でも……」
「ですが、もし叶うのならひとつだけお願いを聞き届けてくださいますか?」
「なに?」
神父はゆったりとした足取りでユーリィの方へと近づいてきた。その顔には笑みが浮かんでいる。この短い時間で彼はなにかを悟ったのだろうか。
「一度でいいですから、お体を抱かせてもらえないでしょうか? 天子様のご加護をいただきたいのです」
「それは……」
「むろん駄目だとおっしゃるなら諦めます。とても不躾で失礼な願いですので」
確認するためにヴォルフを見上げると、彼は小さくうなずき、体を引いた。
「いいよ」
そばまで来た初老の神父は、恐る恐るといった様子で腕を伸ばす。その表情があまりにも強ばっていて、あまりにもラウロに似ていた。
黒い祭服の腕がスッと伸びてくる。
遠慮がちにその腕が背中に回されると、神父の顔が間近となった。
「ラウロ、僕は……」
「侯爵、貴方は私にとって永遠に天子様なのです。だからどうかご自分を信じてお進みください。私も貴方の天運を信じ、ここで人生を静かに閉じるつもりです」
体を離した神父は微笑んでいた。幸福というものが目に見えるとしたら、それは彼の笑みの中にあると思ってしまうぐらいに。
「ありがとうございます、侯爵」
「でも、二回や三回ぐらいはいいんだよ?」
「三回なんて抱き締めてしまったら……」
しかし神父はそれ以上言わなかった。黙ったまま彼は扉まで戻り、ゆっくりと振り返る。
「外の者たちを手伝って参ります。私の勤めはそれであることを忘れていました」
パタンと扉が閉まったのち、しばらくだれも口を開かなかった。それぞれに思うところはあっただろうが、だれもがためらっている。そんな雰囲気の中、最初にブルーが口を開いた。
「あ、そうだ。俺もまた行ってきますよ。屋敷の中も一応確認してきます。あのククリは一緒に戻っているかもしれませんからね。さあ、行きましょう、アシュトさん」
「私もですか!?」
「だって、あなたは領主の息子でしょうが。俺と一緒に来なくてもいいっすけど、少なくても神父の手伝いぐらいはした方がいいじゃないっすか?」
「あぁ、まぁ、それは……」
アシュトを引っ張って出ていくブルーに、ユーリィは急いで声をかけた。
「ブルー、お前も適当に休めよ。お前だって連れ去られたりして、大変だったんだから」
「いえ、大丈夫です。あの草が刺さって痒かった以外は大したことなかったし、それほど疲れてないっすよ。それにあのククリをここで見た時、“あれ?”って思ったんです、実は。でも眠かったし、考えるのも面倒だったんで、孤児なんだって思うことにしてしまって。もし俺がもっと考えてたら、こんなことにならなかったのかなって責任を感じてて……。そういうわけで行ってきます」
ブルーたちが出ていって、ふたたび沈黙が訪れた。
ハーンはずっと発言をしていない。だが彼については、ひとつだけ疑問がある。そのことを尋ねるべきなのかという迷いがあった。
その時、まるでユーリィの心を悟ったようにハーンはベッドのそばを離れ、リュットのところまで歩み寄り、しげしげとフクロウを観察し始めた。
「喋るフクロウねぇ……。で、これはどんな魔法ですか、侯爵?」
『これは仮の姿じゃ』
「リュットは地の精霊なんだ」
「なるほど、これがあの男が言っていた“素晴らしい世界”ってやつですか」
おもむろにハーンの視線がフクロウからユーリィへと移った。その瞳には怒りとも嘲りともつかぬ光が宿っている。
「さっきから聞いていた話を想像するに、あの赤目のエルフは、狼魔に“時の穴”を開けさせたってことらしいですね。それはなんの為に?」
「それは……」
言葉を切ったのは、答えを思いあぐねたせいだ。心が嘘を探し回っている。この男にどう思われようと今さらどうでもいいはずなのに。
わずかに悩み、しかし真実を告げることにした。ハーンに憎まれることが結局は正しい選択なのだ。
「あいつは先の戦いでの首謀者だった息子を、過去から呼ぼうとしたんだ。また新たな戦いをする為にね」
「どうやって?」
「さあね、僕に分かるはずがない」
「いつの過去から?」
「分かるはずがないって言ってるじゃないか!」
しつこく尋ねられることに苛つきを感じ、つい声を荒げてしまった。
憎まれようとした矢先にこれだ。自分はなんて偽善者なのだと己を罵りつつ、取りつくろうように目を細めた。
「あの戦いの首謀者はエルフだけの世界を作ろうとしていたらしいですね。それとソフィニアにあった魔法学園の生徒で、フォーエンベルガー伯爵も同じ場所にいたことも聞きました。伯爵の話によれば、学園にいた頃はそのような大それたことをしようという気配はなかったとのこと。だとすれば、どの時点でそいつが“エルフの世界”などという馬鹿げた妄想を抱くようになったのか。ひょっとしたら過去から呼ばれた時はまだあの事件は未遂だったという可能性がある」
「案外、回転が速いな、お前」
「その返事は、侯爵もそのことにお気づきだったって白状しているようなものです」
「ああ、気づいてたさ。もしかしたら、今とは全く違う世界に変わっているかもしれないってことも、魔物襲来など起きなかったかもしれないことも」
ハーンは眉を顰めた。きっと死んだ恋人に想いを馳せているのだろうと想像できる。死が愛しい者に訪れなかった可能性についてを……。
「悲劇が起こらなかったという可能性に賭けようとは思わなかったのですか?」
「思わなかった」
「なぜ?」
「可能性はあくまでも可能性だから」
「ご自分が今の地位にいないかもしれない、という可能性を考えたからでは?」
「地位なんか……」
一瞬、口を割りそうになり、慌てて「ああ、地位が惜しかったからだ」と言い直すと、ハーンの片眉が上がる。次に彼がなにを言い出すのか、ユーリィは息を飲んで見守った。
「はっ、なるほど、それは素晴らしい」
「嫌味か?」
「いいえ、心から申し上げました。貴方は二度と災いを繰り返さない道を選んだ、貴方自身のために最初の災いには目をつぶってね。支配者に相応しいと感心いたしましたよ」
「だったら早く帰って、フォーエンベルガー伯爵にそう報告すれば? っていうか、お前はなんで戻ってきた? 帰るって言ってただろ」
「少々、貴方に興味を持っただけですよ、侯爵。あの事態をどう解決なされるかってね」
「納得がいった?」
「ええ、とても。ですがまだ帰りませんよ。ますます貴方には興味を持ちましたので。では、これにて失礼。さすがに腹が減りましたから」
捨て台詞にしては少々効果が薄い。それほどハーンの自制心が強いのか、それとも別のなにかを思っているのか。
彼が出ていった扉をしばらく睨み、ユーリィは思い悩んだ。
(そういえば、あのことを聞くのを忘れてた……)
屋敷が消えた直後、ハーンが言ったセリフが気になった。
彼はなぜ、あんなにはっきりと中の様子が言えたのだろう。あれは当てずっぽうだったのか。それとも彼がこの事件に荷担しククリたちとも繋がっているからなのか。
(そうなると、フォーエンベルガーもククリと繋がっているってことになる)
疑い出したらきりがないのは分かりつつも、疑惑の芽はむくむくとユーリィの中で膨らんでいく。ハーンの行動、言動、態度、どれをとっても得体の知れない不気味なものがある。もしもなにかの策略を秘めているとしたら……。
先ほどからずっと黙っているヴォルフを仰ぎ見る。すぐに視線に気づいた彼は、緩やかに微笑んだ。
そう、まるで別の者になってしまったかのように。
『そなたは分かっておるのじゃろう?』
突然、フクロウが話し始めた。その声はいつになく厳しかった。
「なにを?」
『エルフが呼ぼうとしていたのは魂だということじゃ。“召喚の術”を知っていればそれは難しくはない。むしろ生身の体を呼ぶよりも手っ取り早い。だとすればあの戦いが終結した直後じゃのぉ。つまり過去は変わりようもなかった』
「憶測に過ぎないだろ? それに昔の自分に戻るのが怖かったのも事実なんだし」
『そなたは相変わらず、生き難い道を選ぶようじゃの。まあ、良いわ。あとはワシには関わりのないそなたの問題じゃ』
それからフクロウは「ゲオニクス」と呼んだ。そう呼ばれることになんの違和感を抱いていないヴォルフは、黙ってフクロウの横を通り過ぎ、扉の向かい側にある小窓を開く。
言葉のない会話が、精霊と魔物との間に交わされたのだ。
『いずれまた会おう、光ある者よ』
夜空に飛び去っていくフクロウを、ユーリィはヴォルフの隣でしばらく眺めていた。
ようやくふたりだけになれた。
それなのに、不安に呼吸が荒くなる。
本当にここにいるのは彼なのだろうかと。
「ヴォルフ……」
呼吸を落ち着かせ、なるべく顔を見ないようにしてその名を口にした。
「なんだ?」
「お前……本当にヴォルフなんだよな?」
「そのつもりだ」
「つもり……?」
ハッとなって顔を上げれば、ヴォルフはあの微笑みを浮かべて見下ろすだけ。
だけど以前の彼は、そんな笑みは浮かべなかった。
内にある感情のまま、こっちを翻弄して、時々自滅して。
でもそれがヴォルフだったはずなのに。
「本当はフェンリルなんじゃないの?」
「そうでもある」
「どっちだよ?」
「どちらでもあるってことだ」
「そんなの、分からない」
分かりたくもない。
同化がそういうことだなんて知りたくなかった。
すると背中に回った腕にグッと引き寄せられた。体温も匂いも間違いなくヴォルフのものだ。顔を上げれば、当たり前のように彼の顔が近づいてきた。
触れ合った唇がとても懐かしい。
以前と変わらず、一瞬でなにもかも忘れさせてくれる。
だから夢中で貪り合えば、以前の彼が戻ってくるとユーリィは願っていた。
しかし__
絡んだ舌がフッと離れる。物足りなさに彼の頬へと手を伸ばせば、押さえるように掴まれてしまった。
「……なんで?」
「これ以上は、君の体に負担がかかるから」
「お前は本当にヴォルフなんだよね?」
「人の姿をしている時はその名で呼べばいい」
ずっと求めていた存在と知って、急速に心が渇いていく。
それが辛かった。
「ユーリィ?」
「冷静沈着なヴォルフなんて、ヴォルフじゃない。お前はもっと――」
その時、扉が開く音がした。
何気なく顔を向ければ、バツが悪そうな表情を浮かべブルーが立っている。
「あっ……ええと、お取り込み中、すみません。ですがちょっと急ぎなので……」
「なに?」
「ソフィニア軍が来たんです。ディンケル副官が率いている軍です。フラン=ドリエからもここの様子が見えたらしく、きっと侯爵がいらっしゃるだろうと心配して急いで駆けつけたらしいですよ」
「そう、分かった。僕もそろそろ町を見に行かなきゃって思ってたんだ」
「それが実は……」
言いかけたブルーを背後から押し退ける者がした。
懐かしいと言うほどの親近感を持っているわけでもない。やや薄くなった黒い黒髪と黒い口髭、やや低い鼻と厚めの唇をした無骨な男だ。
アーリングの片腕として武勲を立ててきたその男は、黙って入ってくると、険しい目でヴォルフを睨みつけた。
「またそのようなことを……」
それ以上言わせないために、ユーリィは自らヴォルフの腕を振り払った。
「久しぶりだね、ディンケル」
「話は聞きましたぞ、侯爵。ずいぶんと無茶をなさったとか。本当に貴方という方は……」
「無茶ってほどのことはしてないよ」
「顔色がお悪い。またお食事を抜いていらっしゃるのではないでのですか? これだから自分は、貴方がソフィニアから出られることには反対していたのですよ」
「文句を言うために、ここまで来たのか?」
「侯爵には至急ソフィニアにお戻り願いたいと、ジョルバンニ氏から連絡がありました」
「なにかあったのか?」
「セシャールから使者を出したという親書が届いたそうです。その使者というのが……」
、横に立つヴォルフを睥睨しつつ、ディンケルは驚くべきことを告げた。
「オズヴァルト・グラハンス子爵だとのこと。グラハンス殿とはなにかご関係が?」
「ああ、ある」
そう言ってヴォルフは小さく肩をすくめた。
またなにかが動き出そうとしている。
数ヶ月後、いったい自分はどこにいるのだろうかと、ユーリィは遠くない未来に想いを馳せていた。




