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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第三章 朧月
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第81話 一粒の麦

 雷雨が一段と激しくなった。木の根のような形をした稲妻が地表へと伸びて、そのたびに雷鳴が大地を引き裂くような音を轟かせる。

 教会に向けて走るラウロも、すでに前身がぐっしょりと濡れていた。目を細めなければ、雨粒が目の中に入ってくる。昼間だというのに辺りは薄暗く、道はあちこち川のように水があふれ、すべてが先に進むことを邪魔しているように思えた。

 雨風に押された畑の麦たちは、伸びた茎がほとんど倒れている。しかし麦はこんなことで負けやしない。

 自分もそうでありたいとラウロは願った。ここにいるのは一粒の麦にしかすぎないかもしれない。けれど一粒の麦があれば生き長らえる者もいると神の教えにもあるのだから。


(もう侯爵は屋敷に着いたかな……)


 屋敷の森が遠目に見えた。一年前なら、本当の森のように鬱蒼として、その奥にある屋敷など一切見えなかったが、今は屋根の一部を見ることができる。半分以上切り倒されてしまったせいだ。しかし屋敷の中に入るのが簡単になったわけではなかった。


 ラウロは水浸しの道を走り続けた。もともと傷んでいた革靴は、履いている意味すらないほどに中にはたっぷり水が入り込んで、グジュグジュと変な音を立てていた。

 雷はどんどんと近づいてきていて、いつ稲妻に打たれてもおかしくない状況だった。

 怖くないと言えば嘘になる。しかしラウロは、まるで取り憑かれたかのように一心に屋敷を目指した。

 何者かに早くしろと急かされている気分だった。


 しばらく行くと屋敷の森にたどり着いた。切株だらけのその中へ入ると、水たまりはあちこちにあって、時々くるぶしまで浸かる。だが下草はそれほど深くない。真冬に雪が降り積もるガサリナ地方では、ソフィニアほど雑草は生えないのだ。しかもまだ春は始まったばかりだ。

 走りたいのを抑えて、しっかりと水の中のぬかるみを踏みひたすら歩く。やがて前方に黒い壁のような物が見えてきて、ラウロはフッと息を吐き出した。

 あれは屋敷の四方を囲む鉄柵だ。間からは屋敷の側面が見えていた。しかし長い槍を逆さに並べたような鉄の柵は、素手では半分も登れやしないし、ましてやこの雨だ。


(でも、あそこのならきっと……)


 多少の不安を抱きつつ屋敷の真裏まで来ると、木が残っていたのを見てにホッとした。

 実は屋敷の裏にある柵のそばに、ボアの群生が生えていたの知っていた。そのせいで、町の者たちはその辺りにある木は避けていた。これなら柵より少しだけ離れた場所にある木に登り、柵を越えることが出来るかもしれないと思っていた。

 鳴り響く雷にびくつきながら、一番手頃な木を選んで、登れないかと試みる。木登りは子どもの頃から得意で、神父にはしょっちゅう怒られていたが、さすがに雨の中で登ろうとしたことは一度もない。案の定、濡れた枝の樹皮に手が滑って、なかなか上手くいかない。

 なんどか試みて、雷がかなり近い場所に落ちた音に心で悲鳴を上げつつ、なんとか体を枝の上まで引き上げることに成功した。

 そこかさらに上に行き、ちょうど高さが柵から越えた辺りで、柵に一番近い枝を選んでなるべく屋敷の方へと近づいた。

 もし失敗したら、鉄柵の先がグッサリと体に突き刺さる。上手く越えられるたとしても、落ちるには勇気がいる高さである。地面にあふれる雨水だけが、心のより所だった。


(絶対いける!)


 自分に言い聞かせ、中腰のまま体で枝を揺すって反動をつけた。葉や小枝にあった雨が、音を立てて下へと落ちていく。それらすべてが落ちきった時、枝の動きが軽くなった。

 ままよと心で叫んで、次の瞬間宙へと身を投げ出す。鉄柵の先が体の下に見えた時はヒヤリとした。

 しかし目論見は見事成功した。読みが甘かったことといえば、たとえ水たまりであっても、肩を地面に打ちつければ痛いということだ。ただ怪我をするほどではなかったので、やはり雨のおかげなのかもしれない。

 緊張と衝撃で、ラウロは地面に寝転んだまましばらく動けなかった。

 激しさを増した雨が、容赦なく顔に叩きつける。雷は空と大地を壊そうと、絶え間なく稲光と雷鳴を出して怒り続けている。手の甲が痛いと思って眺めると、ボマに触れた場所が赤く腫れていた。

 そうしているうちに急に込み上げて、ラウロはゲラゲラと笑ってしまった。

 先の戦いの最中、ヒヤリとすることは何度もあったし、魔物の大群を前にして本当に死にかけたこともあった。けれど今はこんな場所で、こんな嵐の中で、たった独りの少年のために死をかけたのだ。

 それなのに後悔の微塵もない。この瞬間のためだけにこの世に生まれたのだと思うことすら満足してしまう。そんな自分がマヌケで奇妙な存在だと思うと可笑しくなった。

 ひとしきり笑ったあと、ラウロはずぶ濡れで痛む体を起こして立ち上がった。

 戦いはまだこれからだ。

 彼のために本当にすべきことはこの先に待っているはずだ。

 屋敷の裏手には、正面にあるような蔦木はない。代わりに手入れをされなくなって久しい常緑樹が、好き放題に生え散らかっている。その昔は美しい庭園を造っていた灌木だったろうに、今は見る影もなく、ほとんどがラウロの背丈を超えるほど伸びていた。

 その間を抜けていくと、木の根元になにかが動いた気がしてラウロは立ち止まった。 

 敵が潜んでいるのか警戒するまでもなく、ラウロに気づいた相手が駆けて、足へと取りすがった。

 黒い髪をした小さな子どもだ。


「シャミル、大丈夫か?」


 優しい声でそう尋ねると、幼児は雷にも負けない大声で泣き始めた。幼顔は雨と涙と泥で酷い状態だ。よほど怖かったのか、それとも寒いのか、唇が青紫になっていた。


「シャミル、なにがあった?」

「こわいーこわいーこわいー」


 とても会話にはならない。もっとも落ち着いていたとしても二歳児に説明させるのはどだい無理話だ。

 とにかく彼を連れていくわけにもいかないと、「すぐに戻るからちょっと待ってて」と木の下に押し込めようとしたが、ますます足にすがって離れようとはしない。このまま置いていくのは難しいとラウロは判断した。

 しかたなく冷えた子どもを抱き上げて、濡れた顔を拭ってやる。するとシャミルはやっと、グズグズと鼻を鳴らす程度に落ち着いてくれた。


「これから俺は向こうに行かなきゃならないんだ」


 そう言って屋敷の方を指さすと、シャミルは力一杯首を横に振った。


「いやーいや-いやー」

「大丈夫、シャミルはずっと抱っこしててあげるから。だからもう泣かないで」

「ぼく、教会に帰るのー」

「うん、あとで一緒に帰ろう? だから今はちょっとだけ我慢して」


 それでも嫌だと言っていた幼児だったが、お菓子をあげるという言葉でようやく聞き入れてくれた。

 それからラウロは幼児を抱いたまま、ふたたび歩き始めた。シャミルの様子から尋常ならざる状況が待っていることは予想できる。だから身を潜めるようにして先を急いだ。有り難いとは言えないけれど、雷と雨が気配を消してくれている。シャミルも顔を押しつけるようにして抱きついて、必死に恐怖と戦っていた。

 雷の音に小さな体がビクッとするたびに、自分はなんて可哀相なことをしているのだろうと思ってしまう。しかし今引き返してしまったら、また後悔に胸を押しつぶされる日々が来ると思うと先に進むしかなかった。


 やがて正面玄関のそばまで来ると、ラウロは辺りを見回した。

 蔦林の向こうに、狼魔の青白い姿がなんとなく垣間見える。雨のせいでだれだかはっきりしないが、人影のようなものもいくつかあるようだった。


「侯爵がいらっしゃるのかな、あそこに」


 するとそれまで震えていたシャミルが、急に顔を上げてたどたどしく説明をしてくれた。


「あっち、おじさんいるの。こわいの。あっちいやー」

「つまり敵もあそこにいるってことか……」


 今、侯爵とあのエルフが対峙しているのだとしたら、自分がになにが出来るというのか。武器を持っているわけでもない。魔法が使えるわけでもない。まして幼児を抱きかかえたままでは、邪魔をすることはあっても、戦闘に加われるはずもなかった。


「やっぱり俺は一粒の麦にすぎないのか」


 そう思うと、自分自身が酷く腹立たしかった。

 そんなラウロの気持ちを察してか、ずぶ濡れの幼児は必死に訴える。


「あのね、でっかい犬がお家にボワッてしたの」

「ボワッ……?」

「ボワッてしたら、みんなびっくりなの」


 なにを言っているのかさっぱり分からない。

 分かることはただひとつ、屋敷になにかがあったというだ。

 幼児の言葉から最初は火でもつけたのかと思ったが、外から窺う限りそういう様子は全くない。昨日と変わらず剣呑な雰囲気を漂わせている。


(……入ってみるか)


 中にはだれもいない気がした。もしエルフの仲間がいたら、玄関先に人間がいて気づかないはずはない。なにしろ脇のステンドグラスは割れていて、外が丸見えなのだから。それともこちらが入ってくるのを待ち構えているのだろうか。

 ラウロは二度三度唾を飲み込み、色々な可能性を想像した。


(考えててもしかたがない。とにかく入ろう)


 林の方へサッと視線を走らせ、滝のように雨が流れ落ちている階段を駆け上がり、銅製の扉のノブを掴むと、一瞬間を置いてから押してみた。

 キーキーと軋んだ蝶つがいの音は、すぐに雷が掻き消した。

 体が滑り込めるだけの隙間が空くと、ラウロは幼児を落とさないように気をつけて、中へと進入した。

 最悪な予想として、魔法か武器が飛んでくると思ったけれど、そんなこともなく。昼間なので昨夜ほど暗くはなかったが、天気のせいで内部はやはり薄暗かった。

 息を殺し、聞き耳を立て、だれかいるのか気配を探る。幼児も大人しくラウロの肩に顔を埋めて、黙って耐えていた。

 やがて内部に入ってから二度目の雷の音が聞こえた時、ラウロはようやく硬直した足と背中から力を抜いた。

 ゆっくりとシャミルを床へ下ろす。小さな靴底からグジュッと水が出てくる音がした。


「シャミルは昨日、ここに来たの?」

「うん」


 なぜどうしてと尋ねようかと思ったが、止めておいた。

 どうせ説明してもらったところで理解できない幼児語だろうと思ったのも理由のひとつ。しかしもっと大きな理由として、エントランスの雰囲気が昨日とは違うような気がしたからだった。

 壁や柱、そしてシャンデリアの残骸はどこか妙だった。とくに階段の手すりが酷かった。真っ直ぐなはずだった白いそれは、酷く歪んで見えた。


「あんなふうに壊れてたっけ?」


 階段の床が抜けているのは昨日見たとおり。だけど手すりまであんなふうに歪んでいた記憶はなかった。

 気のせいだと言われればそうなのかもしれない。天井から斜めに吊り下がっているシャンデリアもまた、熱に溶けたような楕円ではなかったと断言はできない。

 断言はできないが、さすがに自分の足まで歪んだように見えた時は、さすがに目を擦って確かめずにはいられなかった。

 入ってしまって良かったのだろうか。

 こんなことをして本当に侯爵を救えるのだろうか。


“いずれ必ず、答えは神が授けてくださるでしょう”


 その時、神父の声が聞こえた気がして、ラウロは幼児の黒い髪を無意識に撫でていた。


 そう、いずれ答えは分かる。

 一粒の麦にも救われる者がいるという神の言葉だけを、今は信じていよう。

 どうか愛するあの方を自分が救えますようにと、それだけを願っていよう。


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