第78話 暗雲
「ブルーが戻るまで、その辺を散歩してる」
その言葉をラウロが信じたのは、ほんの数秒だけ。
漠然とした不安だった。嫌な予感と言ってもいい。彼の瞳に満ちていたのは、月のない夜空の陰り似たなにか。
だからすぐにあとを追いかけた。もう自分はその役目にはないけれど、それでも護らなければならないと心が訴えていた。
丘の裏側には緩やかな斜面がある。下りられなくはないが、群生している植物に問題があった。
ボマという名のその草は、身の丈ほどある茶色の太い茎と、四方に伸びる細い枝がある。枝には棘のある葉が大量についていて、触れば痛みとかゆみを伴い赤く腫れる。症状が重ければ発熱もした。子供たちにも裏には絶対に行くなと、神父は口が酸っぱくなるほど注意しているほどだ。
かつてこの地方では、自然の城壁としてボマを植えていたらしい。しかし味方に被害が出るという間の抜けたことが何度かあり、徐々に利用されなくなった。この丘にも大昔は砦があったらしいが、その名残で丘の周りにはボマが大量に生えていた。
(そうだ、侯爵はご存じないかもしれない)
あの柔肌だから他者よりずっと症状が酷くなるだろう。本当に散歩だとしても、触ったら大変なことになると思った。
呼び止める理由が見つかり、ラウロは心が軽くなった。
教会の裏側へと行ってみると、右手にある寄宿舎の前で狼魔とともに丘を見下ろす侯爵の姿がある。その背中に声をかけようとしたその時、侯爵の声が風に乗って聞こえてきた。
「……罠だってことぐらい分かってるよ、ヴォルフ」
その名前がラウロの胸を一突きした。
(あのペンダントを空けたから、グラハンスさんは元の姿に戻れないのか)
あんな男の口車に乗ってしまったから。
いや、違う。
あれは神に背いてもいいと思った自分の罪だ。
「丸く収めようっていうのは、やっぱり無理だったってことさ。僕もお前もロジュも、もう引き返せないところまで来ちゃってることぐらい、もちろん分かってたさ。でも、もしかしたらって思うのはしかたないだろ? もしかしたらお前が元に戻れるかもしれないって思うのと同じぐらいに。だから諦めたくなかったんだ。ただそれだけ……」
侯爵は寂しげに声を落とす。それから狼魔を愛おしげに撫でるのを見て、ラウロは愚かな心に欲望の残片が、きれいさっぱり消え去るのを感じた。
「大丈夫、お前がいれば。罠だって分かって行くんだから、いくらでも対処はできる、たぶん。それにハーンは最初からあてにはしてなかったし。ホントはリカルドに刺客をつけられたんだって、ちょっと思ってたんだけどね、あんな条件を出したから」
(条件……?)
盗み聞きなど良くないと知りながら、ラウロはつい息を殺して、侯爵の言葉に耳を傾け続けた。
「でもそれは違ってたみたい。ハーンをあのまま帰すのは中途半端な気がするけど、今はククリの方をなんとかしないと。勝負は一時保留だね。ソフィニアに戻ったらリカルドに手紙を書いて続行する気があるかどうか尋ねるさ。それとも勝利宣言にしようかな。だって僕のことをクソガキって言うぐらい、ハーンのやつ、内心ははらわたが煮えくりかえっている感じだし。自制心で押さえているだけで、実際に僕の勝ちだ」
ラウロはすっかり混乱し、自分の額を手で押さえた。
侯爵の言っている意味が半分も分からない。分かるのは、タナトス・ハーンという男をめぐって、侯爵とフォーエンベルガー伯爵がなにか約束をしたということだ。それが常軌を逸していることだけは、言葉の端々から感じ取れた。
「だけど他人に憎まれるのって、やっぱりいい気はしない。慣れてるはずなのに。僕もまだまだ甘いな。ハーンは辛い目に遭ったんだからしかたないって、つい思っちゃうんだ。なんだかジェイドのことを思い出しちゃってさ……。
でもブルーのやつ、本当に気づかなかったのかな? 同じエルフなんだから気づいてもいいのに……。まあいいさ、ククリがこれ以上なにか仕掛けてくるのなら殲滅してやるから。さあ行こう、ヴォルフ。行き先は分かってるだろ? あ、下までは飛ぶんだぞ。戦う前にボマにやられるなんて、あのミルトス三世みたいじゃないか」
狼魔に乗って丘を下っていく侯爵の姿を、ラウロは呆然と見送った。
我に返ったのは、ボアの群生地を越えた魔物が地に降り立った時だ。
「まさかお独りで、あの屋敷に……!?」
冗談じゃない。いくらなんでも危険すぎる。たとえ狼魔がいても、相手はエルフだ。もしも侯爵を失ったらソフィニアは混乱し、人々は更なる不幸を抱えることになってしまう。
なんとかしなければと、ラウロは助けを求めて馬車の停めてある場所まで駆け戻る。ちょうど馬車から降りたアシュトが歩き始めていて、ラウロの方をちらりと見た。
「アシュト様!!」
しかし彼は止まることなく、教会の入口の方へと歩み続ける。聞こえなかったのかと思い、もう一度名前を呼んでみたものの、その歩はますます早くなり、やがて角を曲がって姿を消した。
追いかけようかと悩みつつ横を見ると、馬車の横にいる馬のそばにハーンの姿をあった。彼は手綱を杭からはずそうとしているところで、ラウロを見る様子もない。役目は終わったという言葉どおり、本当に帰るつもりのようだ。馬車台の上では老人が、あくびを噛み殺しつつ、のらりくらりと手綱を解いていた。
しかしブルーがいない今、侯爵を護るの力があるのはハーンだけだ。
とにかく頼もう。太い眉、鋭い眼光、幅の広い獅子鼻、腰に携えた長剣。どれをとってもハーンに敵うとは思わなかったが、必死に頼み込めばもしかしたら……。
願うような気持ちで、ラウロはゆるゆるとハーンに近づいていった。
「ハーンさん、侯爵があの屋敷に向かわれたみたいなんです」
だがハーンはなんら反応を見せることなく、鞍から垂れた鐙へと片足をかけた。
「侯爵にもしものことがあったらソフィニアは……」
「昨日も言ったよな、オレにはソフィニアなど関係がないと」
馬の上からラウロを睥睨するハーンの黒い瞳は、冷たい光を放っている。それを見ただけで、やはり情に訴えても無駄だと理解した。
「そうですか、分かりました。ライネスク侯爵とフォーエンベルガー伯爵の勝負は、やっぱり侯爵の勝ちってことですね、それは良かった」
「……勝負?」
手綱をしごこうといていたハーンの手が止まる。
意味も分からず言ってみた効果があったと、ラウロは内心ほくそ笑んだ。
「貴方が侯爵の護衛を放棄して帰るかどうか、賭けているみたいですよ」
侯爵の言葉からの想像にしか過ぎない。だけど万が一ハーンが信じてくれたら、帰るのを止めるかもしれないと期待したのだが__
「で?」
なんの感情もこもっていないその声は、期待がないと思わせるのに十分な響きがあった。
「勘違いしているようだが、オレは別に若きフォーエンベルガー伯爵をご尊敬申し上げているわけではないのでね。正直どうでもいい。今はただ惰性で生きているだけだ」
「ええ、そんな感じがしますよ」
「じゃあな」
ハーンは手綱を緩め、鐙を蹴った。するとこの世の憂いなど知るよしもない馬は、素直に歩き始める。馬車に乗る老御者もやれやれといった表情を作り、二頭の馬を操って馬車を動かした。
不規則な蹄と車輪の音が、次第に遠退いていく。諦めるしかなさそうだと、ラウロは肩を落とした。
ところがその不規則な音がぴたりと止む。なにごとかと顔を上げると、ハーンが馬の首を巡らせて、戻ってこようとしていた。
(もしかして、気が変わったのか?)
しかしラウロの前まで来たハーンは、馬上から冷たい眼で見下ろすと、
「戻る前に一つ尋ねる。場合によっては、フォーエンベルガー伯爵に報告をしなければならないので。むろん嫌なら答える義務はない」
「あ、はい」
「ライネスク侯爵は、屋敷に行ってなにをするつもりなのか言っていたか?」
「ククリがこれ以上仕掛けるのなら殲滅すると……」
「つまりラシアールの男はククリに攫われたと思っているのだな。なぜだ?」
言われてみれば確かに、ククリが攫ったという証拠はない。それなのに侯爵は確信している様子があった。
「よく分からないんですが、ブルーさんが気づかなかったのが不思議だとか、そんなことをおっしゃってました」
「気づかなかった? ふぅむ……」
ハーンもまた分からないのか、考え込むように宙を睨んだ。
しばし沈黙が流れ、やがてハーンがふたたび視線を戻す。
「エルフと一緒にいなくなったという子どもというのは?」
「ひとりは十二歳になるエルフで、もうひとりは人間で二歳になる子です。どちらも俺がいない間に、つまりあの戦いで親を亡くしてここに引き取られたらしいです」
「十二歳のエルフ……なるほど……」
「ええと……?」
「ここの連中はエルフには疎いんだろうな。見かけは幼くても二十を越えていることは、エルフならあり得る。侯爵を見れば分かるだろ」
「ああ、そうか」
ラウロもようやく侯爵の言葉を理解した。
きっとラウロが報告をした時から気づいていたのだろう。けれど最初から独りで行くつもりだったので、黙っていたに違いない。しかし完全に自分はあてにされてなかったのだと、酷くガッカリした気分になった。
「幼児を人質に取られたか、もしくは寄宿舎に火をつけると脅されたんだろう」
「でもどうやって外に? 正面は侯爵が見ていて、裏側はボマが群生してますから。ボマは棘のある葉っぱに触れると、腫れたり発熱したりするんですよ。そばを通ったらきっと大変なことになる」
「攫われたのは真夜中。二歳児は寝ていただろうから担げばいい。ククリはあの黒いローブを着たんだろう。あれなら肌はほとんど出ない。もっともラシアールの男は、その大変なことになっているかもしれないけどな」
「そういうことか。あ、でも貴方はどこにいたんですか?」
「役目が終わったから、町に行って飲んでいた」
「なら貴方が残っていたら、もしかしたら昨夜のうちに気がついて……」
するとハーンは小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、鼻をふんと鳴らした。
「オレを煽っているつもりかもしれないが、残念ながらその手には乗らないぜ。ま、せいぜい頑張ってくれ。そうそう、あのクソガキは、おつむも顔もすこぶる良いってことは認めてやるよ。じゃあな」
男はもう振り返ることもなく、馬車を引き連れて行ってしまった。
ラウロは砂を噛むような思いで睨み続け、やがて男の頭が坂の下へと消えてしまった時、強い決意をした。
(いいさ、俺が行く。役に立つかは分からないけど、もう死んだってかまわないんだから)
ぽつりと冷たいものが頬に当たる。
見上げれば、暗雲が空一面に立ち込めていた。




