第77話 自叙伝『さして面白くもない人生』第三章 その7
――アシュト・エジルバーク自叙伝『さして面白くもない人生』第三章より抜粋
『サンウィングに到着した次の日、馬車で眠っていた私は、夜が明けてしばらく経った頃に起こされた。けれど熟睡していたわけではない。馬車で旅をしたことがある者なら分かると思うが、車内で就寝するのはたいへん苦痛である。侯爵のように小柄なら、上半身を横倒しにするのも可能だが、大人ではそうもいかない。背もたれに寄りかかり、両手をひざに起き、うつむいた姿勢で数時間。寝苦しさに夜中に何度も体勢を変えるも、目が覚めると首と背中が石のように固まってるからだ。
そして、この時の私は人生で一番疲れていた。侯爵が倒れたフォーエンベルガー城で一夜、馬車で四夜、私は横になって寝ていなかった。けれど、いつ何時ククリが襲ってくるかと思うと、とても宿屋へ行く気になれず、しかたがなく馬車で夜を過ごしたのだった。
話が逸れてしまったが、私を起こした相手はライネスク侯爵。愛想がないのは相変わらずだったが、朝だというのに剣呑な雰囲気さえ醸し出していた。
「お前、まだ寝てたのかよ」
非難する口調が普段より強い。まさかなにかあったのかと、私は不安になった。
「どうかされましたか?」
「なにが?」
「浮かない顔をされているので」
「別に大したことはないよ。ブルーが姿を消しただけ」
「なにゆえに!?」
「それは……」
侯爵は瞳を揺らし、後ろを気にするような素振りを見せた。なにがあるのかと窓から外を眺めれば、その背後には男が立っている。前日に礼拝堂にいた青年だ。神父の話では彼はイワノフ家の元近衛兵で、我々が到着する数日前に戻ってきたとのこと。侯爵とは面識があったらしく、昨日も案内役に例の屋敷へとついていった。
「彼がどうかしましたか?」
私は青年から目を離さず、侯爵にそう尋ねた。
「あいつからブルーのことを聞いたんだ。ブルーは昨夜、寄宿舎で寝てたらしいんだけど、彼と一緒に寝てた子供二人も消えたらしい。そのことをあいつは心配しててね」
「子どもも!?」
「アシュトはずっとここで寝てたんだよね? なにか聞かなかった? 声とか足音とか」
私は少し考えてから、首を横に振った。
馬車は教会の隣、寄宿舎とは反対側に停まっている。だからもしだれかが三人を連れ去ったのなら ――子どもだけならともかく、騒ぎを起こさずにエルフとはいえ成人を攫えるとは思えなかった―― 私がなにか聞くより以前に他の者が気づくだろうと思っていた。
「御者の老人には尋ねたのですか?」
「お前に尋ねる前に聞いたよ。彼は御者台で寝てたらしいから」
「まだ寄宿舎のどこかにいるのではないでしょうか。たとえば子どもと隠れん坊のようなことをしているとか……」
「確認は一応したけど見つからなかった」
「では町に行ったということは考えられませんか?」
今度は侯爵が横に首を振る番だった。ずいぶんと自信があるらしく、「それはないね」と言って力強く否定した。
「僕は庭で寝てたんだよ。道が見下ろせる場所に、フェンリルと一緒にね。だれかが通れば僕かフェンリルが絶対に気づくはず」
「そうでしたか……え? 庭で!?」
「もう狭い場所で寝るのはこりごりだからさ。そういえばあのベタドロもいないね」
「昨夜までは上に乗っていましたよ」
すると侯爵は目を細め、考え込むような表情になった。
その様子を見て、どうやら想像以上に大変なことが起こったのだと、私の中にあった焦燥の念がますます強くなっていったのだが……。
「ま、ブルーのことだから、あのベタドロを子どもに見せびらかそうって、朝っぱらから張り切って出かけただけだと思うけど」
「あ、ああ、なるほど」
言われてみればそうかもしれないと、その時の私は考えた。あの脳天気そうなエルフならあり得ることだと。問題はそんな単純なことではないと気づかなかったのは、心の中で厄介なことにならなければいいと願っていた為だろう。私は昔から自分の手に負えないことがあると、面倒になってすべてを投げ出してしまう。今でもその悪癖は治らないのだが、あの時が一番酷かった。
「では夕方までには戻られますね」
「だと思うよ。僕も夕方までその辺をぶらぶらしてる」
「お食事はどうされますか?」
「アシュトの分はきっと神父が用意してくれるんじゃなかな。僕はそんなにお腹が空いてないから大丈夫」
「そうですか」
今こうしてあの時の会話を思い出して書いていても、自分の無頓着ぶりに腹が立つ。なにも食べないで大丈夫なわけがないではないか。だがそれと同時に、もし私が強引に彼を引き留めていても、なにも変わらなかったはずだという思いもある。
馬車を離れていく侯爵を、私は漠然と見送った。彼は背後にいた青年にひと言ふた事なにか告げ ――私に言ったことと同じようなことだったに違いない―― 狼魔を従えて教会の裏の方へと消えていった。
その青年も少し考えていたようだが、侯爵のあとを追いかけて行ってしまった。残された私は、神父に食事のことをどう要求するかと独り悩んでいた。尊大な態度で物乞いのようなことを言うのも憚られる。空腹とプライドにどう折り合いをつけるべきか。そんなくだらないことを考え始めた時だ。
「おはようございます」
開いたままだった扉の間から、男がヌッと顔を出した。フォーエンベルガー配下の警護兵タナトス・ハーンだ。
「申し訳ないが、馬車を降りていただきたい」
「構わないが、なにゆえに?」
「警護の役目は終わったので、フォーエンベルガーへ戻ろうと思っているからです」
「終わっただって!?」
思わぬ言葉に、私は叫んでしまっていた。ついでに喉が渇いていたことも思い出した。
「ええ、終わりました。侯爵には昨夜申し上げましたし、ご納得いただけました」
「だが昨夜と今朝では事情が変わっている。あのエルフが姿を消したらしい」
「自分には関係ないことですので」
けんもほろろというその態度に、私は晩餐会でのことを思い出した。
彼はどうやら魔物を毛嫌いしているらしい。むろん好きだと言う者は珍しいし、私もついこの間までは相容れる存在だと思った。けれど、あの巨大ムカデや、侯爵を慕う狼魔の姿を見て、少々考えを変えていた。
ハーンは精悍な顔立ちと引き締まった体格をしている。剣の腕もありそうだし、きっと私より数百倍強いだろう。だが見た目からすれば三十手前。血気盛んな若者と呼ぶには少々難がある。
なにか過去があるのだろうか。あるとしたら、フォーエンベルガー伯爵が知らないはずがない。知っていながら彼を侯爵の護衛につけたことも不可解だった。さらに侯爵が口にした言葉も思い出してしまった。フォーエンベルガーの城を出立する直前に言った“条件”、ハーンを“警護ではなく刺客”だと説明したこと。
陰謀めいたものを感じた。
感じながら、私は深いことを考えるのを止めてしまった。
「そうか、分かった」
ハーンの目を避けつつ、私は大人しく馬車を降りた。
世間に言われているとおり、私は卑怯者かもしれない。だから卑怯者らしく、この自叙伝も私が知っている者たちが死に絶えるまで、少なくても二百年は世に出すつもりはない。かと言って心にしまっておくことができないのは、自分が生きた証を残したいと欲求に従ったまでだ。
それに私が動いていたとしても、なにかが変わっていたとは到底思えない。むろん卑怯者の言い訳に過ぎないが……。
馬車を降りてすぐ、教会の陰から走り出てくるが目の端に映った。先ほど侯爵を追いかけていった青年だ。若者らしい覇気もなく影が薄いと思っていたが、その時はずいぶん焦った様子をしていた。
だが私は気づかないふりをして、足早に寄宿舎へと歩んでいった。「アシュト様」となんどか呼ばれた声も聞かなかったことにした。
建物の中に入り、薄暗い廊下を真っ直ぐ進む。左右の扉から流れ出てくる赤ん坊の泣き声、子どもの笑い声やふざけ声が少し神経に障った。
神父の部屋は廊下の一番奥にある。広いとは言いがたいその部屋は、すべてが整然としていた。椅子もテーブルも暖炉の上の小物も、あるべき場所に置かれている。神父が謹直な性格であると分かる場景だった。
だが朝だというのにカーテンを締め切ったまま、私が入ってきても立ち上がろうともしない彼は、瞳がどこか虚ろであった。
「申し訳ありません、アシュト様。どうも気分がすぐれなくて……。なにか良くないことが起こる気がして、胸騒ぎが収まらないのです」
しかし私はその言葉を無視して、水と食事の要求をした。先ほどまで考えていた“プライドとの折り合い”などすっかり忘れ、命令口調だったかもしれない。
そう、私は無視をした。
何度も言うが、たとえ私が神父を気づかったところで、時の流れは変わらなかったはずだ。むろん、後生の誹りは潔く受け入れよう』
あまり話は進んでいません、ごめんなさい。
78話はラウロ編、79話はユーリィ編となります。次話はすぐに投稿できると思います(短いですが)。79話から大きく動くと思います。




