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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第三章 朧月
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第73話 残酷なる再会

 両腕を胸の前で交差させたまま、ラウロは祭壇の上に置かれているそれを見つめていた。

 手のひらに乗るほどの大きさで、マヌハンヌス神を象っている金の像だ。長剣を右手で掲げ、背中には四枚の翼がある勇ましい姿は、およそ彼とは似ても似つかない。それでもそれを見るたびに、胸の奥がズキズキ痛み、そんな気持ちになることに罪悪感を覚え、こうして何時間も懺悔の時を過ごしていた。

 ここに戻ってきて何日経つのだろう。朝が来ているのか夜が来ているのか、それすらどうでも良くて、こうして祈り続けている。でもいったい自分は、なにを祈っているのかすら分からなかった。

 赦しだろうか?

 忘却だろうか?

 再会だろうか?

 それとも……。


「ラウロ、もうすぐ日が暮れますよ」


 穏やかな声に引き戻されて、ラウロは像から視線を下ろし、ひざまずく床を見た。

 木張りの板が黒く変色して、踏み抜かないようにそっと歩かなければならないほど古ぼけている。それでも軋んだ音はするはずなのに、声がするまでなにも聞こえなかった。


「食事が取れないのなら、せめて水だけはお飲みなさい、ラウロ」


 木製のコップが目の前に差し出された。僅かな波紋が水面にある。透き通っているはずの水に暗然とした夕暮れが溶けていた。


「神父様……俺……」

「言わなくてもいいですよ。いずれ必ず、答えは神が授けてくださるでしょう」

「はい……」

「さあ、それを飲んだらお立ちなさい。連日ここで過ごしているのは、他の者にしめしがつきません。どうしても顔を合わせたくないと言うのなら、私の部屋に来なさい」

「はい、神父様」


 ラウロは言われたとおり、生ぬるくて少し泥臭い水を飲みつつ、礼拝堂の中をぼんやりと眺めた。

 小さな町の小さな教会だから、本当に質素な内部だ。並んでいる古い長椅子にはなんの装飾もない。祭壇にあるのは神像と木製の楼台が二つ、それと経典が一冊のみ。敷かれている祭壇布は金糸があしらわれた良いものだが、ところどころ擦れて傷んでいた。

 それでも一年半前までは、この場所が世界のすべてだった。あの頃に戻れたらどんなに良いだろうか。自分の醜さと欲望に気づかなかったあの頃に……。

 空になったコップを持って、のそのそと立ち上がる。少し足がしびれていてよろけたが、神父に肩を支えられ、倒れることは免れた。


「やはり弱っているようですね」

「いえ、しびれているだけです」

「それならいいのですが。さあ、コップを」


 差し出された手に持っていた物を渡しつつ、ラウロは黒い法衣を身につけた相手を覗き見た。

 しばらく会わない間に、その顔に深い皺が増えている。きっとあの戦いが原因なのだろう。この町にも多くの死者が出て、親を亡くした子供が四人も増えたのだという。ほとんど寄付金で賄っている孤児院だから、一人増えただけでも大変な上に、最近ではその寄付もままならないのだと子ども達が噂をしていた。

 それでもリュフール神父は穏やかな微笑みがある。そういう人なのだ。

 正確な年齢は聞いたことがないが、六十を過ぎたぐらいだろう。ごくごく平凡な顔立ちをしていて、年相応な白髪交じりの茶色い髪も、濃くも薄くもない茶色の瞳も、目も鼻も口も特徴らしい特徴はない。そんな神父の容姿が逆に、ラウロに妙な想像を抱かせる理由に繋がったことがあった。

 きっかけはある友人の何気ない言葉だった。


“神父様って、お前に似ているよな”


 六年ほど前のことだ。

 赤ん坊の時から親同然に育ててもらっていたが、むろん親だとは思ったことはない。けれどその言葉を聞いて、気がつけば神父と自分の顔に共通点を探し、いつの間にかそれが真実なのだと思い込んでしまった。

 そうなると証拠を見つけたくて、その証拠があれば神父から本当のことを教えてもらえると信じ、見つけてやろうと躍起になった。

 神父のことや自分のことを町中に聞き回った。町の長老連中、城下町フラン=ドリエからやってくる商人、その他大勢に。

 けれどその可能性がないと知るのにはそう時間はかからなかった。

 神父はラウロが生まれる十年ほど前にふらりと町に現れたのだという。廃れていた教会に住み着いた彼に最初は警戒していた人々も、その善良な性格を徐々に信頼するようになったらしい。特定の女性と親しくなったという噂は一度もなかったようだが、聖職者なのだから当たり前だと人々は口をそろえてラウロに言った。

 一方ラウロは二十年前、へその緒がついた状態で城下町フラン=ドリエの路地に捨てられていて、見つけた兵士がこの教会に連れてきたらしい。商人のひとりは、ある娼婦が母親かもしれないから、もし会いたいのなら連れて行ってやると言ってくれた。むろん断ったが。

 出生の秘密を知ったことよりも、自分と神父にまったく接点が見つからなかったことの方がずっとショックが大きかった。

 捨て子だということはなんとなく知っていた。親切に教えてくれた大人がいたからだ。

“捨てられてたお前を預かったのがきっかけで、神父様は孤児院を開くことにしたんだよ”

 右も左も分からないような幼い頃、神父の素晴らしさを教えるためにその人は言ったのだろう。まさか“捨て子”という事実が、言った子どもを傷つけるかも分からないままに。

 母親が娼婦であっても、邪魔だったから捨てられたとしても、それでも良かった。幼い頃から神と同じぐらいに、神以上に尊敬し、敬愛していた神父が本当の父親であるという想像だけが、心の支えだったのだから。

 ラウロがあちこちに嗅ぎ回っていることは、すぐに神父の耳にも届いたようだ。

 部屋にラウロを呼び出した神父の顔を、今でも思い出すことができる。そのわけを話した時、彼は驚きと困惑の表情を浮かべ、しばらく言葉を失っていた。


“その可能性はまったくありませんよ、ラウロ”


 長い沈黙のあと、彼は穏やかにこう言った。それでもまだ彼が実父ではないかという願望を抱いている。だからこうしてその顔を眺めるたびに、未だに自分との相違点を探してしまうことは、クセみたいなものになってしまった。


「どうかしましたか?」


 凝視されていることに気づいてか、神父は薄い微笑みを浮かべてみせた。


「いえ、なんでもありません」

「ラウロ、これだけは言っておきましょう。悩みはすぐに解決するかもしれませんし、永遠にしないかもしれません。私自身ももう四十年も悩み続けていることがありますが、まだ答えは見つかってはいません。けれど、いつか分かるだろうと信じていますし、もしも見つからないのなら、きっと私には知る必要がないことなのだろうと諦めるつもりです」

「四十年も? それはいったい……」


 神父は首を横に振り、それからラウロの背中を軽く叩いた。


「寄宿舎に戻りましょう。気が向いたらで良いですから、小さな子ども達にソフィニアの話をしてやってください。みんな、君の話が聞きたくてウズウズしているのですよ」


 促されてラウロが一歩を踏み出そうとした刹那、やや耳障りな軋みが聞こえてきた。床と同様、古くなった入口扉が開かれる音だ。顧みれば、差し込んだ夕日に紛れた子どもの姿がある。神父はすぐにだれか気づいたようで、「シャミル、どうしました?」と声をかけた。


「あ、あのね、いっぱいのお馬さんなの……」

「お馬さん?」

「それとね、白いのの馬車なの」


 戻ってきた言葉はとてもたどたどしい。まだ三歳にも満たない幼子だから、なにかの遊びについて言っているのだろう。

 そう思った。

 しかし__

 子どもの後ろにだれかが立つ。逆光に顔が分からなくても、その輪郭には見覚えがある。途端、息が詰まるほど苦しくなって、ラウロは無意識に胸を押さえていた。


(まさか……そんな……)


 幻を見ているのか、それともこれが神の答えだというのだろうか。


「尋ねたいことがあるんだけど……」


 聞き覚えのある声が、さらにラウロを打ちのめす。

 残酷な現実が自分を捕らえに来たのだろうか。

 だとしたら、シャミルが言っていた“いっぱいのお馬さん”とは軍馬のことかもしれない。天子に乱暴を働いた罪人は、やはり生きていてはいけないのだろう。

 だが不思議なことに、最初のショックが収まると急に喜びが込み上げてきた。


(そうか……、俺はもう一度、お目にかかりたかったんだ……)


 たとえ殺されたとしても、たとえ神に背いても、あの時の気持ちに偽りはなかったのだから。どうしても、あの方を手に入れたかったという感情に、なんら恥じらうことはない。大手を振って地の底へと堕ちていこう。

 その時、彼の背後にもうひとり、背の高いだれかが現れた。


「侯爵、どうしてお独りで来ちゃうんですか!?」


 聞き覚えのあるその声はグラハンスではなく、ブルーという名のエルフのものだった。


「町に着いたら、馬車を降りてもいいって約束だろ?」

「町が安全ってことじゃないですよ」

「これ以上あんな狭い場所にいたら、殺されなくても息が詰まって死ぬから」

「だから俺らも一緒に……」


 そのやり取りに緊迫した雰囲気はなく、ラウロはなんとなく肩すかしを食らった気分になった。まさかここに自分がいることを気づかれていないのか。

 だとしても、むろん逃げる気など毛頭なく……。


「おい、ラウロ。神父さんがなんか具合悪そうだぞ」


 突然名前を呼ばれ、ラウロは心臓が止まるかと思うほど驚いた。

 混乱状態でリュフール神父の方を向く。隣にいたはずの神父は、やや後方にある長椅子の背に手をついて、今にも倒れそうな状態となっていた。


「神父様、どうされたんですか!?」

「だ、大丈夫……少し……目眩が……」


 ラウロが支える隙もなく、神父の体は崩れ落ちていった。



 十数分後、神父は座れるまでに回復した。その彼のそばには侯爵ともうひとり、意外な人物が立っている。領主メチャレフ伯爵の長男アシュト氏だ。神父はすっかり恐縮して立ち上がろうとしたが、ふたたび倒れられては困るとばかりにアシュト氏が慌てて止めた。

 ラウロはそんな三人の様子を、遠目に眺めていた。侯爵が神父に話があるとのことで、遠慮して扉のそばまで退避したのだ。もしかしたら自分のことではないかという恐怖もあった。

 ラウロの隣にはブルーがいる。エルフにしては背の高い彼は、小さなシャミルを抱きかかえている。神父が倒れたのがショックで、幼児はずっと泣いていた。


「しっかし、君がここにいるなんて驚いた。偶然って凄いよなぁ」


 意外な言葉に、ラウロは三人から目を離すと、隣にいるエルフを見た。


「侯爵からはなにも聞いていないんですか?」

「なにもって、なにを?」

「というか、今日は俺のことでいらしたのでは……?」

「君のこと? いや、違うけど。侯爵となんかあったのか? って、なんで君はここに?」

「俺、ここで育ったから……」

「へぇ」


 ブルーは改めて教会内を見回して、なにか言おうとしたようだった。しかし彼が声を発する寸前に、大勢の悲鳴が聞こえてきた。何ごとかと彼は背後にある扉を開ける。


「うわ、やべぇ、降りて来やがった!」


 そう叫んで、シャミルを抱えたまま彼は飛び出していった。

 すっかり日が暮れた外には、数十人の子ども達に囲まれた白い馬車が停まっている。その場所の屋根から、水のような布のようなものが垂れ下がっていて、それを見て子ども達はギャーギャーと騒いでいるようだ。

 なんだろうと身を乗り出すと、ラウロのすぐ横で声がした。


「あ、また降りてきてるし、あいつ」

「……!?」


 視線を下ろせば、金色の髪がそこにある。ラウロが押さえている扉の隙間を、一緒になって覗き込んでいる無防備さに、驚きの声すら出なかった。

 あんな酷いことをしたというのに!? それとも彼にとって自分は、床に落ちているゴミと同じぐらいどうでもいい存在なのだろうか。

 闇の中でも透き通る白い肌は相変わらずだ。だが美しいその横顔に、以前にはなかった強さが感じられる。あまりの神々しさに、自分の置かれている立場も忘れ、ラウロはつい見入ってしまった。


「許したわけじゃないけど、忘れることにしたから」


 視線を外に向けたまま、ふと彼が呟くように言った。

 だけど、そんなことは望んでなどいない。

 俺は貴方の手で殺されたかった、殺されたかったんだ。

 一生忘れられない存在となるのなら、それで良かったのに。

 言いたいのに言えなくて、ふたたび辛さが戻ってきた。


「お前も僕のことは忘れろ」


 突き放すような冷たい声が、ラウロの頭の中で反響する。それでもまだ、足が震え、手が求めていた。今すぐに、目の前にある華奢な体を抱き締めてしまいたい。気が狂うほどに、欲しくて欲しくて堪らなかった。


「それに、ここに来たのはお前に会うためじゃない。さっき神父に尋ねた件だ。どうしても解決しなければならないことがあってね」

「あの……侯爵……俺は……」

「いずれにしても、僕のことなんて構っていられなくなるさ。メチャレフ伯爵が亡くなったからね」

「え!?」

「アシュトにあとを継がせるか、別な奴が継ぐか、僕が潰すか。ま、お前には関係ないことだ、ラウロ」


 そう言って、侯爵が初めて顔を上げる。その青い瞳にはまるで氷のような冷たい光が宿っていた。


「それより、あの神父はお前の父親か親戚なのか? なんか凄く似てるんだけど」


 もうなにがなんだか分からない。彼の吐き出す言葉すべてが、頭を混乱させて、悩ませ、そして苦しませる。今できることと言えばただ小さく息を吐き、少しでも心を落ち着かせるより他に、ラウロには残されていなかった。



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