第72話 自叙伝『さして面白くもない人生』第三章 その6
――アシュト・エジルバーク自叙伝『さして面白くもない人生』第三章より抜粋
『暗殺者たちが現れた日の夜、馬車で就寝したのは私と侯爵だけだった。ラシアール族のブルーはタナトス・ハーンとともに、見張りをかねて外で寝た。(ついでにブルーはあのドロドロした使い魔を、馬車の屋根に戻すことに成功したことを報告しておこう)
御者台の上では老御者が座ったまま眠りこけていた。あんなことがあったあとなのに高いびきで、そうとう肝の据わった爺さんだ。
侯爵は狼魔のそばで眠りたかったようだが、ソフィニアに戻らない代わりに町に到着するまでは馬車から降りないことをブルーと約束していたため、諦めたらしい。おかげで私は不機嫌な彼と一緒に過ごす羽目になってしまった。
不機嫌とは言っても、別に罵詈雑言の類いを吐き出すわけではない。上半身を座席に倒し、目を開けたまま無言でいる、それだけだ。
いつもの侯爵と言えばそうかもしれないが、感じる雰囲気に私はどうにも居たたまれなくなり、ついうっかり話しかけてしまった。
「町に到着したらすぐに、あの赤目のエルフに会いに行くのでしょうか?」
確かそんなふうに尋ねたと思う。それが墓穴を掘る結果になるとはまったく思わずに。
「アシュト、お前、本当は詳しく知ってるんだろ?」
「なにをですか?」
「謎のエルフが棲み着いたという町のことだよ」
「えっと、それは……」
欺せていたものだと信じていた私は、不意を突かれて完全に動揺してしまった。
ランプが作る薄闇の中、青金石に似た青い瞳が妖しく光る。途端、暴漢を前にして顔色一つ変えなかった彼の様子が蘇り、私は冷や汗をかいていた。
もう嘘はつけない。そう観念した私はすべてを話すことにした。
「分かりました、正直に申しましょう。その町はメチャレフ城のあるフラン=ドリエから、それほど離れていない場所にあります。名前はサンウィング」
「なんで知らないって嘘をついた?」
「本当にいらっしゃるとは思っていなかったからです」
「あれだけ挑発的なことを言って、よく言うよ」
ライネスク侯爵が弟の腕を切り落としたと聞き、どれほど凶賊なのか見てやろうという気持ちがあった。しかもこの眉目である。つまり最初はただの好奇心だったわけだが、数日間共にして、私はすっかり彼に魅せられてしまっていた。
しかしこれは私だけが特別なわけではない。侯爵には魔物や精霊たちのみならず、良い意味でも、そして悪い意味でも他を虜にする秘めた力がある。しかも魂を奪われた者は、必ずと言っていいほど人生を変えてしまうのだ。生涯を通してその運命と戦うことになるとは、この時点では本人もまだ気づいていなかっただろう。
これを書いている今日も、彼との因縁が捨てきれずに死を選んだ者がいた。これでソフィニアもしばらく平和になるだろう。彼に魅了される者がふたたび現れるまでは……。
そして、この時の彼も哀しげな微笑みを浮かべ、私を降伏させることに成功した。
「僕を試そうとしたんだろ?」
「ええ、そうですね……」
「どうして?」
「治者になろうと考える者は、ろくな人間ではないというのが私の中の定説ですので」
「うん、僕もそう思う」
「ですが、侯爵は違います」
「同じだよ」
「少なくても弟と違うことは分かりました」
これまで明記することを避けていたが、この際はっきり言おう。もっとも前章で酷い目に遭わされたことを散々書いたのだから、読者は察していることだろう。
私と一つ違いの弟ミーシャは、心の底から憎しみ合っていた。
もともと性格が合わなかったのだろう。私は弟の自惚れた性格に我慢ができず、弟は私の無頓着な性格を嫌っていた。そんな兄弟の確執は、歳とともに修復不可能な状態となっていった。(さらに弟の嫁ソリエは鼻持ちならない女だった)
自分こそが権力者に相応しいと思い上がっていた弟の言動は、今思い出しただけでも気分が悪くなる。侯爵のような他を魅了する力もなく、それに加えて頭も性格も悪いあの男が覇者などになってしまったなら、翌日には国が潰れたに違いない。それなのに弟は、自分が覇権を握れないのは、父と私が邪魔しているのだと信じて疑わず、ついにはその醜い自惚れのために父を手にかけたのだった。
だから、もし侯爵がそんな弟と同じ類いならば、ソフィニアは終わりだと見切りをつけて、さっさと外国に逃げようと考えていた。
そのことを侯爵に打ち明けたのだが、彼はまだ納得がいかない様子であった。
「でもさ、メチャレフ伯爵は、二人の息子はどちらも伯爵に早く死んで欲しいと願っているって言っていたけど。そうなんじゃないの?」
「父と私は絶縁状態でしたからね」
「なんで?」
父と絶縁したきっかけはただ一つ。むろん弟だ。
ミーシャとは早く縁を切らなければいずれ酷いことになる。そう私は父に何度も訴えた。しかしいっさい取り合ってもらえず、そればかりか兄弟仲が悪いのは長男の私が悪いと言い出す始末。
あまりにも無理解な父にとうとう腹を立て、「あなたが早く死ねば、いっそスッキリする」と捨て台詞を残して、私は城を出た。父が殺される五年前だ。それ以降、たまに母に金をせびりに行く以外は城にはほとんど帰らなかった。
多少言葉を濁しながら(金の無心だけしていたという部分は特に)、その事情について私は説明をした。
「酷いことを言ったんだな」
「ですが、父を恨んでいたと言うことはありませんよ。たとえ嫌ってなくても関係が上手くいかなくなることもあるでしょう? 誤解だったり、別のだれかが理由だったりと」
侯爵は目を細めてしばし考えていたが、やがて本当に小さな声で「そうだね」と返事をした。
「で、その町について、他になにか知っていることは?」
「ああ、それは……」
これまで私はククリ族に関しても書いてこなかった。しかしその理由は書かなかったのではなく、書けなかったということに尽きる。
それは城に戻るひと月ほど前、サンウィングに滞在していた時だ。宿屋の主人が次のようなことを頼んできたのは領主の息子だからだろう。町外れの廃れた屋敷にエルフが住み着き、時々仲間も来ている。得体の知れないその連中に住人の多くが恐がっている。伯爵様に調べるよう伝えて欲しい。
私は快諾したものの、勘当されている身としてはそんなつもりは毛頭なかった。
「そのエルフたちがククリ族だって話はなかったのか? たとえば黒いローブを着ていたとか」
「さあ? 興味がなかったので聞きませんでした」
「なんかいい加減な情報だな……。まあ、いいや、乗りかけた船だから、行くだけ行ってみよう。ちなみにそのサンウィングにある教会は孤児院も兼ねていた?」
「ええ、確かそうだったと思います」
「ふぅん」
その言葉を最後に、侯爵は朝まで一度も口を開かなかった。
それから四日を費やし、我々はサンウィングに到着した。その間にククリを含む暴漢どもに三回襲われた。すべてタナトスと狼魔が撃退して大事には至らなかったが、いよいよライネスク侯爵の身が安泰ではないことを予見させられる出来事だった』




