第71話 黄昏の襲撃
馬たちはまだ少し興奮している。首を上下し、四肢を動かし、この場から早く逃げたいと訴えていた。
その原因ははっきりしている。先導をしていた馬の前に、フェンリルが立ちはだかっているためだ。しかし狼魔は道を塞いでいるが、なぜか見ている方向は馬車ではなくて前方の大地だった。
薄い緑に覆われた景色は、起伏を繰り返して、遙か先まで続いている。左手も同じような風景ではあるが、遠くに屋根がいくつかある。牛らしき黒い輪郭が家のそばにひとつ。家の向こうに見える黄金の土地は麦畑だろうか。二毛作をしているのなら、そろそろ刈り取り、豆でも蒔く時期に入っているはずだ。
右手は白い岩が点在している急な斜面で、宮殿の高さほどまでシャルファイドの森が迫っていた。
立っている乾いた黄土色の道は東へと伸びている。今は下り坂の途中だが、しばらく行くとまた丘を登ることになりそうだ。丘の向こうはどうなっているのかは、ここからでは見えなかった。
そんな景色を眺めてから、ユーリィはふたたび意識を近辺へと戻した。二頭の引き馬の相手をしている老御者をちらり見る。老齢ではあるが熟練した腕はあるようで、“よし、よし”と馬をなだめる声はかなり落ち着いている。フェンリルの姿があるというのに、彼自身は怖がっている様子はなかった。
(リカルドもそれなりの御者を用意してくれたのか)
馬車が暴走すれば、アシュトとブルーが大変なことになる。もっとも今現在、馬車の中はブルーの使い魔であるベタドロの白いやつで、大変なことになっているかもしれないが。
そんな御者とは対照的に、先導の馬にまたがる軍服の男からは、今すぐにでも狼魔を攻撃しそうな気配が感じられた。片手に長剣を握り、前方の魔物を睨んでいる。馬はというと完全に怖じ気を震っている。全身にかいた汗や、尻の下に入れた尾がなんとも哀れだった。
ユーリィは一度立ち止まると、強ばっていた肩から力を抜いた。
今まで通りにやればいい。気負うことなく嫌われるなど簡単なことだ。いつだって自分は、だれかを不愉快にさせる毒を吐き出してきたのだから。
羽織っているマントの胸元を整える。わざわざリカルドからもらい受けたこれは、フォーエンベルガーでは権力者の象徴だという。夕日色の布地に白い刺繍。完全に趣味ではないが、自分が何者であるか絶えずハーンに意識させるための小道具だった。
気を取り直して、足早にハーンの横を通り過ぎる。
「ライネスク侯爵!」
制止なのか呼びかけなのか分からないハーンの声はもちろん無視した。主が来るのに気づいたフェンリルが、首を巡らせて待っている。その瞳にははっきりとした警戒の色があり、長い尾は激しく揺れていた。
「どうした?」
するとフェンリルの訴えるような目は、右前方の森を見上げる。そこになにかがいるのだと言いたいのだろう。
「侯爵、その魔物をどけていただきたい」
ハーンの冷たい声に苛立ちは感じられない。どうやら自制心はそれなりにある男のようだ。
「なぜどける必要がある?」
振り返ったユーリィは、ハーンと同じほどの冷たさで尋ね返した。
彼の着ている軍服は、濃紺立て襟のイワノフ近衛兵のものとはかなり違う。折り返された襟はかなり長い。色は濃い緑色で生地もかなり厚そうだ。フォーエンベルガー領が寒冷地にあるせいだろう。締められた革製のベルトに繋がれて、剣を収める簡易な革の鞘が垂れていた。
「なぜ? もちろん先に進めないからです」
「邪魔しているのではなく、制止しているという考えはないのか?」
「そうかもしれませんが、こんなに馬を怯えさせては意味がありません」
「怯えさせているのはフェンリルではなく、お前じゃないのか、ハーン?」
あえて冷淡に、あえて怒りを含ませ、ユーリィは言った。いつもと変わらないと言われれば、そうかもしれないけれど……。
「なにか勘違いされているようですが、自分はフォーエンベルガー伯爵からライネスク侯爵の護衛を言いつかりました。今はその役目を果たすのみで、なにか含むところはございません」
「ならば馬を下りるんだな、ハーン。たかが兵士の分際で、騎乗したまま話すとは無礼にもほどがある!」
太い眉をわずかに寄せ、ハーンは黙って馬から下りた。
そうだ、それでいい。
過去に散々浴びせられた威圧の言葉を使えばいいだけだ。
「兵士の分際でおこがましいかもしれませんが、ひとつお伺いいたします。我々は、いつまでこうして待機していればよろしいのでしょうか?」
「そんなことを尋ねる護衛って、あてにしていいわけ?」
顎を上げる。目を細める。鼻でせせら笑う。途端にハーンの顔色が明らかに変わる。
(こいつを怒らせるのって、わりと簡単かも?)
きっとメチャレフ領に入る前に、ハーンは怨念の言葉を吐き始めるだろうとユーリィは確信した。
しかし__
その時フェンリルが低く唸った。
何ごとかと振り返れば、右前方の森から数十、赤いものが飛び出すのが目に入る。弧を描いて飛来するそれらが炎だと認識したのは、フェンリルの前にいくつかが落下した時だ。
背丈ほどの火柱が上がる。それが一つ二つ、さらに四つ五つと数が増えるごとに迫ってきて、フェンリルとともにユーリィは数歩後退した。
「馬車にお戻りください、侯爵!」
叫んだハーンを顧みれば、彼はすでに騎乗して、忙しなく足踏みをする馬を制御すべく、片手で手綱を操っていた。
土を踏むひずめの音、老人が焦る声がする。どうにも我慢できなくなった馬たちが、老御者の手を煩わせているらしい。事態はかなり緊迫していた。
「侯爵、早く馬車へ!!」
「剣なんかでなんとかできるわけないだろ! フェンリル、行け!!」
腰にある湾曲剣の柄に手をかける。革製の鞘にある押さえの紐を指で緩めて、素早く抜き取る。ハーンがなにか言ったようだが耳には入れず、ユーリィは次の攻撃の準備をした。
森の方へ疾風のごとく駆けていくフェンリルの上を、数個の炎が飛ぶ。狙いは狼魔ではなく確実にこちらだ。
三つの炎が迫り来る。それを見すえて剣を一閃。放った風刃がそれぞれ炎を裂くと、たちどころに炎が四方に散った。
服も髪も燃やしそうなほど、大量に火の粉が周辺に降り注ぐ。その異常事態にハーンの馬がとうとう暴れ出した。背に乗る人間を振り落として逃げ出したいと、全身を使って跳ね回る。ハーンはもう剣を振るうどころではなく、手綱を引いてその場に留めておくのが精一杯のようだった。
馬車に繋がれた引き馬たちも、ずるずると後ずさる。しかし下り坂が幸いして、馬車はそれほど移動しなかった。
ユーリィにも火の粉は容赦なく襲いかかった。
引くべきか留まるべきか迷っていると、剣の柄にある宝石が光り輝く。その光は剣から離れるとユーリィの上に浮上した。
風の精霊レネだ。彼女は頭上を高速で飛び回り、風を起こして、ユーリィへと降ってきた火の粉を周辺へとまき散らした。
「ありがとう、レネ」
さらにレネはユーリィの頭上から、飛来してきた六つの炎へと向かって行った。
彼女が作った竜巻が、炎をまとめて取り込み、遙か上空で炸裂させる。散った火は地上へ落ちる前に消滅した。
(わりと結構セコい攻撃だよな。匂いもないから魔法系かな?)
いったい何人で攻撃しているのだろうか。一人ということはなさそうだが、十人以上いるとも思えない。せいぜい三、四人だろう。それともフェンリルは敵をもう倒しているのか。森に入っていった魔獣は姿を現さないが、鬱蒼とした木々の間を自由に飛び回れるほどフェンリルの体は小さくなかった。
(まさかあの中で火は吐かないだろうな、あいつ)
そんなことをすればたちまち山火事になってしまう。ヴォルフならそれぐらい考えるはずだと、ユーリィは懸念を振り払った。
そうしている間に、またもや炎が四つ飛来してきた。先ほどよりやや前方の森からだ。
(ホント、セコい)
これが総攻撃だったとしたら取るに足らない相手に違いないと、少し気が抜けた状態でレネの様子を窺っていた。
その時__
「侯爵、後ろ!!」
背後でだれかが叫ぶ声がして、ユーリィは反射的に振り返る。
まず目に入ったのは、西日を光らせた二本の鉾先だ。それを持っているのはユーリィの倍もありそうな大男。髪は汚れた茶色、服はあちこち破れた生成り色の薄い半袖シャツ。膨らんだ腕の筋肉が、どれほどの力があるのか物語っていた。
その男が今、槍を構えてユーリィへと突進してくる。開いた馬車の扉から、アシュトが顔を出していた。
「死ねや――ッ!!」
汚らしい罵声とともに、男が槍を突き出す。狙いは腹のようだ。
一瞬で覚悟を決めた。
死ぬかもしれないと。
しかし一か八か、短剣を握りしめる。レネがいない今、自らの魔力だけが頼みの綱だ。
(間に合うか!?)
空を切り、風を起こすイメージで、短剣を閃かせる。
刹那、「ぐわぁぁああ!!」という悲鳴と同時に、迫っていた鉾先が上へと反り返った。
「クソガキィィイイーー!!」
大量の血で腕を染めている大男は、痛みと怒りで浅黒い顔を歪ませていた。両肩の付け根ぐらいがばっくり割れている。
けれど反撃は一時凌ぎ。
「てめぇぇ!! ぶっ殺してやる!!」
自力の反撃は間に合いそうもない。それほどの勢いで、大男は大怪我をものともせず、槍を構え直して突き出した。
二股の鉾先の狙いは明らかに顔だ。あきらめに似た感情の中に、ヴォルフの顔が浮かんでは消えた。
ところが、鉾先は足元へと流れていく。慌てて後ろに飛び退くと、立っていた地面に鉾が刺さった。むろん反撃したのはユーリィではない。銀に輝く両刃の長剣が、敵の腹を直撃していた。
「ぐっぁ……」
咳き込むようにして、男の口から血が飛び散る。さらに前屈みで倒れかかる。その首を
狙って大剣が打ち下ろされた。
崩れ落ちた大男は、もうひと言も発しない。首が折れたのだろう。肉の塊となった男の槍だけが斜めに立っていた。
「ご無事ですか、侯爵?」
「お前、手際が悪いな」
「どういう意味でしょうか?」
「僕が死にそうになる前に助けろよ」
実のところ、敵が二撃目を出そうとした時、ユーリィは剣を構えるタナトス・ハーンの姿を目の端に捉えていた。むろん本気で防衛してくれるのか半信半疑ではあったけれど。
「申し訳ありませんでした。ですが、実はもうひとり相手にしていましたので」
そう言われて横を見ると、反対側の端に男がうつぶせに倒れている。目前の大男と似たような風体だ。まだ息があるのか、足先がぴくぴくと動いていた。
「馬は?」
「逃げていったようです」
「なんのために乗ってきたんだか」
礼などは言うなどもっての外だ。
たとえ心で思っていても……。
ちょうどその時、背後から現れた黄色の光が、ユーリィの周りを二回りして、やがて吸い込まれるように短剣の宝石へと入っていった。
わずかな不安を抱え、ユーリィは森を見上げた。もう夕闇が迫っていて、葉の色がくすんでいる。
(フェンリルはどうしたんだろ……)
負けるはずなどないと分かっているのに、姿がなければやはり怖かった。
すると、そんな気持ちが分かったかのように、ブルーグレーの魔獣が木々の間から現れた。まるで獲物を捕らえた野獣のごとく、その口に咥えているのは人型のなにか。ズルズルと引きずられた足を見て、息はしていないだろうとユーリィは想像した。
数分後、三つの死体が並べられていた。瀕死の一人はついさっき死に絶えた。三人のうちフェンリルが運んできた者は、黒いローブに身を包んだエルフである。ただひとり、まだ息のあったハンターあがりの賊が、「ククリに頼まれて……」と言い残した言葉が、そのエルフの正体を確定させた。
アシュトとブルーも馬車から出てきて、ユーリィの隣で眺めている。
「ククリってことは、もしかして侯爵を暗殺しようと思ってるんっすかね?」
軽口のわりにはブルーの声はかなり不安げだ。今すぐにでも彼が寄生されてしまうのではないかという想像は容易すぎる。けれど彼を見る側としては、その体に張りついている白くてベタドロの何かに不快感しか抱けなかった。
「そうかもね」
「ホント、危機一髪でしたね」
ブルーの視線は、まだ地表に刺さっている槍に流れていった。
「もしそれが本当でしたら、先を急いだ方がいいですね」
アシュトの声にも狼狽の色がある。
「先を急ぎたくても、だれかが馬を逃がしちゃったんでね」
「申し訳ありませんでした」
「あの状況じゃ仕方ないっすよ」
「できれば、引き馬を一頭貸していただき、今すぐ探しに参りたいのですが。逃げていった方向は分かっています」
少し離れた場所にいるハーンは、片手に剣を携えたまま、家が点在する方向に首を巡らせた。
「なら、そうしろ。今日は疲れたので、このままここで野宿をすることにする」
「了解いたしました」
さぞやはらわたが煮えくりかえっているだろう。しかし彼の太い眉も大きな鼻にも、その感情は全くない。そんなハーンの自制心に、ユーリィは少々ガッカリした気分になった。
「でもククリかぁ……。だとしたら、侯爵はいますぐソフィニアに戻った方がいいんじゃないっすかね」
「なんで?」
「これから、ククリ残党の首謀者に会いに行こうってしてるんですよね? さっきアシュトさんが言ってたとおり、侯爵の身になにかあっては俺らが困るんですよ。別を探せっておっしゃいましたが、別な方なんて想像できませんからね、俺には」
「そんなのはいっぱい……」
ハーンの視線に気づき、ユーリィは慌てて言葉を飲み込んだ。
自分は非情な支配者役に徹しなければならいのだから、気弱な発言はよろしくない。こういう場合、恐怖王ジャックス三世ならばなんと答えるだろうかと、必死に考えた。
「……邪魔なゴミは僕がこの手で捨てたいだけだ。だれかをあてになんてするつもりもない。そもそもこの程度の攻撃で、僕を危険な目に遭わせる護衛が非力すぎるんだよ」
どうか怒り狂ってくれと祈りながら、横目でハーンを睨みつける。
「次からは必ず、このようなことはないようにいたしますので」
冷静な男の返事に、ユーリィは内心酷くガッカリした。
「では野宿の支度でもしましょう。爺さんが完全に眠りこけている。でもその前にこいつをなんとかしなくちゃ」
やれやれという表情でブルーが歩き始める。その後ろをアシュトが続いた。
そんな二人から目を離し、フェンリルはどうしたのだろうとユーリィは辺りを見回した。死体を持ってきて以来、いっこうに近づいてこない。こんな危ない目にあった時は必ず、そばに来てくれるはずなのに。
やはりまだ、ヴォルフに戻るつもりはないのだろうか?
それとも、ヴォルフは消えているということなのだろうか?
薄暗くなってきた景色に不安を煽られて、ユーリィは遠くまで見渡した。
かなり離れた道の真ん中、闇に溶けている大きな影がひとつ。光る双眸がこちらを睨んでいる。
「フェンリル?」
その呼びかけに反応し、狼魔はおもむろに歩き出した。ゆっくりと近づいてくる様子がいつも違う。踏み出す一歩一歩にも張り詰めた気配が感じられた。
足元を忍ばせ、獲物に近づく獣のように。
両目に鋭い光を湛え、長い牙を二本むき出して。
「なんだよ、フェンリル、そんな顔して」
戯けるように言ったものの、ユーリィは内面の緊張を隠せなかった。
先ほどの想像がもし本当ならば……。
次の瞬間、魔獣は呻るように咆哮した。さらに首を伸ばして、地を蹴る。それはまさしく獲物を捕らえる野獣の姿だ。
ああ、殺されるのか。
二、三度の跳躍で迫ってきたフェンリルに、ユーリィは先ほどよりも満足できる死を覚悟した。
「侯爵、お逃げください!」
ハーンが怒鳴る。
きっと手にした剣でフェンリルを狙っているのだろうと、「手を出すなよ!」とユーリィは強く諫めた。
狼魔がそうしたいのなら逆らうわけはない。獲物にしたいとフェンリルが思うのなら、抗う理由はどこにもなかった。
前肢の片方で押し倒されて尻餅をつく。
鼻先で押されて横になる。
首を狙うつもりだろうか。
見えるのは蒼が濃くなった空に浮かぶ白い雲ひとつ。一番星が煌々と輝いている。この世に見る最後の情景がこれだとしたら悪くはない。
その景色を遮ったのは、フェンリルの顔だった。
「ヴォルフ」
もう一度会いたかった。
どうしても会いたかった。
けれど、彼がもう向こうに逝っているのなら、見失う前に早く追いつこう。フェンリルはただ、地の底へ通じる道を開こうとしているだけ。
だが__
口を閉じたまま、フェンリルはその鼻面をユーリィの胸へと擦りつける。聞こえてくるは、まるでむせび泣くような魔獣の声だ。
(ああ、そうか……)
フェンリルがなにを怒り、なにを悲しんでいるのか、ユーリィは瞬時に理解した。
「ごめん、ヴォルフ」
狼魔の顔を両の手で包む、どうか許して欲しいと謝りながら。
「もうあんな無茶はしない、絶対に。だから怒るなよ」
きっと“馬鹿野郎”と言っているのだろう。何度もそうやって叱られてきた。ヴォルフがその言葉を使うのは、必ず身を案じてくれた時だ。
だから今もそう言って泣いている、何度も何度も。
本当にヴォルフは変わらないなと思いつつ、ユーリィは狼魔の鼻を優しく撫でた。




