第70話 想起せし海
前に座る黒髪のエルフはまだ笑っている。港を離れてからずいぶん経つというのに、いったいいつまで笑い続けるのか。狭い馬車の中で、クスクスという声は本当に耳障りだ。それが気に入らなくて口を尖らせると、エルフはますます表情を崩した。
「っていうか、いい加減にしろ、ブルー」
「あー、すみません、すみません。もう止めますよ、くくっ……」
「止めるつもりないだろ?」
「だ、だって、しかたがないじゃないですか。アシュトさんの話を聞いたら……くぅ……だれだってホント……くぅ……笑いますって……くぅ……」
ブルーは無理やり笑いを堪えようとして、鳴き声のような変な音を発している。ユーリィとしてはもう呆れるしかない。発作が治まるまでまだ時間がかかりそうだった。
「フォーエンベルガーの連中は笑えなかったみたいだぞ?」
「それはそうですよ。だって侯爵のことを知らないんですから」
「あ、でも伯爵は大笑いしていましたよ」とアシュトが反応する。
「やっぱり……くぅ……」
やり過ぎたのは確かだから反論のしようもない。それと同時に、酔うということはあそこまで判断を鈍らせるのかという驚きもあった。
自分も同席したかったと残念がるブルーを尻目に、ユーリィは右手に見える景色へと目を向けた。
今日はとても良い天気だ。澄んだ蒼い空と、凪いだ碧い海が、遠く水平線で混じり合っている。海原の上を渡り鳥が北へ向かって飛んでいる。もう春が来ているのだろう。
そういえばと、ユーリィはふと過去へと想いを馳せた。
この海をこうして馬車に乗って、ヴォルフと一緒に眺めたなぁと。セシャールへと向かう途中のことだ。強引にキスを迫ったことなど、思い出すのも恥ずかしい。そんな欲望を持て余していた時に見た海は、白波が泡立つほど荒れていた。それはまるで、ヴォルフを失うことが怖くて、価値のない者だと思われるのが辛くて、必死にもがいていた自分の姿を映していたかのように。
その次に見たのは徒歩での帰り道だ。曖昧な記憶ではあるが、海の色は常にどす黒かった気がする。きっと絶望で眺めていたせいだろう。あの時は、ヴォルフを失い、この世界からも消滅しようとしている自分に、どうしようもない憤りを抱えていたのだから。
今、右手の窓に広がっているのは蒼い空と碧い海。だけど、決意を新たにした自分を映しているとは、これっぽっちも思えなかった。
左手の窓には、並走しているブルーグレーの魔獣の姿がある。それを見るだけで、まるで駄々をこねる子どものように、胸の奥が泣き叫ぶ。
声が聞きたい、肌に触れたい、愛撫したい、抱擁したい。
どうしても、どうしても……。
その願いは以前と変わることなく、永遠に変わることなく。
それでも自分らしく戦わなければならないと分かっている。ヴォルフとの約束を果たすため、己だけを信じ続けて。
「……侯爵?」
呆けていたことへの呼びかけは、いつものことだ。ユーリィは我に返って、笑いをおさめたらしいブルーを見た。
「なに?」
「いやぁ、冷静になって考えてみたんですが、大丈夫なんですか?」
「なにが?」
「俺には侯爵らしいと笑える話なんですが、あちらさんにとっては、さっきおっしゃっていたとおり、笑えない話かなと思って……」
「“人を従わせるには三つの道具がある。ひとつは金、ひとつは信念、ひとつは恐怖。その中で恐怖のみが、だれでも使える道具である”」
「なんですか、それ!?」
目を丸くして尋ねるブルーに、横に座るアシュトが得意げに解説を始めた。
「ジャックス三世の言葉ですね。恐怖王と呼ばれた五百年ほど前の人物です。数千人の捕虜と数百人のエルフを殺戮したという伝説がある王ですよ」
「うん、その恐怖王をちょっと真似てね。正直言うと、あの連中を僕が言葉で従わせるのは無理だと思った。無理というか時間がかかるだろうって。だから酔っ払った勢いも手伝って、いっそ、その“恐怖”っていうのを道具に使おうかと思ったんだよ」
「そこまで考えてたんですか。さすが……」
「という理由を後づけすると、もっともらしいだろ?」
「どっちっすか!」
ユーリィはただ小さく肩をすくめて、返事はしなかった。“支配者は手の内の半分も見せたら負けである”というマインバーグ提督の有名な言葉に従って。
十三年間支配される側だった自分が、支配者に向いているかなんて考えてもしかたがない。経験が少ない以上、それを補うのは知識でしかなかった。
「それにしても、あの人はどこまでついて来るんですか?」
ブルーが馬車の前方を振り返る。御者台に座っている老人の背中を見ているわけではないだろうと、ユーリィは理解をした。先導者について、アシュトにもブルーにもなんの説明もしていないのだから、疑問に思うのは当たり前だ。ただしどこまで語るべきかは迷うところではある。
「さあ、どこまで来るだろうね……」
「まさかメチャレフ領まで?」
「そうなるかもしれない」
「つまり護衛?」
「刺客だよ」
「刺客!? それはいったいどういう意味でしょうか?」
ユーリィはふたたび肩をすくめて返事を拒絶した。
まさかあんな条件を話せるはずもない。かといって、人懐っこいブルーが近づきすぎるのも問題である。それに少しでも親しみを感じてしまえば、きっと憎まれたくはないと思ってしまうだろう。
(そういえば、あの男はエルフを憎んでいるのかな?)
先の戦いで彼の恋人が死んだのだとリカルドは言った。だからその原因を作ったエルフを、良く思っていない可能性は十分にある。だとしたら、なにもしなくても憎まれるなど簡単なことかもしれない。
そもそも自分は憎まれて生まれてきたのだから……。
「なんにもおっしゃってもらえないんっすね。しかたないですけど」
「大抵の真実は、くだらない嘘より面白くはない」
「それもだれかの格言ですか?」
「うん、ユリアーナ・クリストフ・ライネスクのね」
南に向かっていた街道は、途中でふたつに分かれた。ひとつはそのまま南下してソフィニア地方へと入る道で、もうひとつは東へと向かい、山脈と森に挟まれたガサリナ地方へと伸びていく。目的地はガサリナ東に位置するメチャレフ領なので、当然馬車は後者を目指した。
後方に見えていた海がどんどん離れていき、やがて起伏に隠れてしまった頃、なだらかだった丘陵は少し険しくなっていった。道はずっと上り坂で、左右どちらかは緩やかな斜面となっている。
この辺りは東西に広がるシャルファイドの森と呼ばれる場所にかなり近い。森はソフィニアとガサリナを分ける低い山地にあるので、その周辺も標高があった。
道の状態はかなり悪く、ガタンと車輪が石を踏んで、馬車が跳ね上がる。そのたびにブルーは心配げに天井を見上げて文句を言った。
「なんでこんな道を通るんっすか? もっと北にも平らな道があるでしょ?」
「北の道は旧ベレーネク領を通っているんだけど、この間の戦いで落とされた橋をふたつ、直していないせいだと思うよ。今は保留地だし、ギルドも人手が足りない上に、やることが多くて手が回らないんだ」
「ああ……」
「でも物資不足の件が落ち着いたら、なんとかさせるよ」
実際やるべきことは沢山あり、解決していない問題も沢山あった。ベレーネク・メチャレフ領のこと、ククリ族のこと、フォーエンベルガーのこと。ギルドの再編を急ぐ必要もある。形だけでもマルハンヌス教の総司祭を通じて、神への建国宣言をしなくてはならない。各大臣をだれに任命するかも決めなければならない。それ以外にもまだまだある。すべてを自分独りでするつもりはないが、すべてをだれかに任せる気は一切なかった。
「あと半年、せめて夏が来るまでに色々と目処はつけないと……」
「ということは侯爵、玉座にお就きになる決意をなされたのでしょうか?」
神妙な面持ちでアシュトが尋ねる。それを見返して、彼が敵であるのか味方であるのか、まだ結論が出ていないことをユーリィは思い出した。
彼の父親は、息子たちが喉から手が出るほど地位を欲しがっていると信じている様子であった。次男のミーシャはその通りだったが、果たして長男アシュトはどうなのか。
睨め上げるようにして、暢気な表情を浮かべる男を注視する。その中に濁りが紛れていないか見つけるために……。
「決意じゃなく覚悟かな。お前としてはどう思う、アシュト?」
「どう思うと言われましても……」
「気に入らないのかと思ってね」
「気に入らなかったら、ここにこうしてご一緒してはおりますまい?」
「まあ……そうかな……」
微笑みを浮かべた男がなにを考えているのか、どうにもつかめなかった。邪心がないように思えるのは、願望が目を曇らせているだけかもしれない。嫌いではない相手に嫌われるのは心が折れる。だから、タイトス・ハーンがどうか嫌な男であって欲しいと願わずにはいられない。
その後しばらく、だれも口を開かなかった。相変わらず馬車が跳ねるたびに、ブルーは天井を見上げ、そして窓を眺める。彼がなにを気にしているかユーリィは知っている。そしてアシュトも知っている。だがふたりとも敢えて口にはしない。言ったところで自分たちにはなにもできない、なにもしたくもない。“アレと慣れ親しむのは当分無理”と思いながら、ユーリィはブルーの動きを目に入れないように窓の外を眺めていた。
それはちょうど、道がくだりにさしかかった時だった。
並走していたフェンリルが、突如、速度を上げて前へと駆けていく。馬のいななきが聞こえ、なにがあったのかとユーリィが身を乗り出そうとしたその瞬間、急停車した馬車の反動で前方へと投げ出されてしまった。
幸いなことに前にはアシュトが座っていて、上手い具合に体を受け止めてくれた。
「どけ!!」
外から聞こえてきた声は、怒りを含んだハーンのものだ。馬の怯えたいななきは未だ続き、御者台の老人は中腰になって手綱を絞っている。その背中に遮られ、前方の様子がよく見えなかった。
「フェンリル!?」
思いあまって扉へと伸ばしたユーリィの手首を、アシュトがつかむ。
「様子を見ましょう、侯爵」
「でも……」
「先ほど侯爵は、玉座に就くとおっしゃったばかりですぞ。もしそのご覚悟が真実ならば、貴方は貴方おひとりの身ではないのです」
「そんなことは……」
「俺もその意見に賛成っすね。こう言っちゃなんですが、前々から侯爵にはハラハラさせられるんで、守る方の立場としては気が気ではないんですよ」
アシュトの隣にいるブルーも、珍しく真剣な眼差しで同調した。
「どけと言っているだろう!!」
刹那、もう一度ハーンの声。
その声が、引きかけていたユーリィの手を、扉へと戻した。
「僕は守られる者なんかでいたくないんだ。それに、僕がもしどこかで倒れるとしたら、その運命ではなかったと諦めて、お前たちは他を探せばいいさ」
「ですが、侯爵!」
引き留めるブルーの声を無視し、扉を押し開ける。意地になっていたせいなのか、アシュトの手は簡単に払いのけられた。
そうだ、中途半端な覚悟なら初めからしない方がいい。
だけど僕は変わるんだ。
流れ込んできた冷たい空気に顔を撫でられ、夕方の強い斜光が瞳を射す。それを気にせず、ユーリィは砂利だらけの道へと飛び降りた。
二歩ほど進んだところで振り返って一瞥を投げる。途端、白色のなにかが馬車の天井からズルズルと、細長く垂れ下がっているのが視界に入った。
「あれっ!?」「うわぁぁ……!」
車内にいるふたりの叫びが重なったが、ユーリィは断固として二度見はしなかった。




