第7話 なぐさめ者
次の日、ラウロは浮かない気分で一日を過ごしていた。街を巡回している時もずっと気もそぞろ。先輩兵士には何度も怒鳴られた。
(あんなのってないや……)
腹が立ったわけではない、ただ悲しかった。
からかわれた、たぶんそう。身分の低い者をからかって喜ぶ貴族がいると聞いたことがある。金の天子がそういう者だと思いたくないけど、力と性格は別物だ。
街中で痩せた野良犬が、人々を避けながら道端を歩いている。その姿が社会の端っこにいる自分を見ているようで、ラウロはますます気が滅入っていった。
それでも今日は真面目に巡回し、喧嘩七件、餓死者らしき死体三体を処理し、貴族の別邸を見て回った。扉が壊された一軒は内部が荒らされていて、それをギルドに報告した。今日はラシアールからの配給があったのでその警備もした。普段より忙しい一日だったから、時間が過ぎるのがとても早くて、ため息が何度も口から飛び出した。
街の巡回は兵士が二人ないし三人で、二十組が手分けして毎日歩いて回る。兵士の他にラシアールも警備に当たっているが、彼らは魔物に乗り、空から様子を警戒していた。
街の治安は良くはないけれど、最悪ではなかった。難民と言われる者たちが来ることも少なくなっている。一時期は宮殿に毎日詰めかけていた民衆は、あそこにも何もないと知ってようやく諦めたようだった。
宮殿だけではなく、この街には生きるために必要なものは何もなかった。食料も、油も、ロウソクも、石炭も、薪も。水だけは侯爵の使い魔だという魔物が一日二回、町外れの溜め池に入れてくれるので、それを汲みに行けた。
金はあっても買えるものがなければどうにもならない。ある難民が嘆いていたのを聞いたことがある。領主が死に、家を壊され、家族も亡くし、家畜も失い、命辛々ここまで逃げてきた。それなのにこの状況は酷すぎる。こんなことなら生まれ故郷に戻りたいが、道中の携行食がいっさい手に入らないと。多くの難民たちはきっと同じなんだろう。
ギルドなんて当てにできない。彼らはいつだって貴族の方ばかり向いて、賄賂がなければ動いてはくれなかった。この街にいきなり物が無くなったのだって、生き残ったギルドの連中が隠したのだと噂されている。それを狙った略奪者たちを抑えるために、今はアーリング士爵とその精鋭がギルドの直属の命令で、彼らの家の警備に当たっていた。
皆、金の天子がなんとかしてくれると信じている。そのことを侯爵は分かっていてくれてるんだろうか。新兵をからかって遊んでいる場合じゃないというのに。
そんなことを考え続け、ラウロが詰所へと戻ったのはすっかり陽が落ちた頃だった。
建物を入ってすぐ、扉の横にテーブルが置かれている。その上には山積みの皿、大きな器、数十本のスプーン、水差しとグラス。
今夜の食事はなんと崩し芋とエギの実だった。薄紅色のこの実は、豆ほどの大きさでとても甘く、今の時期はガサリナ山脈の麓にたくさん生っている。ラウロも子供の頃は山に行って採ったものだ。どちらも大好物だから山盛り食べたい。しかし下っ端の悲しい性。泣く泣く遠慮気味に皿へと盛った。
いつもの場所に腰を下ろして夢中で食べる。豆以外の物を口にしたのは五日ぶりだから、本当に美味しかった。
(今日も来るって言ってたけど、あれは冗談だよな?)
空腹が収まると、天子の件が軽いことのように思えてきた。きっとお忙しい方だから、たまの気晴らしに遊んでみただけだったと想像し、毛布にくるまって寝ることにした。
ところが横になった数分も経たないうちに、周りがざわつき始めた。“天子”という声も聞こえる。
(うぅ……なんか嫌な感じがする……)
現実を知りたくなくて頭から毛布を被ったが、自分の名前を呼ぶ声はしっかり聞こえてきた。
「ヘルマンはどこか知ってる?」
間違いなくライネスク侯爵の声。お節介にもだれかが“あそこに”と言った気がした。さらに隣にいた男が、「おい、ヘルマン。侯爵がお呼びだぞ」と体を揺するものだから、どうにもこうにも無視することができなくなってしまった。
ゆるゆると体を起こす。嫌々ながら入口へと視線を向けると、金髪の美しい少年が手招きをしていた。
(うわ、ホントにいるよ)
やっぱり逃げられない。俺は捕まった虫だと観念し、毛布を除けて立ち上がる。隣の男が訝しげに「侯爵とどんな関係なんだ?」と言ったのを聞いて、戻ってきてからも一波乱ありそうな予感がした。
詰所の外に出ると、侯爵は何も言わずに昨日と同じ場所まで歩いていった。渋々とそれに従っていくと、彼は唐突に振り返り、曖昧な表情を浮かべたままラウロを見てしばし黙り込んだ。
正面にいる者の沈黙ほど居心地の悪いものはない。とうとういたたまれなくなり、ラウロの方から「あの……」と声を発した。
すると、ようやく侯爵は口を開いてくれた。
「ヴォルフから聞いたけど、前にククリの件で証言してくれたことがあったんだってね」
そう言って侯爵は背後を見る素振りをする。気づかなかったが、暗がりの中にグラハンス氏が立っていた。
「あ、あれは……」
「あの時はスゴく助かった。ありがとう」
素直な謝礼の言葉に、ラウロは感銘を受けた。
からかわれたなどと疑った自分が恥ずかしい。やはり侯爵は神が遣わした天子だったのだ。眉目の美しさはそのお心の美しさの表れであり、人々を救うために……。
「で、名前、呼べるようになった?」
ウソ、マジ、ホントに!?
賛美が秒殺で打ち砕かれ、残るは愕然とした心のみ。
「何を驚いてる。昨日、練習しろって言ったじゃん」
「あ、ええ、そうですが、でも、え……?」
「え、じゃなくて。ほら早く、僕の名前」
「あ、ええっと……」
ここは開き直って言うべきなのか。
しかし言ったら言ったで、無礼と怒られないだろうか。
小さな葛藤を繰り返し、ラウロはようやくその名前を小声で言った。
「……ユーリィ」
「なんだ、あっさり言っちゃうのか」
落胆したその声に、理不尽さを感じずにはいられない。
侯爵はサッと背を向けると、そのまま歩き出した。グラハンス氏が寄り添うように隣に並ぶ。
「明日も来るから」
そんな捨てゼリフを残して。
詰所に戻ったら戻ったで大変だった。数十人がラウロを取り囲み、侯爵とはいったいどういう関係なんだと詰め寄ってきた。まさに尋問。
名前を呼ばされているなんて信じてもらえそうもないので、ククリの件でお礼を言われたと説明した。近衛長のひとりが敵の回し者だったあの件はもちろん皆知っていて、なるほどと納得し、その場は丸く収まった。
しかし次の日も、その次の日も、その次の日も侯爵は現れた。そして毎回、名前を呼べば不満げな様子で帰っていく。いったい何をしたいのか、ラウロにはさっぱり分からない。
呼名を強要される前には街の様子をひとつふたつ聞かれるが、それに答えても、これといって反応はない。そしてラウロが名前を口にすると不満そうに帰っていく。そんな日が何日か続いた。
ところが、六日目頃から兵士たちの間で嫌な噂が流れ出した。
“ヘルマンは例の件を恩に着せ、侯爵から食料を分けてもらっているらしい”
もちろん面と向かって言われたわけじゃない。でも言葉の端々から、彼らがそう思っていることはちゃんと伝わってきた。
新兵の遠慮である皿の量も、「あとで侯爵からもらえるから」と言われ、正門前から戻って来ると「今日は何喰ったんだ?」とニヤニヤと尋ねる。いくら違うと言ってもだれも取り合ってはくれなかった。
そして九日目、ついにラウロもキレてしまった。そんなに気になるのなら一緒に来てくれと皆に言い、侯爵が現れると大勢を引き連れて外に出た。
見物人たちに、侯爵は大きな目をさらに大きくして驚いている。そんな彼にラウロははっきりと言い立てた。
「僕をからかうのはもういい加減にしてください。もう何度も侯爵のお名前は言いましたし、いつになれば許していただけるのでしょうか!? もしも俺に気に入らないことがあるのなら、はっきりおっしゃってください」
処罰されてもかまわない。完全にやけくそだった。
すると侯爵は何か言いたそうに口を開きかけ、最後に「ごめん」とだけ言って、宮殿へと戻っていった。
その次の日から彼は現れなくなり、ラウロの妙な罪悪感は日増しに大きくなっていった。