第66話 自叙伝『さして面白くもない人生』第三章 その4
――アシュト・エジルバーク自叙伝『さして面白くもない人生』第三章より抜粋
『リカルド・フォーエンベルガー伯爵という人物をひと言で言い表すなら、“茶目っ気のある美男子”だろう。三十をとうに過ぎた私からすれば、二十という年齢は羨ましいほどの若々しさもある。むろん私の顔立ちが悪いというわけではない。ただし父に似て、目鼻立ちにあるアクの強さが年齢とともに増え続けているせいで、爽やかとはおよそ言いがたいが。
伯爵の髪は少し癖あるアッシュブラウン。その髪を、耳と顎を隠すほどの長さでこざっぱりと整えてある。おそらく毎週のように髪師を呼んでいるからであろう。私のように気が向いたときにだけ切る人間には、およそ真似ができない身だしなみの良さだ。
瞳の色は藍に近い青。目尻がやや下がっているせいか、子どものようなあどけなさも残っている。口角の上がった口元にも、気が置けない印象を与えるのに十分だった。
そんなフォーエンベルガー伯爵と、美しきライネスク侯爵が並んだ姿を見て、私はつい“美男美女のカップルだな”と思ってしまった。だから侯爵を見る伯爵の目に、なにか熱のようなものが含まれていた気がしたのもそのせいだろう。
話を少し戻すが、先ほど我々はフォーエンベルガー伯爵の茶目っ気たっぷりな計らいで、なんとも奇妙な行進をしてしまったと書いた。港町を出て、早朝だれもいない海岸線の道をずっと、近衛兵らに囲まれ移動していた私の心中は、本当に穏やかならざるものであった。
だからこそ、フォーエンベルガー城に到着した時の歓迎ぶりに、少々舞い上がってしまった。伯爵本人はむろんのこと、眠そうな目をした側近十数人 ―きっと叩き起こされたのだろう― がずらりと待ち構えて、侯爵へ慇懃に挨拶をする。それに対して、侯爵もご年齢らしからぬ威厳をもって返事をなされた。その様子に、私自身もまた重要な人物である錯覚すらしてしまい、そのことがのちのち私に重要な決断をさせるのだが、そのことは置いておくとして。
とにかく、貴賓の公式訪問として侯爵が迎えられたことに、フォーエンベルガー家もまたライネスク侯爵を皇帝にと考えているのだろうと私は確信した。
ところが、側近たちの下がったのち、侯爵と伯爵の会話から、ふたりは旧知の仲なのだということを私はこの時初めて知った。それと同時に、本当に伯爵はライネスク侯爵が統治者となることを良しとしているのか、という疑問も浮かんできた。
きっかけは侯爵のこの言葉からである。
「しらばくれても無駄。諸外国と独自の交易を行っているのは分かっているんだ。望んでいるのは治外法権か? それとも独立か?」
「言っている意味が分からないな」
「白を切れると本気で思っているのか? それとも僕はお前を買いかぶっているのか?」
「相変わらず鋭いな、子猫ちゃんは」
ちなみに、フォーエンベルガー伯爵は侯爵のことをこう呼んでいた。私も何度か以前に書いたが、侯爵にはたしかに猫を思い浮かべてしまうものがあった。時に鋭く、時に哀しげに光を放つ青い瞳は、猫のそれと同じように、目の中をほとんど埋めている。性格もまた、爪を出して威嚇をしたり、甘えるような仕草したりで、猫そのものである。だからこそ、心を奪われずにはいられないのだが。
「あんな、わけの分からない出迎えをしたのは、僕にあの港を探られたくなかったからだろ? たしかに以前も僕はあそこに行ったことがある。でもその時と今とでは僕の立場が違う」
「あの港はフォーエンベルガーにとっては財布も同じだからね。きみの考えが分からない以上、隠すに越したことはないと思っただけさ」
「それでどこまで手を広げていた? ルーベンやフェンロンとも交易しているのか?」
伯爵はいやいやと片手を小さく振って見せ、
「そこまで大規模なことはしていないさ。むろんルーベンやフェンロンとも繋がりはあるが、小規模なものだ。フォーエンベルガー領地で採れる作物を細々と売っているだけに過ぎないよ」
「となると、やっぱり主な相手はセシャールだな? ギルドも交易船を出しているのだから、フォーエンベルガー家の船が頻繁に行き来していれば分からないはずはない。だけどセシャールならここから目と鼻の先だ。海岸線を選べばギルドの船と出会うこともない。ああ、そうか。北に行く時は、セシャールの船に積み荷を入れ替えている。そうだろ?」
伯爵はあの茶目っ気たっぷりな笑みを浮かべ、侯爵の言葉を否定も肯定もしなかった。
「その繋がりの為に結婚を決めたのか、リカルド?」
「俺にそんな力があると思うなんて、それこそ買いかぶりすぎだ、子猫ちゃん」
「なら先代か?」
「始めたのは先々代の曾祖父だ。ちょうどギルドとの対立が激しくなった頃でね。ほら、北西諸国と交易をするには、どうしてもフォーエンベルガー領地を一部通る必要があるだろ? 曾祖父はその通行料の値を上げた。するとギルドはフォーエンベルガーが出荷する小麦を買い叩き始めた。そこで曾祖父はセシャールと直接交易をすることにしたんだ。向こうもギルドの上乗せ分がない値段で小麦を購入できるから、双方にとって好都合だったってわけさ」
「でも、そんなことをすれば、フォーエンベルガーからの出荷が減って、ギルドにだってバレるだろ?」
「その辺は上手くやったさ」
もう勘弁してくれという表情を作った伯爵に対し、侯爵は追及の手を緩めなかった。
「つまり?」
「つまり、徐々に気づかれない程度にギルドの方を減らしていった。さらに小麦を二毛作にした。それまで作っていなかったペトラ酒用の果樹園を作った。あの酒はセシャール人の好物だからね」
「それ以外にも、ギルドに報告していないことがありそうだな?」
「まあね」
フォーエンベルガー伯爵はあきらめ顔であっさり肯定した。
私はふたりの会話を聞いている間、金の天子がソフィニアを治める未来について、心を馳せずにはいられなかった。
正直に言うと、それまでの私は、侯爵の容姿だけが、皇帝に相応しいものだとしか考えてはいなかった。第一章第二章で述べたとおり、弟に散々酷い目に遭わされてきて、虐げられる側の感情は知っている。それでもやはり、エルフと混血という、あの当時では当たり前の差別的意識も持っていた。
しかしこの時は、本当に侯爵の鋭さには驚きを隠せなかった。舌を巻くとはまさにあんなことを言うのだろう。弱冠十七歳にして、しかも幼さの残る容姿をしているということも、その驚きを強めていた。
私以上に侯爵を知っているらしいはずのフォーエンベルガー伯ですら、落ち着かない様子で、そのアッシュブラウンの髪を何度かかき上げていた。
「で、フォーエンベルガーの秘密を暴いて、君はどうするつもりだ、子猫ちゃん?」
「さっき尋ねただろ。望みは治外法権か、それとも独立かって」
「そんなことまで考えてやしない」
「今度の結婚も、セシャール国王の後ろ盾が欲しかったからじゃないのか?」
侯爵は爪を出したまま攻撃の手を緩めようとはしない。端で見ている私も、ハラハラとした気分になるほどだ。伯爵の隣に立つタイトス・ハーンという近衛兵司令官も、表情こそ出ていなかったが、二三度瞳を揺り動かして、防戦している主君の様子を窺っていた。
「どうなんだ、リカルド?」
「いやいやいやいや、ちょっと待ってくれ。俺がシンディと婚約に至った経緯は君も知っているはずだろ? セシャールとは一切関係ない」
「でも継承問題で、実の叔父であるブロムベルグ子爵ともめて、セシャール国王に執り成してもらったよな? 噂によればプロムベルグ子爵はほぼ失脚し、その領地もセシャールへ献上するとか。あそこはフォーエンベルガー領の北の端、つまりセシャールとの国境の境にあるから、ありえない話ではないと僕は思っている」
「まったく君は……」
伯爵は降参という顔で両手を軽く挙げ、いたずらが見つかった子どものような笑みを見せて、前に立つ侯爵を見下ろした。
「正直に言おう。たしかにセシャールの名家であるベネスフォード家を通じ、セシャール王国との繋がりをさらに深めようとは思っている。けれど、我が領地は常にセシャールの脅威に晒されていることを理解して欲しい。ここは北西諸国からソフィニアを守る蓋とも言える場所だ、そうだろ?」
「うん、分かってる」
「もしもソフィニアが帝国となる場合、フォーエンベルガーはさらに微妙な立場に置かれることになるんだ、地理的なことも含めて」
「だから聞いたんだ、治外法権が欲しいのかと。これからギルドを含め、色々な改革が行われる、というか、もうかなり進んでいると言っていい。僕自身がどうなるかだって実際のところ分からない。考えてもみろ、もし本気で僕を皇帝にしたいのなら、独りでこんな場所に来させやしないだろ?」
「君に媚びても無駄だと言いたいのか?」
「媚びるつもりでいたの?」
侯爵が哀しそうな表情でわずかにうつむくと、伯爵は言葉に詰まってしまったようだった。それを見て、彼が敗北したのだと私は悟った。
もし私が伯爵の立場だったとしても、あんな表情を浮かべられてしまったら、もう手の打ちようがない。それまで爪を立てていた猫が、寂しく鳴いたのだから。すぐに頭を撫でて、慰めてしまいたくなるのではないだろうか。
実際、伯爵もそうだった。
「いや、そうじゃないんだ。俺は君の手助けになることなら、なんでもするって意味で言ったつもりなんだ。過去に君を傷つけた罪滅ぼしも含めてね」
「うん……」
「例の魔法で君のことを……」
言いかけた伯爵は、ハーンと私の顔に視線を走らせてから先を続けた。
「……君のことを誤解したが、それは全くの誤解だったというわけじゃなく、いくら魔法が解けたからと言って、記憶も感情もゼロにはできないのさ。分かってくれるかな?」
「うん、まあ……」
「お互いにあの時とは立場も違うし、腹の探り合いもしなくてはならない。だけど、もう二度と君を裏切るなんてことはないから、これは本当だ」
私は伯爵の言い訳を聞いているうちに、まるで浮気を見つかってしまった恋人が必死に弁解しているような、妙な錯覚をしてしまった。実際に伯爵は、そんな表情を浮かべて、侯爵に必死に取り入っていた。
「分かった。リカルドを信じよう」
「そうか、良かった」
「でもセシャールとの交易での出荷量を報告してもらうよ、リカルド。それから、毎年ギルドからはフォーエンベルガー領の生産量を調査させる。その双方に差がなかったら、伯爵家の治外法権を認めよう。蓋がきちんとしまっているか、確認する必要はあるからね」
「君は俺を信じないというのか?」
「信じているからこそ、今やるんだよ。お前じゃなかったら、それこそ大反発されるだろうからね。それともフォーエンベルガー家はお前の代で終わらせるつもりなのか?」
フォーエンベルガー伯爵の完敗であった。
その後、ライネスク侯爵は私のことを紹介し、服を貸して欲しいと頼んでくれた。伯爵はみすぼらしい格好をしている私を、どうやら従者だと思っていたようだ。
実のところ、侯爵がなぜ私のことを黙っていたのか不思議に思っていた。今考えれば、フォーエンベルガー家の秘密を暴くため、あえて黙っていたのだろう。イワノフの二人が揃って現れれば伯爵も警戒を強め、口を割ることもなかっただろう。今頃になって思いつくとは、私も相当鈍いものだ。
「もちろんお貸ししないわけはありませんよ。なにしろ我が領内の危機を救ってくださったのですから」
ようやく自分を取り戻したらしい伯爵は、例の悪ふざけをしている子どものような笑みを蘇らせた。
「それにしても、我が家は洋服屋にでもなったようだ」
「洋服屋……?」
「数日前にグラハンスさんが服を借りに来たばかりだから。あ、知らなかったかい?」
「そう、ヴォルフが……」
侯爵はふと窓の方を見る。大きな一枚ガラスの向こうには、蒼い空と碧い海が広がっていた。本当に素晴らしい景観である。あの美しさに比べれば、謁見室の豪華な装飾品などまがい物にしか見えないほどに。
だから侯爵もそれを眺めたのだと思ったのだが、なぜかその横顔は今にも泣き出しそうなほど寂しげだった。
すぐそばに城の別棟らしい茶褐色の屋根がある。その上に、藍鼠色の魔物が身を伏せて、ジッとこちらを睨んでいた』




