第64話 フォーエンベルガーの秘密
船は驚く早さで本土に到着した。あまりの早さに、十数人の乗客たちがどうしていいか分からず、明かりの消えた港町をうろつくほどだ。空にはまだ星が見えていて、地平線には太陽の気配すらなかった。
早く着いた理由は三つある。
一つめは追い風だ。島を出てからずっと、帆は一度も垂れることなく、綺麗な弧を描いて進んでいた。二つめは、かつてないほどの力強さで、漕ぎ手である男たちが櫂を動かていたせいらしい。異様なほどの頑張りに全員、到着と同時に甲板に倒れていた。。どうやら狼魔に追いかけられているのを恐れ慄いたのが原因のようだ。出航前にハイヤーが“悪い魔物ではない”と説明したはずなのに。
そして三つめは、時々フェンリルが船尾を押したためだろう。手助けしていたつもりなのか、船に乗れないのが気に食わなかった嫌がらせかはユーリィにも分からない。
いずれにせよ、そんな三つの理由で、船は夜明け前には本土へと接岸した。
桟橋に降り立ったユーリィとアシュトも他の乗客と同様、時間をどう潰すべきか悩んでしまった。
この港は、湾の一番奥に位置している。夜空に浮かぶ両側の陸地はどちらも岬だ。その右側の高い場所に、その城は建っていた。
よくまあ、あんな場所に建てる気になったものだ。敵に攻められれば確かに守れるだろうが、逃げられもしない。リカルドの先祖はよほど海好きだったのだろう。
そんなことを考えつつ、ユーリィは高い三本の塔のてっぺんが、群青色の空に突き刺したフォーエンベルガー城を眺めていた。
「どうなさいますか、侯爵?」
アシュトの目がチラチラと、ほとんど明かりの灯っていない港町へ向けられている。どこかでかがり火でも焚かれているのか、白い煙が空へと伸びていた。
「朝が来るまでどっかで待ってる?」
それほど大きい町ではないはずだが、宿屋の一つや二つはあるだろうとユーリィは思った。
「ええ、できれば。実は夜風ですっかり体が冷えてしまいまして」
ハイヤーの古着の袖なしシャツと薄手のズボンは本当に寒そうで、アシュトは鳥肌を立てていた。
ユーリィ自身は赤紫色をした立て襟の厚い上着、その下にシャツを着ている。ズボンも上着と揃いのものだ。暖かいというほどでもないが、寒くはなかった。
貸してあげたくても、体型が違いすぎる。痩せ型とはいえ、アシュトは成人男性としてごく普通の背と体格をしていた。
「宿屋に行ってみよう。少なくても、町中の方がここより暖かいし」
海風は休むことなくふたりの髪をかき混ぜる。小波がちゃぷちゃぷと船に当たって跳ねていた。
桟橋を降りた辺りには、古い倉庫がいくつか建っている。その倉庫群の裏に民家が並び、小さな町を作っていた。以前も来たことがある場所だ。その時は島に行くことだけが目的で、あまり深く考えなかった。けれどアシュトの持つランタンの光を頼りに、倉庫までたどり着き、ユーリィはあることが気になった。
港町や漁港と呼ばれるところは以前にも何度か訪れたことがある。まだ、この世界が自分を求めているとは思ってもいなかった頃だ。どの町も匂いが鼻につき、特に城を出て間もなくの時期は、吐き気すら催したものだった。それに、昨夜までいたベルベ島の港近くにある村でも同じ匂いがした。
ところがこの町は、そうした匂いがそれほど強くはない。むろん海辺にあるのだから磯の匂いはある。風にも潮の香りそのものだ。けれど、漁港特有の生臭い感じはしなかった。
(漁はしてないのかな?)
だとしたら、この街の住民はいったいなにを生業にしているのだろう。そう思って目の前の倉庫を見上げ、振り返って桟橋の影を眺め、もう一度倉庫を見上げてから、ユーリィはある可能性を脳裏に浮かべた。
フォーエンベルガー家はもともとギルドと反目し、一線を引いていた。つまりギルドはほとんど利用していなかっただろう。
(そうか、そういうことか……)
その想像が確信に変わったのは、倉庫から町へと一歩足を踏み入れた時だ。倉庫の裏に並んでいる数十件の宿屋。軒先に吊されているランプの光は、宿泊可能という合図だ。それだけこの町に滞在する者は多いのだろう。つまりここを訪れるのは、ベルベ島の住人だけでないことを意味している。
(ジョルバンニが次に狙うとしたら、フォーエンベルガーか。ここを落とせば、やつの帝国化計画はほぼ完了かな)
あの眼鏡男は自分がここにいることを知っているのだろうか。
隣を歩くアシュトをチラリと見て、可能性はあるとユーリィは思った。けれど今さら疑ったところで時すでに遅しだ。アシュトがジョルバンニの手の内にあると、想定しておいたほうがいいかもしれない。
「宿屋、たくさんありますねぇ。どこにしましょうか?」
疑われていることなど知ってか知らないでか、アシュトが暢気に言った。
「んー、どこでもいいけど、僕は持ち合わせないよ?」
「大丈夫です。金貨は常に……常に……常に……」
自分の体をまさぐりっていたアシュトが、ぴたりと動きを止めた。
「あれ……?」
「なに?」
「あれあれ?」
「なになに?」
「あ、あ、あ、あぁぁーーーーーっ!!!!」
「静かに!! 騒ぎになるから」
辺りに目を走らせて、ユーリィは慌てていった。しかしアシュトは呆然とした面持ちで自分の服を眺めている。
「服が、服が、服が、服が違うんです!!」
「なにを今さら」
「上着の内ポケットに金貨を入れてあったのに……」
「その袋の中には?」
ユーリィは、アシュトが肩からかけている革製の袋を指さした。
「ここには火打ち金とカップと皮水筒と薬が入っているだけです」
「まさか、そんな装備だけで旅してたのか?」
「旅と言っても、そもそもメチャレフ領地の外には出たことは一度もありませんし。ああ、どうしましょうか。あの財布は私の全財産が入っていて、ないと困るんです!」
今にもベルベ島に戻ると言い出しかねない男に、ユーリィもどうしたものかと考えた。フェンリルに乗れば、あっという間に島には戻れるだろう。しかし帰りは、二日に一度しか往来のない船を待つことになる。さすがにそこまで時間は掛けられないような気がした。
「じゃあさ、宿屋に行かないでこのまま、フェンリルで城に乗り込む?」
「寒くて死にます」
「死なないぐらいの速度で行かせる」
「落ちて死にます」
「落ちないように咥えてもらう」
「噛まれて死にます」
こいつは……。
ユーリィはアシュトを睨みつけ、内なる苛つきを表現したけれど、相手は全く意に介さなかった。
「やっぱり一度島に……」
「ダメ、それは絶対ダメ」
気づけば群青色だった空が白ばみ始めている。星はほとんど姿を消して、半月の光も弱々しい。アシュトの持っているランタンの炎さえ、小さく縮んでしまった。すべての光が太陽に飲まれていくようだ。
「分かったよ。金なら僕がこの上着を売ってなんとかする。宿代ぐらいにはなるだろ」
「いや、それはどうかと……」
アシュトの言葉を遮ったのはフェンリルだ。いったいどこにいたのか、上空から緩やかに駆け下りてくる。一度ふたりの前方に降り立つと、狼魔はゆったりとした足取りでユーリィへと近づいてきた。無意識なのか、隣にいたアシュトが数歩さがった。
「やっぱり乗るか咥えられるかしなければ、ダメなんでしょうかね」
なんとも情けないアシュトの声に、奇妙な音が紛れ込んだ。
最初は地響きかと思った。しかしその中に金属がこすれるような音が混ざり、さらに蹄の音も入ってくると、記憶にある情景が自然と脳裏に浮かんできた。
(もしかして……)
アシュトも気づいたようだ。情けない顔が一瞬にして強ばり、音が聞こえてくる方角を見やる。彼も同じことを考えているのだろう。
「侯爵、まさか?」
「ああ、分かってる」
警戒したフェンリルが、両耳をピンと立ててユーリィへと寄り添ってきた。
「来ます!」
アシュトが左の方角を指す。ほぼ同時に建物の陰から大勢が現れた。
鎧を身につけ、剣を携え、馬に乗る男たち。次から次へと曲がってくる馬の数は、十、二十、三十と増え続け、やがて六十ほどに達した。小規模ながらも、れっきとした軍隊だ。
敵ではないかもしれないが、味方とも思えなかった。彼らが狙っているものは、我々ふたりか、それともこの町なのか。
判断に苦しみ、動くことすら忘れ、呆然としているユーリィたちを、彼らは確実に気づいているだろう。それなのに、かなり離れた場所で馬たちの足がぴたりと止まった。
明日65話を更新します。




