第6話 猫じゃらし
魔物に乗ってラシアールたちが飛び去っていくのが見えた。夜と呼ぶ時間に入ってずいぶん経ってからだ。
ヴォルフは急いで宮殿に戻り、謁見の間を訪れた。まだ彼が残っていると見越したからで、案の定、ユーリィはソファでうたた寝を始めていた。
寝顔には一晩では消せない疲れがある。やつれと言っても過言ではない。それでも彼が投げ出さないのは、この惨状の責任を密かに感じているからだろう。
青白い頬に、指先でそっと触れる。その温かさに安心して、彼の隣に腰を下ろした。
「んん……?」
ソファの加重で起こしてしまったのか、眠そうな薄目が開いた。その相手が恋人だと知ると、彼はゆっくり体を倒してくる。こうして不意に甘えてくる時が一番満たされる時間だった。
「ずいぶん疲れてるな」
「眠いだけ」
「食事は?」
「まだだけど、今は食べたくない」
「いつも食べたくない、の間違いだろ?」
ヴォルフはその体に腕を回しかけ、途中で止めた。仮とはいえ宮殿の主人がこんな場所でいちゃついているのを知られるわけにはいかない。
「気にすることないのに。どうせだれも来ないよ」
回さなかった腕が気に入らないのか、ユーリィはなじるような口調で言った。
彼の言うとおり宮殿にはほとんど人がいない。この広さで料理人二人、奉公人五人ではまさに巨大な空箱。そのたった七人でベレーネクの遺児たちの世話と、監視所に寝泊まりしている兵士たちの食事の支度もあるから、仮の主人は常に放置された。
「もう少し下人の数を増やしたらどうだ? 護衛すらいないのはどうかしている」
「護衛ならヴォルフがいる。それに僕にはお金がない。そもそも宮殿はギルドのものだろ?」
「ジョルバンニに頼めばいい」
「ヤダよ」
嫌悪感を露わにして、ユーリィは拒絶した。
今まで近づいてきた者の大半は、ろくでもない奴ばかりだった。だから怪しむのも無理はないし、彼はその強さとは裏腹にとても傷つきやすい。
「思ったんだが、君は一度、自分の領地に行くべきじゃないかな?」
「すっごい遠いぞ。イワノフ領の外れ、西海岸の近くだ。一昼夜じゃ半分も行けない。それに爵位なんてすぐ捨てるからいいよ」
「本当に?」
途端にユーリィが体を離す。青い宝石に少し怒りの色が含まれていた。
「お前、僕を信じないのか?」
「いや、そうじゃなくて。君は大勢に必要とされているってこと。それが理由で気が狂った俺が言う立場ではないかもしれないけどな。でも今は冷静に考えられる。君が歩む道なら俺はどこにでも付いていくから、絶対に。だからちゃんと考えて欲しいのさ」
「そんなこと言われたって……」
十六で背負うには過酷であることも理解できる。自由を欲しいと思うのもしかたがない。それでもユーリィがその気になれば、背負いきれないほどの重さではないとヴォルフは確信していた。
「まあいい、そのうち考えれば。何度も言うが、どんな結論でも俺は絶対に離れないから」
「離れないじゃなく、離れることは許されない、だ」
「いいな、そのフレーズ。今度からそれ使おう」
ふふんと鼻で笑うと、自分の言葉が恥ずかしかったのか、ユーリィの白い頬に赤みが差してきた。
やるべきことのひとつは、こうして時々ユーリィに明かりを灯すこと。それは自分にしかできないことだとヴォルフは自負していた。
「そうだ、思い出した。君に会わせたい人物がいるんだ」
「えっ? だれ? 女?」
「女? 女に会いたいのか」
「僕が? なんで」
「なら、だれが会いたいんだ?」
「だれがってだれ?」
「はぁ?」
凄まじく会話が噛み合っていない。これは凶兆だという経験則があるから、互いに探り合い、視線を交差させた。
「……どうやら、じっくり話す必要がありそうだな」
「うん、そうだね」
同意の返事をしたにもかかわらず、伏せた青い瞳にはためらいが混じっている。だから今は追及するのは止めようと、うつむいている彼の頭をポンと叩いた。
「とにかく行こう」
そんなわけで、肩を並べてヘルマンが待ってるはずの正門へ足を運んだ。
途中で「相手は君の恩人」と教えると、少年は丸い瞳をさらに丸くして驚いた。
「ちょっと変わってるけど、歳も近いし、友達になれるかもしれないだろ?」
「友達……」
ただ呟いただけの言葉。その中にあるものをヴォルフは知っていた。だからこそ失った友の代わりになればと願い、わざわざ正門前に来たというのにヘルマンの姿はない。そしてユーリィはしれっとした表情で足元の雑草を眺め始めた。
その表情が期待などしていないと言っている。たった一度の裏切りに彼がどれほど傷ついたのか、ヴォルフはよく分かっていた。だからその傷が癒やせればと思ったのに、ヘルマンはなかなか現れない。
しばらく待ち、とうとうユーリィが言った。
「帰ろうよ」
その穏やかな声は、広がってしまった傷を隠そうとしているように聞こえてしまう。
それとも自分は余計なことをしているのだろうか。
「もう少し待ってみれば……」
「いいって。でも気をつかってくれたのは嬉しいよ。少しお腹が空いたから、戻って豆食べようぜ」
その瞬間、近くの草むらから渇いた音が聞こえてきた。けれど半月の光には、潜んでいる何かを見せるだけの力はなかった。
ユーリィをかばってその前に立つ。その時になって初めて、ヴォルフは少年が要人であることを思い出した。
(ちっ、俺としたことが……)
イワノフ城にいた頃の上げ膳据え膳の扱いではなかったから油断した、などと言い訳が通用するはずはない。しかも武器を付帯していないとは、失態としか言いようがなかった。
(いざとなったら試してみるか)
自分ではまだ制御できないことだから不安はある。それでもあの魔物は信じるに足る存在だった。
「ユーリィ、動くな」
「あ、うん、いいよ」
いつものごとく、護る相手は暢気な構え。こういう時の緊張感の無さは天下一品だ。
「だれだ、そこにいるのは!? 出てこい!」
常套句を口にして、草むらを睨み続けた。本来なら花壇がある場所だ。しかしもう半年以上も放置されているので、どこもかしこも草だらけとなっていた。
ふたたびカサッという音。やはり気のせいではなかった。
「出てこないと、こっちから行くぞ!」
「なあ、ヴォルフ。まさかとは思うけど、さっき言ってたヘルマンなんじゃ……」
「申し訳ありません!!」
ユーリィの言葉を遮って飛び出してきたのは、間違いなくそのヘルマンだった。
出て来た彼はどういうわけか半泣きで、そのままズズズーーーッと下がって、正門の鉄格子へとへばりついた。
「ホントに変わってるな、あれ」
興味が出て来たのか、ユーリィの声には少し張りがある。
「ま、そう言うなって。おい、ヘルマン! こっちに来いよ!」
「大丈夫ですっーー!! 俺はここで十分ですからっーー!!」
さほど遠くでもないのに大声を張り上げている。その切羽詰まった様子がさらにユーリィの興味をかき立てたようだ。
「なんか面白い。行ってみようぜ」
ヴォルフの腕をつかまえて、少年はぐんぐんと前に出る。その横顔には心なしか明るさがあって、ヴォルフも少し楽しい気分になった。まさかそれが彼の本領を発揮させる結果となるとは思いもよらず……。
「いらっしゃらなくても結構ですからっ!!」
「ヤダね。そんな大声で会話なんかしたくない」
「会話もなんてとんでもない! 俺はここで拝顔させていただけるだけで……」
「人の顔をこそこそ見るのが趣味なのか?」
その辛辣なセリフを発した時にはもう、ユーリィはヘルマンの前に立っていた。
「こそこそ見るなんて、そんな……」
「だって、草むらでこそこそ見てただろ?」
「俺はただ、天子様のお姿を近くで見たって、だれかに自慢したかっただけです」
「珍しい動物を見つけました的なやつ?」
「違います違います、そうじゃなくて……」
ユーリィの攻撃に、ヘルマンは完全にやられていた。
ここは助け船を出さなければなるまい。でなければユーリィはますます調子づく。その証拠に、半月の薄い光でも彼の瞳はキラキラと輝いていた。
「ユーリィ、そろそろ許してやれよ」
「せっかく楽しくなってきたのに」
「彼は楽しくないって言ってるぞ?」
少年は口の中で舌打ちをして、残念な気持ちを表現した。
心根は優しいのに、時々こうして揚げ足取りに興じてしまう。それはまさに猫じゃらしへと飛びつく猫のようだ。
「で、ヘルマン。君は本当にあそこで彼の顔を見てたのか?」
「だって俺、天子様のご尊顔を拝謁したいって言ったと思いますけど……。でも俺みたいなのが天子様とお話なんてもったいないです」
「僕を天子なんて呼ぶのは止めろ、気持ち悪い」
これは戯れではなく本気の攻撃。前々からユーリィは自分が“金の天子”と呼ばれることに不満だったから、爪を立てたくなったのだろう。
「では、侯爵で……」
「それもダメ。お前はラウロだっけ? ラウロって呼ぶから、ユーリィって呼べ」
「そんな、まさか、とんでもない!」
彼は本当に怯えた顔をした。
「いいから早く。ほら、ユ!!」
勢いに押され、蚊の鳴くような声でヘルマンが続ける。
「……ユ」
そこからは幼児に言葉を教える親のように何度も何度も強要して、ようやくヘルマンが震える声で「ユーリィ」と言ったのに満足し、ユーリィは美しく微笑んだ。
「明日また来るから、それまで練習しておけよ」
捨てゼリフを吐き、踵を返して少年が立ち去っていく。その姿に、自分は友達ではなく玩具を与えてしまったのかもしれないと、ヴォルフは反省し始めていた。
「悪いな、ヘルマン。あれでも本人は親愛の情を示しているつもりなんだ、許してやってくれ」
謝るだけ謝ってから、急いでユーリィに追いついて、何か言おうとその横顔を覗き見た。
まだ明るさが残っている。そんな表情を見るのは本当に久しぶりだ。だから少々問題はあるものの、まあいいかという気分になって、ヴォルフは彼の横を歩き出した。