第57話 自叙伝『さして面白くもない人生』第三章 その1
『長くもないこの人生を終える時、私は必ず言おうと思っている言葉がある。
“つまらない人生だったよ”
暇つぶしにでもこの本を読もうと思った者は、中に書かれているつまらない話に飽き飽きとすることだろう。しかしながら、そのつまらない人生のなかでいくつか楽しいと思った時間がある。それだけを書き綴っても良かったが、前後のつながりを説明するのが面倒なので、だらだらと書き連ねることにした』
――アシュト・エジルバーク自叙伝『さして面白くもない人生』冒頭より抜粋
以下は同書第三章である。
『私はその日、生まれてはじめて空を飛んだ。滅多にない面白い経験に少々興奮していたのだろう。巨大な虫から何度も落ちそうになり、そのたびにブルーというエルフに助けてもらった。
雲というものは、地上から眺めていた時は綿のような暖かさを感じていたが、結局は冷たい霧だった。氷の粒が混じっているので、ビタビタと頬に当たる感覚が不快である。あれ以来、私は雲を見上げるたびに、背筋が凍りつくような寒さを感じるようになってしまった。子供の頃、歩かない鳥は楽だと思っていたものだが、彼らは我々以上に過酷な旅をしているらしい。
しかし空を飛ぶという経験そのものは面白かった。後日昼間に飛んだ時は、“野山がなんとちっぽけなことか”と、思わず感嘆の声をあげたほどだ。
感嘆と言えば、狼魔に乗るライネスク侯爵(以後、当時の称号を使用する)の美しさも素晴らしかった。惜しむらくは男子であるということか。しかしその眉目はまさしく少女のようであり、目の保養には十分すぎるお姿だった。
これ以上書くことは控えるが、以後の文章から私の気持ちを感じ取っていただきたい。
数時間の飛行ののち、我々はベルベ島に到着した。太陽は東から登り始め、黄金の光がほんのり火山を映し出すと、その山頂から白い煙がもうもうと上がっているのが私にもはっきり見えた。
「なんか前と雰囲気が違う」
港に降り立って早々、金の髪を輝かせたライネスク侯爵が不安げにそう言った。
「あ、侯爵にもわかります?」
「うん、なんか嫌な感じがする」
『島が怖がっているのじゃよ』
ところで、この喋るフクロウに私が驚いたと前章で書いたが、実はベルベ島の守り神だということをこの時に侯爵から教えてもらい、さらに驚いてしまった。
『守り神が島を守れないとは、情けない事実じゃ……』
頭上を飛び回っていたフクロウが悔しそうにそう言ったのを聞いて、ライネスク侯爵は「あの戦いで力を使っちゃったんだから仕方がないよ」と慰めた。
見た目とは裏腹に氷のように冷たい方だと言う者もいるが、この旅の最中、私はそんなことは一度も感じなかった。
「でもさ、この島には精霊がいっぱいいるんだろ? 彼らだけでは倒せないの?」
『いっぱいとは言っても島にいる数では無理じゃ。それに火山にいるのは邪悪なモノではない。我々はこの世界を壊すほどのモノではないと、手を出せないのじゃよ』
「ふーん、そういうもんか」
侯爵の視線は火山にあり、思案するように円らな瞳を僅かに細めた。
ライネスク侯爵はエルフとの混血であるが故に、ずいぶんと特徴のある瞳をしている。白眼がないエルフの眼をリスのようだと前章で書いたが、侯爵のそれは猫の目にどことなく似ていた。
ところでこの時、私が考えていたことは爆発寸前の火山でもなく、ましてや精霊の秘密でもなく、昔出会った少女のことだ。
年の頃は十四、五で、丸く大きな瞳が特徴的な娘だった。その幼い顔に似合わぬ肉体に、私は彼女と話している間ずっと、大きな瞳と大きな胸を交互に見ていたものだ。
この章まで読めばもうお気づきだろう。私は成熟した女性よりも幼い娘の方が好みである。この時も過去の少女と侯爵を心の中で比べ、赤紫の上着の内側にふくよかな胸がないものかと残念に思っていた。
すると、私の身におよそ考えられないことが起きたのだ!
なにかに背中を押され、次の瞬間、私は地面に這いつくばっていた。さらに背中を酷く押さえつけられ、まさに捕らえられたウサギの如く、身動きができなくなった。それなのにまだ、私はなにが起きたのかわからなかった。
「おい、フェンリル、なにやってる!?」
私の悲鳴とも呻きともつかぬ声に気づき、侯爵がそう言った。その言葉に驚き、私は必死に首を回して、いったいなにが自分を捕らえているのかと見上げると、口から長い牙が二本もはみ出す魔物の顔がすぐ上にあるではないか。
まさに絶体絶命とはこのことだ。あの牙に噛みつかれたら、おそらく一溜まりもなかったことだろう。
「助けてくれ……」
私は心から懇願した。なぜ狼魔にいきなり狙われたのかなど考えるひまもない。理不尽な扱いに怒りを覚える余裕すらなかった。
「容赦ないなぁ、ヴォルフさんは」
そう言ったのは、私の隣に立っていたはずのエルフだった。
「容赦ないとは……」
「今さっき、侯爵のことをイヤらしい目で見てたでしょ?」
「馬鹿を言うな」
「見てましたよ。なにを考えていたんだか」
「別に変なことは考えてない。侯爵に胸があったらと思っていただけだ」
「ほら、やっぱり」
その程度のことでイヤらしいと言われるのは、私としてはとても不本意だった。けれど下手に反論をして、背中に乗る魔物を怒らせてはならないと思えるだけの冷静さは保っていた。
「侯爵、早く使い魔にご命令をお願いします」
「仕方ないなぁ。フェンリル、退くんだ」
侯爵の命令によって、私はようやく理不尽な暴力から解放されたのだった。
人生において冷静さを保つということは重要なことである。この時の私も、大人としての体面を崩さないよう細心の注意を払いゆっくり立ち上がると、上着についた土を払ったのち、「お気になさらずに、侯爵」と爽やかな笑顔を浮かべることに成功した。
ただしブルーというエルフは私が気に食わないようだった。メチャレフ軍がラシアールを攻撃したことを根に持っていたのだろう。この時も小馬鹿にするような口調で、「なんか色々残念ですよね」と意味の分からない批判をした。
幸いにもエルフの批判に乗ることなく、侯爵は何事もなかったような顔で、フクロウへの質問を再開した。きっと私の気遣いと落ち着き払った態度が良かったのだろう。
「で、フェンリルにその魔物を倒せと命令すればいいのか? それとも火山から追い払うだけでいいの?」
フクロウは、まだ私のそばにいた使い魔の背に乗っていた。今だから言うが、私はできるだけあの狼魔のそばから離れたいと思っていた。しかしこれ見よがしに逃げてしまえば、ふたたび侯爵に気を使わせてしまうと思い、大人としてその場に留まった。
『ワシはどちらでもかまわぬが、戦いが長引けば噴火の危険度が増すぞ』
「そいつ、強い?」
『さぁて、どうかのぉ。ゲオニクスに敵わぬ相手とは思えぬが。とりあえず夜まで待つべきじゃ。どうやら夜にはあまり活動していない様子じゃから、夜目が利かぬモノかもしれん』
「分かった、なら、夜までジュゼのところで待機するよ」
こうして我々は、森の入口に住むエルフ族の女の家まで行くことになったのだった』




