第49話 忍ぶ想い
遠くでだれかが泣いている。
叫ぶように激しく、忍ぶように切なく。
その声が暗闇を揺さぶって、眠ることを妨げる。
どうして泣いているのだろう?
その哀しみは、寄せる波のように。
遠くで泣くのはいったいだれなのだろう?
朝が来たらしい。
遠くで聞こえる小鳥の鳴き声が、止まっていた思考を少しだけ動かした。
永遠に朝など来なくてもよかったのに。心の中で愛しい過去が繰り返されるのなら。
愛しき者の懐かしい匂いを思い出し、ユーリィは手のひらにあるペンダントを握りしめた。
だれかが近くで名前を呼ぶ。
聞き覚えのある声だ。ゆっくりと顔を上げると、そこに哀しげな微笑みを浮かべる男が立っていた。
「……アルベルト?」
「お気づきになりましたか、良かったです」
少し疲れのある表情で、彼はベッドに座るユーリィを見下ろしている。以前に比べて貴族然とした印象があるのは、着ている服のためか。光沢のある水色の上着が、朝日に輝いていた。
「どうしてここに……?」
「早朝ここに到着した時に、シュウェルトに頼まれました。声をかけても貴方が反応をしないから心配なので見に行って欲しいと」
「声をかけた……僕に……?」
そんな記憶が全くない。
頭の中で繰り返していたのは、ヴォルフとの懐かしい想い出だった。
「そのペンダントは、まさか!?」
ユーリィの手元にあったそれに気づいたアルベルト・オーライン伯爵が、驚きの声を漏らした。
「開けられちゃったよ」
「いったい、だれに?」
「友達……だと思ってたやつ。ねぇ、アル、僕は気を狂わせるほど女々しい見た目をしているのか? もしそうなら、この顔に消えない傷を今すぐつける。二度とだれかの心かき乱さないように」
「そんなことをすれば、ヴォルフが悲しみますよ」
「そう……だね……」
不安を押し殺し、ユーリィは曖昧な返事をした。
もう会えないかもしれないという不安で、胸が張り裂けそうだ。大丈夫だと自分に言い聞かせても強くなるばかり。今すぐにでも彼がいるベルベ島へ行きたくて、どうしようもないほど辛かった。
「その友達だった人に、このペンダントのことを教えたのですか?」
「僕は言っていない。言ったとしたら、あの男だろう」
「ジョルバンニ氏が開けと? でもなぜ?」
「ヴォルフがいれば、僕の立場が悪くなるとでも言ったんだろうさ。それをあいつ、信じて……」
「そうですか」
返事とともにアルベルトの手がすっと手を伸びてきた。引き裂かれたシャツに彼も気づいたのだろう。ボタンの取れた胸元を、彼はさりげなく閉ざしてくれた。
その指がすっと首へと移動して、ある部分を何度か擦る。そこはラウロに吸いつかれた場所だった。
「これは……」
「なんでもない」
そう言って、ユーリィはその手を振り払った。
「その友達は無謀にも貴方に恋をして、ヴォルフを解放すれば貴方が手に入ると思った。そういうことでしょうか?」
「手に入るとは思ってたかどうかは知らない。強引に自分のものにしようとしたんだと思うけど。でもしなかった、できなかったのさ」
「どうしてそう思います?」
「僕を見れば分かるだろ」
あの時、力尽くで襲われていたら逃れられたかどうか。レネが起こしてくれたとしても、彼が続けていたら犯されていたかもしれない。それなのになぜか行為を止めて、彼は狙いをペンダントへと変更した。
「その友達には良心が残っていたんでしょうか?」
相変わらずアルベルトは心を読むのが上手い男だ。考えていたことを、まるで聞いたかのように彼はそう言った。
「さぁ、どうかな。これを開けたあとにもう一度襲うつもりだったのかもしれない。だけど僕に服を切り裂かれて、驚いて逃げたんじゃないのかな」
「では捕まえて罰しますか?」
「罰する? まさか」
そうするつもりなら、あの時そうしていた。剣を振るう瞬間までズタズタに切り裂いてやると、本気でそう思ったのだから。
けれどそうしなかったのは、やるせない気持ちが苦しくて、憎悪に堕ちるのが怖かった。ただそれだけだ。
「許すという意味ですか?」
「昔ヴォルフに婚約者を寝取られたアルは、あいつを心から許しているのか?」
その瞬間、アルベルト・オーライン伯爵は目を見開いて、ユーリィを凝視した。
嫌な過去を思い出せてやろうという意地の悪い気持ちではなかったけれど、ズケズケと追求している彼に内心では腹が立っていたのかもしれない。出来たばかりの傷が癒えるほど、まだ時間は経ってはいなかった。
「……そうですね、心のどこかにわだかまりが残っています」
「じゃあ、僕もそういうこと。でも友達っていうのは、恨んだり憎んだりしない相手なんだろ? 本にそう書いてあった。だから僕はそうしなかっただけ」
「ですが実行犯を罰せないのなら、首謀者も罰せられませんね」
「しかたないさ」
とはいえ、万が一ヴォルフが戻ってこなかったら、あの眼鏡だけは許すことができないかもしれない。
もしもヴォルフが戻ってこなかったら……。
その可能性に、ユーリィの怯えた心が悲鳴をあげた。
「そんな顔をしないでください」
「そんな顔って、どんな顔だよ」
「聞くところによると、ヴォルフはソフィニアにはいないとか。彼を探しに行かれるのですか?」
旅から戻ってきて一時間も経っていないだろうに、アルベルトの情報収集力には舌を巻く。それと同時に、必ずや彼を側近の一人に加えようとユーリィは考えた。
「行かないよ。あいつなら大丈夫さ」
「その根拠は?」
「だって僕はまだ狂っていない」
きっぱりと言い切って立ち上がると、手の中で鎖がさらりと揺れた。
「お強くなりましたね、ライネスク侯爵」
「嫌になるほど濃い人生だからね」
「それを聞いて安心しました。もしかしたら余計なことをしたのではないかと思っていたので」
「余計なこと?」
「自領地に行ったついでに、オーライン家と縁のある方々に挨拶をしてきました」
「へぇ、それで?」
怯えた心を強引に奥へと押し込めて、ユーリィはアルベルトの話を黙って聞き始めた。
その日からユーリィは精力的に働いた。
ギルド幹部の動きを逐一チェックして、不審な動きがないかどうかジョルバンニとアーリングそれぞれに報告をさせた。大きな動きはなかったが、少し気になるのは牢獄であるサロイド塔からククリがふたり逃げたということだ。だれが手引きしたのか、証拠が見つからなかった。
メチャレフとオーライン両伯爵には、軟禁状態の貴族たちを監視させた。無防備にのこのこやってきただけならいいが、裏でギルドと繋がっている可能性も捨てきれない。その件に関しては、エルネスタも手伝ってくれて、サロンと称して彼女が交流会を開いてくれるので、閉じ込められている不満は最小限に抑えられた。
三百人以上いる貴族名簿も作り直さなければならない。ギルドから提出されたそれは、あまり役には立たかった。そもそも貴族社会に疎いユーリィにとって、だれとだれが血縁関係にあるのかよく分からない。それもまたエルネスタらに手伝ってもらうことにした。
ベレーネクの遺児たちも厄介なことになっていた。いよいよカミルがおかしくなって、毎日暴れ回っているという。部屋も手がつけられないほどの荒れようで、メイドたちも逃げ出していた。しかたがなく下のふたりを引き離すと、ますます酷くなっていった。
とにかく時間との勝負だ。造反者が動き出す前に、曲がりなりにも体制を整えておかなければならない。歴史書を紐解いて、過去の実例を調べて建国の準備に必要なことも知りたかった。
「だれかが国を作ったと宣言して、皆が賛同すればそれでいいのではないでしょうか?」
アルベルトの意見は暢気なものだ。
「その“皆”がだれかということが問題なんだ。ソフィニアにはギルド都市にいる民衆、貴族とその領民、ラシアールなどのエルフが混在して、複雑だからね」
「セシャールなどはどうなんですか?」
「あそこはマルハンヌス教の総司祭が住んでいるから、神に宣言という形だったらしいね」
「他は?」
「元々あった国を倒して支配者が国を宣言したり、大昔になんとなく国になっていったり、様々だよ。むろん領土は戦争で大きくなったり小さくなったりしてるけど」
この宮殿にある本は二五〇年以前のものばかりで、古い文献を調べるには助かるが、二五〇年も経てば大陸情勢は変わっているので、役に立たないことも多かった。
建国をどうしたらいいかと悩むなど変な話だ。そもそもギルドとイワノフという両者がバランスを崩さず、大きな内部紛争もなく、二五〇年も政権を維持していたことは奇跡に近い。“ソフィニア人は事なかれ主義”と言われるが、その気質が幸いしたのだとユーリィは思った。
「フェンロンは革命からの建国ですよね。もっともソフィニアもフェンロンも国ではないのですが。なぜフェンロン国やソフィニア国を作らなかったのでしょう?」
「アルベルトは知らないのか?」
大きく首を横に振るのを見て、ユーリィはつい得意になってその説明をした。
ギルドを中心にしたフェンロンとソフィニアが国としないのは、たとえ他国の者であっても加入すればギルドに所属できるという制度があるためだ。一見どうという制度ではないように思えるが、これは武力を使わない侵略だ。実際フェンロンはその方法で隣国の半分を乗っ取っている。ソフィニアもそれを模そうとしたらしいが、旧貴族の抵抗もあり、中途半端な専制支配になってしまっていた。
「なるほど、そういう理由でしたか。ですが建国をしたらギルドの権力を剥奪するんですよね?」
「組織は残す。ただし貴族とギルドに上下関係は作らない」
「その上に皇帝、つまり貴方が立つということですか」
「僕とは限らないさ」
「そうであることを祈りますよ。そういえばあと五日でお誕生日ですね。きっとそれまでにヴォルフも戻ってくるでしょう」
あとで考えると、アルベルトがギルドについて知らないはずがないとユーリィは気がついた。あれは彼なりの気遣いだったに違いない。
そんなこんなで目まぐるしく時が過ぎ、気がつけばあの事件から三日が経っていた。
忙しい時間は余計なことを考えなくて済むからちょうどいい。願いを込めてふたたび提げた空のペンダントの、その冷たさを感じずにいられるのが有りがたかった。
その三日目の昼すこし前、執務室にて各方面に送る親書を作成していると、ふとエルネスタの声が聞こえてきた。
「ねぇ、聞こえる?」
彼女は窓際の小さなテーブルで、貴族名簿の草稿を作成していた。どうやら何度か呼ばれていたらしい。集中しすぎると、周りが見えなくなるのは自分の悪い癖だと分かっているので、ユーリィは素直に謝った。
「謝ることはないわ。区切りついたら昼食にしましょうって言っただけですもの」
室内にはだれもいないせいか、彼女の言葉遣いはとても砕けている。
「んー、あんまり食欲がないから」
「無理をしていると皆が心配しているわ」
「無理? そんなことないよ」
「ここ二日寝ていないってオーライン伯爵がおっしゃっているけど、本当?」
「寝てるよ、たぶんだけど」
寝てしまえば夢を見る。決まってヴォルフが消える夢だ。それが見たくなくて限界まで起きていた。だから昨日も一昨日も気がつけば朝で、寝たような感じはしなかった。
「顔色がとっても悪いわ」
「気が重いことばかりだから、そのせいじゃないかな」
「私、役に立っているかしら?」
「凄く助かっているよ」
魔物襲来からすでに三ヶ月が経過している。にもかかわらずエルネスタ以外に、中央政権であるギルドに協力を申し出てきた貴族は一人もいなかったし、混乱に乗じて独裁支配を打って出る者も現れなかった。
(ま、それだからこそ、今のところやりやすいんだけどね)
戦いはしないのに超したことはない。このままなにも起こらずに、すんなりとことが運ぶなら楽なことだ。案外そうなるかもしれないと心の中で楽観的予測をしていると、すぐ近くに視線を感じた。顔を上げると、琥珀色の大きな瞳とぶつかる。気がつけばエルネスタは机の向こう側に立ち、ユーリィを見下ろしていた。
「え、なに?」
「そうやって、内に籠もるのは悪い癖ね」
「あ、うん、よく言われる」
「皇帝陛下、あまり根を詰めると臣下が心配されますよ」
「ちょっ……」
絶句した様子が可笑しかったのか、エルネスタはケラケラと笑って見せた。
しかしすぐに真顔に戻って、戸惑うような表情になる。それは明朗な彼女にしては珍しいことだった。
あまりに沈黙が続くので、ユーリィの方が先に焦れて話しかけた。
「なにか心配事でも?」
「ううん、違うの。言おうかどうしようか迷ってしまって……」
「なにを?」
「いいわ、やっぱり言う。あのね、もしも貴方が皇帝となった時、私をずっとおそばにおいてくださらない?」
「それはどういう……」
言いかけた時、彼女の顔がほんのりと赤く染まるのを見て、ユーリィは息が詰まるほど驚いた。まさかエルネスタからそんな申し出をしてくるなど考えてもいなかった。彼女はヴォルフのことを知っているはずなのに。
「悪いけど、僕は……」
「分かってる。グラハンスさんがいるって言いたいんでしょ? でも皇帝になったら、それが公に許されるとは思えないわ。だって私たち、一応マルハンヌス信者ですもの」
「信仰心が厚い人はあんまりいないけどね」
「ええ、そうね。でもセシャールやその他の国に知られてしまうのは、困るでしょう?」
「だからと言って君と……」
「そうね、やっぱり迷惑よね」
本当にガッカリした表情をした彼女を見て、ユーリィはどうしていいか分からなかった。今まで一度たりとも異性からそういう話をされたことがなかったから、ある意味、ちょっとは喜ばしいとは思いつつ、かといってそれとこれとは別だ。それにエルナが自分に恋愛感情を抱いているとは、これっぽっちも思わなかった。
「迷惑とかそういうことじゃなく。あのさ、僕がエルフの血が濃いのは分かるよね?」
「ええ」
ユーリィは自分にある秘密を正直に告白した。母親が“虚弱なキメラ”である可能性が高いこと。自分自身にも人間として、年齢に見合った成長がないこと。そして生殖能力がないということ。女性に話すにはかなりきわどい内容だったが、彼女は顔色ひとつ変えないで、黙ってそれを聞いていた。
「皇帝という座に僕が就かないかもしれないと言っているのは、逃げているからじゃない。僕が死んだあと、ふたたび権力争いが起こるのが嫌なんだ」
「エルフだから成長が遅いということではなく?」
「そうかもしれないけど。どっちにしても僕は君を愛せない、絶対に。だから君は相応しい相手を見つけるべきだ」
「そう……」
その話は打ち切りというように、ユーリィは書面に視線を落とした。けれど内心はぞわぞわとして落ち着かなかった。たぶん新たな火種ができたと感じてしまったからだろう。
メチャレフ伯爵に手紙が届いたのはその日の午後だった。領地に残る奥方が急病で、あまり芳しくない容体だという。伯爵は大慌てで帰り支度をして、夕方前には出立の準備を終わらせていた。
宮殿前に見送りに出た数十人が並ぶ。留置している貴族たち、アーリング士爵一派などだ。老人はそれぞれに形通りの挨拶を済ませ、馬車で待っていたユーリィの前で立ち止まり、いつも通り威圧的な目で見下ろした。
「清清すると顔に書いてあるな」
「そんなことはありませんよ、伯爵」
ユーリィは心からそう言った。好意という感情かどうかは分からないが、名残惜しさが心にある。できるならもうしばらくそばにいて欲しいと感じていた。
「やっぱりラシアールに魔物で送らせ……」
「冗談じゃない。わしに死ねと言うつもりか」
瞬間で怒りを露わにした老人だったが、すぐにそれを収めて、口の端を少しだけ歪めて笑みらしきものを浮かべた。
「概ね、そなたは上手くやっておるよ。まだ若いゆえ、至らぬことも多いが、アーリングやその他の者の力を借りれば良い」
「ええ、そうするつもりです」
「しかし上手くいっているのは、そなたの力ばかりではないぞ。ここソフィニアの街は安定してきたが、各地では混乱に乗じた略奪が横行し、山賊の征伐に辛苦していると聞く。皆、他のことなどかまう余裕がないだけなのだよ」
「ええ、分かっています」
ユーリィは心の中で伯爵の言葉をかみしめた。まだ始まったばかりなのだと。この先、いくつかの困難がきっと来る。その前に周囲だけでも整えておきたかった。
「早急に人選し、各地に使者を出すのだ。裏で繋がっていたら厄介だぞ。いや、もう繋がって、反乱の準備を着々と進めていると考えた方がいい」
むろんその懸念はしていたものの、この街を安定させることを優先させてしまっていた。のちにその後手がユーリィを悔やませることになるのだが、この時はまだ深刻には考えてはいなかった。
必ずそうすると答え、ユーリィは大きくうなずいた。
「さてそろそろ出立するか」
「城まで騎兵隊に送らせるように手配してあります。ですが、くれぐれもお気をつけてください、メチャレフ伯爵」
そう言って手を出したユーリィの頭を、まるで幼児にするように伯爵はその分厚い手で撫で回した。
「生意気だが、そなたは良い子だ。ウラジミールは気に喰わぬ男だったが、そなたを世継ぎとして拾い上げたことは評価しよう。むしろ、わしの子であったらと思うこともある。本当に残念だよ」
そして老人は、待機する四頭引きの馬車へと消えていった。
メチャレフの言葉は、ユーリィを少しだけ温かい気分にさせてくれた。再会したらもう少し気遣おう。腹を割って話そう。もし孫だったら良かったのにと言ったら、歳から考えれば親子というのは無理があると言ったら、やっぱり怒るだろうか?
馬車はゆっくりと正門を抜けていく。去っていく者にそこはかとない哀愁を覚えずにはいられない。同時に、戻ってこない者を思うと言い知れぬ不安に襲われた。
会いたい、早く会いたい、今すぐに。
会いたい会いたい会いたいと、だれかが泣いている。
むせび泣くその声は闇を濡らすほど、次第に大きくなっていく。
会いたい、会いたい、会いたい、会いたい__。
ああ、意識が共鳴し始めている。




