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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第二章 冬霞
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第48話 消えゆく魂

 自分がだれだか忘れてしまった。

 ここが何処であるかも気にならない。

 深淵の中で時折見える光景は、ただ、ただ煩わしい。

 空、雪、水、竜。

 それらが目まぐるしく動く様になんの意味があるというのか。

 ここは心地良い闇の中。

 ああ、溶けてしまえとだれかが囁く。





 青年がその扉の前に移動してから、かなりの時が経っていた。まだどこかに残っている道徳心が最後の抵抗をしている。ここを開けてしまえば、神に許されぬ者になってしまう。それは確かに恐ろしいことではあった。

 首を巡らせ、青年は背後にある(あるじ)のいない広い部屋を見渡した。

 暖炉に残る小さな炎と、片隅のランプが一つ、闇を踊らせている。ゆらゆらと__心のようにゆらゆらと__。

 その時、炭化しかけた薪が一つ落下して、乾いた音を微かに響かせた。

 暗い暖炉に、暗い心に火の粉が散る。青年はおもむろにズボンのポケットに手を入れて、中から真鍮の鍵を引っ張り出した。その合い鍵は、数日前に渡された奈落への道しるべ。ためらいはたった今、火の粉が燃やしてしまった。

 恐れを拭い、鍵穴に差し入れて軽くひねっただけで、奈落は軋むことなく開かれた。素早く身を滑らせた青年は、後ろ手に扉を閉めて、薄闇の中に白く浮かぶベッドを見た。

 鼓動が高まる。緊張で指が震える。まだ爪先には迷いが残っている。深い息を一つ吐き出して、彼は必死に気を静めた。

 一歩また一歩、踏み出すごとに沈めたはずの鼓動が激しく波打つ。けれどもう止められないことを彼は悟っていた。

 微かな寝息が聞こえる。

 回り込むようにしてベッドの横に立ち、その中を覗き込むと__

 ああ、なんと麗しい!

 心の中で彼はそう叫んでいた。

 闇にも染まらない白肌、薄い光にすら艶めく唇。触れたいと指先が疼き、その乾いた欲望に急かされて、青年はその頬に手のひらを滑らせた。

 逃れるように首を動く。さらりと流れた前髪が理性をすべて消し去っていく。

 起こしてしまうことも(いと)わず顔を近づける。劣情が止まらなかった。しかし唇を重ねようとした途端、どこからともなく突風が吹いてきて、青年を驚かせた。


「えっ、なに!?」


 咄嗟に出てしまった声に麗しき少年が目を覚ます。その次の瞬間の抵抗は凄まじかった。

 首が激しく動く。両腕で突き上げられる。両足がのたうち回る。けれど非力な少年になにが出来ようか。


「よせ!」


 その言葉を無視し、青年はその両腕を捕らえて頭の上に押さえ込んだ。


「もう止められません」

「とにかく落ち着け」

「貴方が悪い。貴方が俺を堕としていく。本当に好きで好きで、気が狂いそうなんです」


 その言葉通り、青年は狂ったように細い首に吸いついた。僅かにする甘い香りが鼻をくすぐり、その刺激に青年の狂気が全身に燃え広がる。唇を這わせ、舌で舐め、蜜を吸う虫の如く。


「それ以上すると、殺す……」

「貴方を手に入れたら、俺は殺されてもいい」

「体だけ手に入れて、なんの意味があるんだよ!?」

「心は手に入らないけれど、」


 沈んだ自分の声を聞きながら、青年は昨夜のことを思い出していた。


『僕たちはね、運命の鎖で繋がれているんだ』


 そう彼は言った。

 せめてその鎖だけでも引き千切りたい。王となる者を縛る足枷は外すべきだというあの男の言葉が、今の青年にとっての唯一のより所であった。


「俺が貴方を解放します」


 これは偽善ではない。自己犠牲だ。

 抵抗する無力な腕から両手を離し、素早くシャツの胸元を引き裂いた。一つボタンが飛んで、白い肌が露出する。きらりと光った銀色の鎖に指をかけると、それに気づいた少年が「やめろ!」と悲鳴をあげた。それを無視して、力任せに引き千切る。ペンダントヘッドが弧を描いて宙へと浮いた。


「返せ!!」


 飛びかかってきた少年に押され、彼とともに青年はベッドから転げ落ちた。その反動で鎖がするりと手から抜け、後方へと飛んでいく。


「くそっ」


 ペンダントを追って、少年は四つ這いのまま行こうとしていた。慌ててその細い足首を掴むと、彼は蹴るようにして足を動かす。


「放せよ!」

「貴方を救うためです」


 ペンダントは椅子の下に落ちているのを確認し、掴んでいた足首を引く。その反動で半身起こして、打ちつけた背中の痛みに耐えながら、床を蹴って前に出た。少年がすがりついてくるのを振り払い、さらに前に出る。

 そのまま二人で絡み合い、もつれ合い、ペンダントを求めて床を転げながら移動して、それを先に手にした青年は、頭上高くそれを掲げた。


「やめろーーーっ!!」


 悲鳴を上げて、少年が垂れた鎖に手を伸ばす。

 その声が胸を突き刺したが、もう後戻りは出来なかった。これは彼の為なんだと、青年は己に言い聞かせ、「天子に神のご加護を!」と叫んで、留め金に引っかけた指に力を入れる。

 次の瞬間、強烈な青白い光が辺りに広がった。

 その眩しさに驚き、手の中に軽い反動を感じ、鎖を下から引っ張られ、青年はその場に尻餅をついていた。

 やがて視界を奪った光は急速に収縮し始める。拳ほどの大きさになると、流れるように斜め上へと移動して、天窓のガラスをすり抜け、星空の彼方へと飛んでいった。

 呆然とそれを眺めていた青年は、頭上にまだ一つ残っているのに気がついた。

 淡くて弱い小さな光。まるで陽炎のようにゆらゆらと揺らぎ、ゆっくりと少年のもとへと落ちてくる。

 震える両手を彼が差し伸べると、その手のひらで光は僅かに輝き、そして消えていった。


「ヴォルフ!」


 闇が戻った室内に、哀しみに満ちた声が響く。親とはぐれた子猫の鳴き声よりも、それは悲痛なものだった。

 これで本当に良かったのだろうか。

 捨てたはずの良心が、青年の心に徐々に蘇り、胸を締めつける。“これでいいんだ”といくら言い聞かせても、良心からの叱責は止まらなかった。


「貴方のために俺は……」

「うるさい、黙れ!」


 叫び声の中にあるのは憎しみ、そして怒り。それだけでは足りないとばかりに、少年はベッドに駆け寄ると、サイドテーブルにあった短剣を握りしめた。


「望み通り、お前を殺す」


 振り上げた剣が一陣の風を巻き起こし、軍服の袖を切り裂いた。

 間違いなく殺されるのだろう。反逆者にはある未来は死刑のみ。主君を裏切った者への慈悲は、たとえ神だろうとお与えになるはずがない。

 それでもいいと青年は覚悟した。

 しかし__


「二度と……僕の前に顔を見せるな……」


 静かに剣を下げる少年の姿を見て、殺されるよりも辛い慈悲を与えられたのだと青年は知った。





 意識と呼ぶものが消えかけている。

 だれでもない自分はもうすぐ消えるらしい。

 先にあるのは死なのか、それとも無なのか。

 怖くはない。

 怖くはないはずなのに、内にあるなにかが泣いていた。

 哀しげに泣いているこれは自分なのだろうか?

 その声がなぜかとても愛おしかった。


この話でラウロはしばらく退場。再登場は次の章になると思います。

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