第45話 山崩れ
ここは何処だろう?
白が六角形の光を放ち、影に紛れた青が飛び散っている。
ここは何処だろう?
意識の遙か向こうでなにかが起こっている、それは分かる。
けれど自分は何者なのか、それが分からない。
激しいものが体の内側から這い出しているというのに。現実なのか夢なのかも分からない。流れる景色が、時々意識の中に入ってくる。
いったいここは何処だろう?
地平線が斜めに傾斜して、白亜の連峰が縦に折り重なっている。
だれかが遠くでなにか言っているようだ――調和を乱すなかれと。
調和?
光が色を生み出し、音が意識を象っているこの世界は、何処なのだろう?
フクロウは留まる場所を探すように、宙で数回輪を描いて飛んでいたが、やがて雪が降り積もる大地へと降り立った。それを見て黒髪のエルフが小さく肩をすぼめる。彼は決して自分の肩に留まれとは言わなかった。
「いつまで続くんですかねぇ」
エルフが心細げにぽつりと呟くと、息が白い煙となり、暗くなりつつある辺りに散った。
寒さを凌ごうとしてか、彼はコートの襟を立て、首を引っ込めている。両手はむろんポケットの中だ。足が冷たいのか絶えず足踏みをしていた。
『さぁて、いつになるやら』
「まさかと思うけど、ひと月なんてことはないでしょうね? あんな戦闘をしていたら、そのうち山のひとつやふたつ壊れそうですよ」
『すでに頂のいくつかは消えているのではないか?』
エルフは“うへっ”と言って、顎までコートの中へと押し込めた。
しばらくすると、ちらちら白いものが舞い始めた。彼は視線を上げ、空を眺める。しかし雲に覆われた空は星どころか、あるはずの山脈の尾根すら全く見えなかった。
「行って、助けた方がいいっすかね?」
『あの人間の試練じゃ、ワシらにはどうにもならぬ』
「試練? ていうか、あの竜みたいなのは、なんでいきなり攻撃してきたんっすか? あれじゃホントに魔物みたいだ」
そう言いながら、彼はちらりと傍らで体を丸めているムカデを見た。
「ワーニング、悪いね。もう少し辛抱してくれよ」
彼が声をかけると、ムカデは足をいくつか動かし返事をした。
『そなたが言っておったろう、神のようだと。もしもそんなモノがいるとしたら、確かにあれは神かもしれぬな』
「どういうことっすか?」
『あのモノはこの世界の調和じゃ』
「はぁ」
曖昧な返事とともに、エルフは困った表情ではしばみ色をした瞳を左右に揺らした。
『分からぬと言った顔じゃの?』
「ええ、さっぱり」
『ワシは大地を司っていると言うたのぉ? それは数万年前この地に芽生えた草木とともに生まれ出たワシは、大地を守ることによりワシ自身の存在も守っているだけのことじゃ。しかしあのモノは、この星の、この世界の一部なのじゃ』
「うーん、分かったような分からないような……。でもなんで戦いを?」
『調和じゃよ。この世界の調和を崩す異物を排除しようとしているだけじゃ。魔を内に宿すあの人間は、今まで存在しておらぬモノであるからのぉ』
エルフはフクロウの言葉を必死に考えているようで、いつになく真剣な表情で宙を睨んでいた。
しばらくそうして考え込んでいた彼だったが、最終的に諦めたようだ。小さなため息で、降参の意思を表した。
「魔を内に宿すって言うけど、ワーニングみたいな魔物もいるし、俺も魔力を持ってるし、リュット様だってフクロウと同化してるじゃないっすか?」
『ワシは同化しているわけじゃないぞ。この鳥の体を間借りしているだけじゃ。ここに存在する魔物どもは、星を破壊するほどの力を持たぬ。そしてエルフは、数万年にあのモノと対峙を済ませ、すでに異物ではなくなっておる』
「そんな話、初めて聞きました。へぇ……。ってことは戦うと異物でなくなる?」
『事はそう簡単ではないのじゃよ。ゲオニクス――ではなくフェンリルか、どうも昔の呼び名の方がしっくりくるが――は、時を駆けることができる魔獣じゃ。そのフェンリルもそして人間も、この星にとってはかなり危うい存在じゃからのぉ、同化を許すのかどうか微妙なところじゃな』
「人間が星にとって危うい存在って?」
しかしフクロウはそれには答えず、ただホーホーと鳴いた。
その声が寂しく響き、岩と雪が静かに受け止めた。
『あのモノが異物を排除するか、それとも存在を許すものに作り替えるか、ワシにも分からぬ』
「でも以前、リュット様はヴォルフさんにゆっくりと同化できるっておっしゃってましたよね? もしもそうなった場合も今みたいに戦いになったんですか?」
『残念ながらワシは、エルフや人間とともに長く居すぎたようじゃ。嘘というものを覚えてしまったからの』
「嘘……」
『人間の魂は、若木が樹木になるほどの時間も持たぬ』
「つまりヴォルフさんの魂が生きてる間では、同化は無理だったって意味ですか? だけど……」
エルフはしつこいぐらいに食い下がった。その瞳は、この世の真理を知りたいという好奇心というよりも、憂うような悲しげな光を帯びていた。
「だけどフェンリルはヴォルフさんと同化する為に未来から来たんですよね? だから未来的に言えば、ヴォルフさんが同化してるってことですよね?」
『未来か……』
フクロウは首だけを二度三度と左右に振り、周囲を眺め始める。昼間に溶けていた雪が、近くの大岩をふたたび白に染めようとしていた。
やがて茶色の猛禽は跳ねるように舞い、その大岩に飛び乗るともう一度辺りを見渡した。
黄色いくちばしがやや後ろに行った時、丸い双眸が強く光る。次の瞬間、少し離れた場所にある岩壁の一部が、はがれ落ちた。
落下した岩はもろくも崩れ、まるで散乱した積み木のように石となり、岩屑となり、崖下に散らばる。そればかりか細かな破片が飛散して、驚いたエルフは数歩後退した。
「わっ!? なにごと!?」
『ゲオニクスが未来を変える力など、この程度のものじゃ。山を壊すほどの力はない』
「なるほど……」
『もう一体のゲオニクスが、なぜ過去に来たのかはワシにも分からぬ。未来を変える為か、それとも未来を守る為か。少なくとも、内にあの人間を感じさせるものは僅かしかなかった』
「要するに、リュット様にもどうなるか分からないってことっすね? ってか、それを言う為だけに、こんな大げさなことをしたんっすか!?」
『悪いか? 暇なんじゃ』
「あぁ、まあ、そうっすね」
呆れたような表情で、エルフは片手をポケットから出し、鼻を擦った。
『問題は、あの人間の魂が非常に弱いということじゃ』
「侯爵が半分持っているから?」
『それもあるが、一度死にかけたということが最大の理由じゃな。人間の姿をしている時は、ゲオニクスから力を借りているからいいが、ゲオニクスが戦いに力を使えば、ますます弱くなり、悪くすれば消えてしまうかもしれぬ』
「まさか、あの竜はそれを狙って……」
『強い意志が必要なんじゃよ』
「ヴォルフさんが侯爵のことを忘れるはずがないですよ、絶対に」
力強く断言したわりに、エルフの瞳には不安げな色が浮かんでいた。
ここは何処だろう?
とても大切ななにかがあるはずなのに。
なぜ景色はこんなにも早く動いているんだろう?
ああ、星が流れていく。
今壊れたのは山だろうか?
丘だろうか?
ここはいったい何処だろう?




