第43話 宮殿に咲く花
謁見の間と呼ばれる部屋は、華美な装飾が施されている。大昔は芸術家と呼ばれる者たちのサロンとして使用されていたからだそうだ。置かれている家具もシャンデリアも壁紙も天井画も豪華すぎて、ユーリィの居心地悪さを助長させた。
芸術も芸術家も好きじゃない。嫌な過去を思い出させてくれるから。酒の匂いとタバコの煙の中で、半エルフの子どもを裸にしてゲラゲラ笑っている連中。貴族の次男三男がほとんどだったが、彼らは今なにをしているのだろう。あの戦いで死んでしまっただろうか。
それが嬉しいとは思わないけれど……。
強い風に窓が鳴り、現実へと引き戻される。あまり思い出したくない過去だから、ちょうど良かった。
客人が待っていると伝令を受けて、ユーリィがこの部屋に来たのは少し前だ。室内には従者ひとりとジョルバンニしかいなかった。いったいだれを待っているのだとジョルバンニに尋ねても、彼は「お待ち下さい」と言うばかり。しかたなく応接セットのソファに座り、嫌な記憶が蘇るのを食い止めているというわけだった。
ジョルバンニとは昨日の一件以降、ほとんどしゃべっていない。今も説明などするものかと意固地になっているように、なにも説明をしなかった。
アーリングらと個別に話したことには警戒しているのだろうか?
しかし正直なところ、彼らとはこれと言って重要な話はしなかった。
まだ体制を意のままに動かせるほどの力を持っているわけではない。向こうもこちらの意志を探っているという雰囲気だった。
もしもソフィニアのすべてを掌握すると宣言したら彼らがどう動くのか、それを推し量る会話すらなかった。
『貴方は今後どうするおつもりですか?』
あの短い会談の中で、アーリングから何度もそう尋ねられた。
『野心を持つのだ、ユリアーナ』
一昨日と同じ言葉をメチャレフ伯爵から投げつけられた。
『部屋を飾るタペストリーはやはり美しい物に限りますからな』
呼びつけたギルド幹部のひとり ――確かバチェックという名前だった―― が作り笑いを浮かべて言ったセリフだ。
(僕ひとりでは、奴らに対応するのもなかなか厳しいな……)
協力を仰げそうなアルベルトは未だ戻ってこなかった。
もう一度、横目でジョルバンニを見る。そばに立っている彼は、相変わらずの無表情で腕を後ろに組み、宙を眺めていた。
その時、同じリズムで小刻みに三回、扉が叩かれた。
ジョルバンニが小さくうなずくと、それに反応して控えていた従者が背筋を伸ばし、出迎えに行く。扉越しにひと言ふた言会話が交わされ、やがて両開きの片方がゆっくりと内側に開け放たれた。
その瞬間、ユーリィは“あっ”と心で呟いていた。無意識に腰を上げ、現れたその相手を漠然と眺めていた。
ハニーブラウンの髪を、肩まで垂らした少女。いや、少女と呼ぶべきではないかもしれない。小花が咲いたような可憐さは昔のままだが、以前よりずっと大人びている。くりくりっとした琥珀色の大きな瞳が放つ光には、意志の強さを感じさせた。しっかりと結ばれた紅色の唇も、少々高い頬骨も、その印象を強めている。ズボンを履いている姿や、軍服のような黒いジャケットを着ている姿も見たことがあるが、ドレス姿の今が一番凜々しく感じられた。
艶のある深緑のドレスだ。スカートの後ろが大きく膨らんでいる。貴族の子女が好んで着るものだが、ドレスも含めて衣服には興味のないユーリィには、なんていうスタイルなのか分からなかった。
気高い雰囲気を漂わせて彼女は上品にスカートをつまみ、ゆったりとした足取りで近づいてきた。銀の髪飾りに付いた緑色の宝石が小さく揺れる。
ユーリィの前に立った彼女、エルネスタ・リマンスキー嬢は穏やかに微笑むと、以前キュロットスカートでした時よりもずっと優雅に、カーテシーで挨拶をした。
「お久しぶりでございます、ライネスク侯爵」
靴のヒールのせいで目線が高くなったそんな彼女に、ユーリィはどういう表情を作っていいのか分からず、戸惑っていた。
「いつぞやはとても無礼な態度を取ってしまい、心からお詫び申し上げます」
「や……」
いつぞやとは、魔物襲来の首謀者だと誤解を受けたユーリィに、敵愾心むき出しで対応した時のことだった。
「本当は心配して下さっていたのだと気づくのが遅すぎました。本当にごめんなさい」
「え……」
「それと、このたびはご招待にあずかり、誠にありがとうございます」
「あ……」
すると薄かったエルネスタの微笑みが満面に広がって、昔と変わらぬ愛嬌のある表情となった。
「侯爵はやはりお変わりになってなかったのですね。だって初めてご挨拶した時と同じお顔をされてますもの。照れて真っ赤になられて、まるで可愛らしい少女みたいに」
いつもなら腹が立つ言葉にも、恥ずかしさがこみ上げる。エルネスタと話すとどうも調子が狂うとユーリィは思っていた。
「お待たせしてしまったようで、本当に申し訳ありません。少々支度に手間取ってしまいまして」
「いえ、女性を待つのは、当然の礼儀ですから。とりあえず掛けて下さい」
「ありがとうございます」
向かいにある二人掛けソファに楚々として座るエルネスタを見てから、ユーリィも腰を下ろす。ふたりの間は、天板の下に花柄のレリーフが施された白いテーブルが占めていた。
それにしても見事な変身ぶりだ。粗放にベッドに座ったあのお転婆な少女は消えてしまったのだろうか。むろん貴族の子女として、礼儀作法は厳しく教育されているだろうが、それでもユーリィはなぜか物足りなさを感じた。
一呼吸おいて、社交辞令的会話を切り出す。今はもう、お互いに公人として振る舞う程度の関係になってしまったのだ。そう諦めることした。
「貴女が噂になっていると聞きました。領民のだれひとりとして魔物の餌食にしなかった、才気ある女性だと」
「領地が小さく、領民の数もそれほどいませんから。一番に守るべきものはなにか、それを考えた結果ですわ」
「危機的状況にあっても、そう考えられる貴族が少ないということでしょう」
「それは悲しいことです」
「そうかもしれませんね」
エルナと呼んでいた彼女は、生まれて初めて会話を交わした同世代の異性だった。たぶんそのせいかもしれない。たとえ形式的な会話であっても、ヴォルフに対するような気持ちとはまた違う、そこはかとない安堵感がある。想い出の中にいる彼女は、いつだって明るく、そして温かだった。
「少しお痩せになりましたね、侯爵」
「痩せているのは前からですから」
「そういえば……」
エルネスタはチラリと扉の方を見やると、
「廊下に控えていたのは、もしかして世話係と水差し係でしょうか?」
「ああ、はい」
偉くもないのに大層なと、なじられるのかとユーリィは身構えた。
しかし彼女はちょっと首を傾げると、
「ずいぶんと古めかしい仕来りに従っていらっしゃるのですね」
「それは……」
「この宮殿においては、旧体制を執ることに意味があるのですよ、エルネスタ様」
それまで黙ってユーリィの後ろに控えていたジョルバンニが、唐突に割って入った。エルナは驚きの気持ちを隠しもせず、
「貴方はギルドの方?」
「不躾に失礼いたしました。私はライネスク侯爵の補佐役としてギルドから参っている、セグラス・ジョルバンニと申します。お見知りおきを」
「それで、旧体制を執ることに意味があるというのは、つまり?」
「侯爵がこの宮殿に相応しき方だと知らしめる為です」
「知らしめる? だれに?」
「兵士と、民衆と、そして貴族の方々ですね」
「ああ、そうでしたか」
答えを聞いた途端ジョルバンニには興味を失ったのか、エルナは琥珀色の瞳をふたたびユーリィへと戻した。
「リカルド・フォーエンベルガー伯爵がご結婚なさるという話はご存じですか?」
「らしいですね」
「あのふたりがそういうご関係だということは存じていましたが……」
乙女らしく恥じらうように、エルナは少し目を伏せた。
ユーリィもまた、ヴォルフと体の関係を持ってしまったことを見透かされたような気がして、少々面映ゆい気分になった。
「ま、まあ、色々ありましたが、今となっては良い想い出です」
「ええ、そうですね……、もちろん、そう思いますわ」
「あの双子は元気ですか?」
「やんちゃ盛りで、両親も手を焼いているようですわ」
「ああ、そうですか」
「長男も戻ってきたようですし」
意味深な表情をしたエルナの瞳を見て、居心地悪さも大きくなった。過去の遺物である華美な部屋で、あの日々を思い出すのは空しすぎる。
彼女もきっと、もう友としては見てくれないのだから。
「そういえば、リマンスキー家も、家畜は大変な被害にあったそうですね」
「すべての家畜が死んだわけではないのですが、領民の半分は畜産を生業にしていましたので。領民たちにはしばらく我慢を強いることになるでしょうし、一年は税金も免除する予定です」
「御心労、お察しします」
「お気遣いありがとうございます。ですが、多かれ少なかれ、他の方々もご苦労をされているので、不平ばかり言ってはいられませんわ。幸いなことに叔父が助かりましたので、幼い弟に代わって、しばらく領地の面倒を見てもらえることになりました」
「もしもそのようにお決めなら、すぐにギルドに申請をお出しください、エルネスタ様」
間髪入れず、ジョルバンニが口を挟んだ。
さぞや厳しい表情をしているだろうと、ユーリィは後ろ斜めにいる者を盗み見る。次の瞬間、薄笑いしかできないのだと思っていた男の満面の笑みに、仰け反るほど驚いた。
「ええ、そうしますわ」
「エルネスタ様もさぞやお疲れでしょう。もし宜しければ、しばらく宮殿にご滞在なされたらいかがでしょうか?」
「ジョルバンニ、余計なことを言うな」
エルナの顔色を窺いながら、ユーリィは慌ててジョルバンニを止めた。さすがに彼女も嫌がるだろうと想像したのだが、しかし__
「あら、それは嬉しいですわ」
「……え!?」
「実は私の方からお願いしようかと思っていたところです。だって、あまりにも侯爵のお顔色が悪いんですもの。大してお役に立てないかもしれませんが……」
「滅相もない。貴方のように心穏やかな女性が、侯爵のおそばにいてくださるのなら安心です」
「従者は帰しますが、侍女ふたりは残しておいても宜しいかしら?」
「どちらもお残しになって結構です。従者用の部屋はいくらでもありますので」
「ありがとうございます」
「ちょ、ちょっと待って」
ふたりの会話を呆気にとられて聞いていたユーリィは、ようやく我に返った。
「彼女にそんなことさせない。これは命令だ、ジョルバンニ」
「私がそうしたいと言っているのに?」
「ソフィニアはまだ不安定な情勢ですから、万が一のことがあったら……」
「ぜひ、おそばにいさせてください、ライネスク侯爵」
「ですが僕は……」
ヴォルフの存在をエルナも知っているだろうに。まさか妙な期待をしているのだろうか? だとしたら、その可能性はないときっぱり否定したいユーリィだったが、さすがに従者もいる部屋で公言するのは憚った。
言葉で責められるよりもずっと、嫌な雰囲気が室内に漂っている。琥珀色の瞳に期待に満ちた光が宿っていることが、はっきり見て取れた。後頭部にはジョルバンニの視線を痛いほど感じ、部屋の隅で宙を眺めて控える従者は、明日の朝には噂の根源となりそうだった。それを覆す言葉を探してみたが、思いつく前にジョルバンニが決定的なひと言を発していた。
「侯爵、女性にそこまでおっしゃっていただいて、お断りになるわけではありませんな?」
「どうかお願いします、侯爵」
「いや、でも……」
なんとしてでも阻止すべきとは思ったが、説得力のある理由が見つからない。困り果て、こうなったら“迷惑”という言葉を使ってでも止めようとユーリィが口を開きかけた矢先、エルナの視線がスッと移動した。
「ジョルバンニさん、お願いがあります」
「なんでしょう、お嬢様?」
「今から少しだけ、ふたりだけにしていただけませんか? 侯爵もきっと体面をお気になされているのでしょうから」
「そうじゃなくて……」
「ああ、なるほど。分かりました。ではしばらく我々はご遠慮しましょう」
「ありがとうございます」
本人の意志など全く無視されたやり取りがかわされたかと思ったら、ジョルバンニは従者を伴い、そそくさと部屋と出て行ってしまった。
「あー、疲れた」
閉じられた扉をしばし眺めていたユーリィは、いきなり聞こえてきたその言葉にギョッとなった。
振り返れば、先ほどまで姿勢良く腰掛けていたエルナが、ドレスの裾も気にせず、ソファを背もたれに寄りかかっていた。
「……え?」
「あの人に上品な女性って言われた時、思わず吹き出しそうになるのを我慢するのが大変だったわ。だって、いつも行儀が悪いってジェファーソンさんに怒られているから」
「エルネスタさん?」
「ふたりの時は、前みたいにエルナって呼んで」
「っていうか、えっ? あれ?」
戸惑うユーリィに、エルナはケラケラと笑い始めた。
「ユーリィ君は変わらないわね、安心したわ」
「ずっと猫被ってたの?」
「もちろんよ。そう思わなかった?」
「ちっとも」
「だったら、私の演技力もかなりのものね」
そう言って、エルナはもう一度クスクスと笑った。
「でもね、さっきの話は本気よ」
「宮殿に残るって話? だけど僕は……」
「分かってるわ。グラハンスさんがいるって言いたいんでしょ? でも私、そんなつもりで言ったわけじゃないのよ。つまり貴方とどうこうなりたいとか……」
ほんのりと頬が染まったのを見て、言いたいことはユーリィにも伝わった。お転婆だとはいえ、そこは貴族の娘としてはっきり口にするのはためらったようだ。
「前に言ったでしょ? 私は男性に支配される妻になるのではなく、支配する側にいたいって。今回の事件で、その気持ちがますます強くなったわ。亡くなった父に代わって、領地や領民のことをあれこれするのは、変な言い方だけど面白かったもの」
「つまり僕を支配したいと?」
「そんな意味じゃない。あ、でも貴方は支配されかけてるわね、そうじゃない?」
言っている意味が分からず、返事に窮していると、エルナはジョルバンニたちが出ていった扉にサッと目をやった。
「あの人、貴方を思うままに動かそうって企んでいる気がするわ」
「そんなことはさせるつもりないよ。僕を見くびらないで欲しい」
エルナの洞察力に舌を巻きつつも、馬鹿にされた苛つきで彼女を睨む。本当は色んなことを見透かされた気がして、誤魔化したかっただけかもしれない。
「見くびってなんていない。だってあれだけの事件があったのに、貴方の力でこうして平和を取り戻したんですもの」
「僕だけの力じゃないさ。ラシアールや色んな人の協力があった」
「だったら、私もその協力者のひとりにしてもらえない? 私になにができるって言いたいのでしょうけど、貴族社会に身を置いていた者として、そして女として、協力できることもあるんじゃないかしら?」
「そんなこと、本当に望んでんの?」
「ええ、望んでるわ、心から。それにグラハンスさんとのことを知られるのは、色々と問題があるでしょ? 大丈夫よ、人の物を欲しがるほど、私は寂しくはないから」
エルナはまるで花が咲くように、可憐に微笑んでみせた。




