第41話 地の精霊
ヴォルフとブルーは、ベルベ島の南側にある森の中を歩いていた。もう真冬に近い季節ではあるが、森の木々は葉を落とすことなく鬱蒼と茂っている。常緑樹も多く見られるが、そうでない木もあるのにと、不思議に思ったヴォルフがそのことをブルーに言うと、「火山の影響でしょう」という返事が戻ってきた。
なるほど、それかと納得する。聞くところによると、ベルベ島は温泉があちこちから湧くらしいので、地熱は高いだろう。その温泉目的で本土から人が訪れるとのこと。先代の領主フォーエンベルガー伯爵も保養に時々やって来たという。
ジソ火山は数百年前に大噴火をして以来、絶えず煙を上げているらしい。ただしそれ以来、島が壊れるほどの噴火もなく、島民は平和に暮らしているそうだ。
しかし__
『森がね、なんか変なんだよ』
挨拶もそこそこに、ジュゼは不安げな顔でそう言った。
彼女はユーリィにとって母親と言ってもいい存在のエルフだ。十三歳の時、彼はイワノフの城を逃げ出して、実母を頼ってジーマ族のキャラバンを探し回った。けれどやっと見つけた実母レティシアは息子には全く興味を示さず、そればかりか親族にも酷い仕打ちを受けた。その時、狼魔フェンリルの主だったジュゼが、親身にユーリィの面倒をみたのだった。
その後、あの戦いでフェンリルをユーリィに譲った彼女は、キャラバンの曲芸師ハイヤーとともにこのベルベ島に移り住んでいる。
実年齢は四十過ぎらしい。が、寿命が長いエルフだから二十代にしか見えないし、実際、人間に換算すればそれぐらいなのだろう。長い黒髪と、従兄弟であるブルーと同じはしばみ色の瞳が特徴で、背丈はヴォルフの胸ほどもなかった。
他のエルフ同様に見た目は幼いが、ジュゼはとても気さくであっけらかんとした性格をしている。ヴォルフの出会ってきた女性の中では、一番男前だ。
そんな彼女が不安げな表情をするからには、よほど妙な気配がするのだろう。残念ながら中途半端ながらも人間であるヴォルフには、それがまったく感じられなかった。
とにかく調査しようということになった。リュットのことも気がかりだ。
もう夕方だし、明日の朝にしろとジュゼが言うのを振り切って、強引に森に入った。ブルーも渋々ついてきた。
自分でも焦っているのは分かる。むろん焦っている。ユーリィのそばに戻りたいのはもちろんだが、“彼の誕生日にふたりで夜空を飛ぶ”という妄想を実現させたい。ユーリィに言ったら小馬鹿にされること間違いなしだ。
(どうせ、俺はロマンチストなんだ)
それはともかくとして、先ほどからブルーは忙しなく薄暗い周囲をきょろきょろと眺めていた。彼の手にはすでに、火の点されたランタンが握られている。森の中は、草と土の匂いに混じって硫黄臭がした。
「なぁ、ブルー、まさか道に迷ったのか?」
「いや、たぶんこっちでいいはずだけど。ご神木までは一本道だって姉貴も言ってたし、途中で分かれた道もなかったから」
彼の言うとおり、下草が生えていない土が露出した道は、分かれることなく真っ直ぐに森の奥へと続いていた。
「だけど、さっきからきょろきょろと……」
「この木は、“ご神木の小木”だって前に聞いたことあるんだけど」
彼は言いながら、近くにあった枯れ木を指さした。
「“ご神木の小木”? あ、もしかしてあの巨木の枝木?」
「そう、それ」
島民が“ご神木”と言って大切にしている大きな古代樹は、枝を折ってそれを地面に刺すだけで根付いて木になるという、珍しい増え方をするそうだ。何千年も繰り返された噴火で傷つくたびに、島民はそうやって島の再生をしてきたのだと、以前にハイヤーから教えてもらった。
「で、その“ご神木の小木”がどうしたって?」
「ほら、小木だけがなぜか枯れてません?」
言われてみて、ヴォルフも辺りを見渡すと、確かに何種類かある樹木の中で、一種類だけが何本か枯れ木となっていた。
「冬だからじゃないか?」
「そうかもしれないけど、この木だけがっていうのがちょっと気になってね」
「まあ……な」
胸騒ぎを覚える瞬間があるとしたら、今がそうだろう。森が変だと言われても実感がなかったヴォルフだったが、改めてなにかあるかもしれないと思い始めた。
それから日が落ちるまで歩き続け、ようやく例の巨木まで到着した。
ブルーがランタンを掲げて、様子を窺う。光はぼんやりと木の幹を映すだけだ。
「リュット、いるのか?」
あの精霊を呼ぶのが手っ取り早いと、ヴォルフは辺りに尋ねる。その声は影となった木々に反響した。
フクロウがどこかで鳴いている。おぼろの月が遠くに見えて、夜空と隔離された世界にいる感じがした。
「……なんの反応もないですね」
しばらく待ったものの、薄気味悪いあの老人が現れる気配はない。ブルーも手持ちぶさたに、ランタンであちこちを探り回った。
「おい、ブルー。虫じゃないんだから、石の下にはいないだろ」
「まあ、そうなんっすけど。でもあの爺さん、どこからでも出てきそうな感じがするし。ほら、侯爵を散々脅かして楽しんでたじゃないっすか」
「確かに」
魔物を前にしても動じることがないユーリィが、空虚から出現したリュットに不意に耳打ちをされ“ひゃぁ”と悲鳴を上げる様子は、リュットでなくても面白かった。
「で、どうします? 明日の朝、出直しますか?」
「精霊って寝るのか?」
「さあ……」
結論が出ないまま、ふたりで考え込んでいると、羽ばたきが聞こえてきた。
黒い影が木々の間から現れ、ヴォルフの前を横切る。
「わっ!」
驚いてヴォルフが叫ぶのと、巨木の枝にその影が到達するのとほぼ同時だった。鳴いていたフクロウが飛んできたのだ。
光のある場所にやってくるとは、なんとも珍しいフクロウだ。
そう思っていると、猛禽は丸い頭を半周させて、ホーホーと二度鳴いた。それから人の言葉で語り始める。聞き覚えのあるその声は、間違いなく地の精霊リュットのものだった。
『おぬしが来るとは、まさに天の助けというやつじゃな、ホーホー』
「まさか、そのお声はリュット様? なんとおいたわしいお姿に……」
半笑いのブルーが慇懃にそう言った。
「そうか? ずいぶん見栄えが良くなったと俺は思うぞ」
一見すればリュットは人間の老人に見えるのだが、産毛のような髪、ゆがんだ双眸、唇のない口から見える三角の歯、枯れ枝のように細い手足、纏っているぼろきれ、子どもの落書きよりも酷い姿をしている。それに比べれば、フクロウの方がずっと格好良かった。
「でもいったい、どうしてフクロウなんかに?」
『あの戦いで少しばかり力を使いすぎてしまってのぉ。仕方なくこの鳥の体を拝借して、少々休んでいるのじゃよ、ホーホー』
「じゃ、木が枯れ始めたのはそのせいなんですね。良かった」
一安心といった様子でブルーがため息を吐く。
しかしフクロウから聞こえてくるリュットの声は、厳しさを保ったままだった。
『良くはないぞ。ワシはこの数千年、あの火山が大爆発するのを抑えてきたのじゃ、ホーホー』
「けれど、火山は過去に何度も爆発したと聞いたが?」
『島が壊れるほどのことはなかったであろう? 全部ワシのおかげじゃ、ホーホー』
精霊の自画自賛は捨て置くとして、リュットが示唆している意味をヴォルフはすぐ受け取った。
「近々、大噴火すると言いたいのか?」
『その可能性はある、ホーホー』
「そりゃ大変だ。早く姉貴に知らせて、島民を避難させなきゃ」
『可能性だと言っておろう。絶対にそうなるとは言っておらん、ホーホー』
「つまりどういう意味だ?」
『山の火口に、変なモノが住み着きおった。魔物じゃ。そやつが刺激しているせいで、山が活発になっておる。ホーホー』
「っていうか、いちいち鳴くのは止められないのか!?」
フクロウになったからと言って、その気になっているとしか思えない。精霊とはいえ酷く人間臭いから、リュットならやりかねなかった。
『鳴いてしまうのはワシではなく、この鳥がそうしているのじゃ、ホーホー』
「本当かよ」
『それはともかく、ワシが天の助けと言ったのは、おぬしならあれを倒せるからじゃ、ホーホー』
闇に光るフクロウの瞳は、真っ直ぐにヴォルフを見ていた。
「俺が!? 無茶を言うな。生身の人間は、火口に行くのだって決死の覚悟だ」
『おぬしの中におるであろう、火の魔獣が。ホーホー』
「ああ……」
なるほどと納得はした。しかしそれでも、戦えるとはこれっぽっちも思わない。
「残念だが俺の意志ではどうにもならない。フェンリルに変化するから、奴に頼んでくれ」
『なんと、まだ同化しておらんのか!? ホーホー』
「精霊がフクロウを乗っ取るのとはわけが違う。って、その前に鳥を黙らせろ、ウザい」
『しかたがないのぉ、ちょっと眠ってもらうとするか』
やればできるじゃないかと、ヴォルフは小さく舌打ちをした。やっぱりわざと鳴いていたに違いない。
「で、どうする? 今すぐ変化するか?」
『ゲオニクス……つまりフェンリルは、あの者を守ることしか考えておらぬ。ワシが頼んだところで、なにかしてくれるとも思えぬな』
「だったらさ、侯爵から頼んでもらえば?」
「それはダメだ。そんなこと言ったら、あいつ、絶対に島に来るっていい出すに違いない。けど、今はユーリィにはそんな余裕がないんだ」
「あっ、そうか……」
困ったという様子で、ブルーは短い黒髪を片手で掻きむしった。
『要するに、おぬしが狼魔と同化すれば良いのであろう?』
「その方法を聞きにここに来たんだ。俺は早急に同化したい」
『やれぬことはないが、少々危険を伴うぞ?』
「危険? まさか人間に戻れないということか?」
ゴクリと唾を飲む。
覚悟はできているとはいえ、その結果はユーリィを悲しませてしまう。自分から“抱け”などと言うなど彼にしてみれば相当な覚悟が必要なはずだから、それほど不安に思っているのだろう。
『二度とということではない。が……』
「が?」
『本来ならゆっくりと混じるのが一番良いのじゃ。そうすれば、どちらがどちらの魂か分からなくなるじゃろう。しかし今すぐ混じり合いたいというなら、強引なことをせねばならぬのぉ』
「つまり、できるんだな?」
『少々大変じゃが、良いか?』
「ああ、かまわない」
本当のことを言えば、リュットがなにを言い出すのか戦々恐々とした気持ちである。けれど、つまらぬ見栄でも今は張りたくて、ヴォルフは右目だけをわずかに細めた。




