第39話 不吉な予感
「……が……て……ましたよ」
風が遮ってブルーの声はほとんど聞こえなかったが、島が見えてきたと言ったのだとヴォルフは理解した。
ブルーとふたりでベルベ島近くの海上を飛んでいる。虫嫌いのユーリィはワーニングに乗るのが嫌だったとぼやいていたが、ヴォルフは魔物という以外は嫌う理由はない。主の指示とはいえ、ユーリィに会わせてもらえた恩すら感じている。なぜなら、あれが人間として会う最後かもしれないから。
覚悟はできていた。一度は捨てた命だ。だから魂を分けてくれたフェンリルにも心から感謝したい。もしも未来から来た自分自身であったとしても。
魔物退治を生業にしていた者が、感謝を捧げる相手が魔物とは妙なものだ。近づいてくる島を眺めつつ、ヴォルフは運命の皮肉を感じた。
(皮肉と言えば、このタイミングであいつが復活したのも皮肉なもんだな……)
ソフィニアを飛び去る時、最後に振り返った宮殿は、陽光に白く輝き、まるでユーリィそのもののように美しかった。
『僕は僕の戦いをする』
月光に青い瞳を光らせながら、彼はそう言った。
今あの中で彼は戦っているのだろうか?
背筋を伸ばし、顔を上げ、あの眼鏡男に立ち向かっているのだろうか?
その姿を見たいと思う。
けれど、やはり行くしかなかった。青き宝石に相応しいものになるために……。
「なんか……ですね?」
ブルーの声の端切れが聞こえてきて、ヴォルフは馳せていた気持ちを現実に引き戻した。
ベルベ島はガサリナ地方の西海岸から西へまっすぐ行った場所にある。領主はリカルド・フォーエンベルガー伯爵だ。若きあの伯爵は会った瞬間からクソ野郎だと思い、今でもそう思っている。
たしかに哀れなあの男だ。同情の余地はある。それでもヴォルフは嫌いだった。
「聞こえました、ヴォルフさん?」
風邪に負けないように、ブルーはいっそう声を張り上げた。空は抜けるように青いが、海風が冷たい。海面は上下にうねっていた。
ワーニングの長い胴体は、ブルーと密着しなくていいという利点はあるが、風の強い日には会話ができない。ひとりは頭の後ろには二本の突起を掴み、もうひとりは甲羅のような表皮のつなぎ目に指を引っかけ、丸みある背中を跨ぐ両足で体を支えるだけ。それでも穏やかな日は多少の揺れにも耐えられるだろうが、こんな強風ではなんども体がぐらりと揺れてヒヤリとした。風に押されて少し蛇行したワーニングにしがみつき、ヴォルフもまた「よく聞こえない!」と声を張り上げ返事をした。
頭の方に乗っていたブルーは、もぞもぞと這うように後方に座るヴォルフへと近づいて
きた。巨大ムカデは蛇行した体をまっすぐ伸ばし、主が落ちないように気遣っているようだ。
(えっとなんだっけかな、あのことわざ……、“虫も親になる”じゃなくて、“虫けらも雨が降れば雨宿り”じゃなくて……)
ヴォルフがセシャール語のことわざをなんとなく思い出している合間に、ブルーは少しだけ距離を縮めていた。
と、突風に押されてブルーが落ちかける。
「もう来なくていい! 見ている方もヒヤヒヤする」
「聞こえるんですか?」
「大丈夫、聞こえる」
「ベルベ島の様子が変だって言ったんですよ!」
もう一度、島を見る。
これと言って変なところは見当たらなかった。
別に視力が悪いわけでも、視界が狭いわけでもない。とりあえず髪を結んできて良かったと、どうでもいいことをヴォルフは考えていた。
降り立ったのは島の西側にある港。以前来た時はわりと賑わっていた印象があるが、今は人っ子一人いなかった。そのことをブルーは気にしてるようだ。
「ワーニングを見て、逃げたんじゃないのか?」
ヴォルフがそう言うと、ブルーは浮かない顔で島の景色に目をやった。
「うーん、そうだといいんだけど……」
「俺は別に変なところなんて感じないけどなぁ。まさか火山が爆発しそうだとか?」
左手に見える山の頂から、薄い煙が上っている。名前は忘れたが、あれが活火山だということは知っていた。
「そうかもしれないけど、俺はどちらかというとあっちが気になって……」
ブルーは右前方を指さす。そこには鬱蒼とした森があった。
「リュットがいるあの森か?」
「なんだろう、威圧感というか。ワーニングもちょっと嫌がってるし。ヴォルフさんは本当になにも感じないですか?」
問いただすその瞳は、黄色の右目を特に注視していた。
「残念だけど、俺はまだフェンリルと同化してないから、人間の感覚しかないな」
「そういうもんっすかね」
「だがブルーがそう言うのなら、警戒した方が良いかもしれないな。まずはジュゼのところにいって情報集めでもするか。彼女はあのハゲと一緒にいるんだろ?」
「らしいっすね。なんでもハイヤーさんの婆さんの腰痛が悪化したらしくて、色々手伝っているらしいみたいです」
「結婚したとか?」
「それはまだ」
大昔に比べれば人間とエルフの結婚は珍しいことではない。残念ながら子供はできにくいが、本人たちが納得しているのならそれも良し。争いや差別など馬鹿らしいことだ。
「俺もそれ、つまり結婚のことで呼ばれたんだと思ってたんだけど、どうやら違うみたいな……」
ブルーはまた不安げな表情をして森を眺めた。
「とりあえず行ってみよう」
「ハイヤーの家は、森の入口にある集落です」
「ああ、一度行ったことがあるよ」
どうやら簡単にはことは進まないらしい。
不吉な予感を抱きながら、ヴォルフは森の輪郭を慄然と見入っていた。
今回は短めに。たぶん明日か明後日、次作を更新します。




