第36話 決意
だれもワーニングには近づかなかった。人間なら当然のことだ。獲物や敵であるのなら渋々ながら武器を片手に行くのだろうが、そうでないのなら好んで親しもうとは思うまい。数ヶ月前の惨劇が記憶に残っている今は、なおさらだ。ユーリィ自身もあまりそばに行きたくなかった。魔物であるという以前に、虫が嫌いだからだ。
巨大な魔物は中庭の中央で、大人しく寝そべっていた。寝そべっているという表現が正しいのかは別として。
たくさんある肢がモゾモゾと動いている。それを見ているだけで、背筋にゾワゾワとしたものが這っていく。あんなのと意思疎通はしたくないと、ユーリィは隣を歩くブルーに目で訴えた。
「どうしました?」
「別に……」
「そんな顔をしないで下さいよ。ああ見えて、可愛いところがあるんですから」
「どの当たりが?」
「胴体のわりに足が華奢なところとか」
「華奢な足だからいっぱい必要なんだ。胴体を支えられるなら、二本で十分だと思う」
なにが可笑しかったのか、ブルーはクスッと笑った。
「まあまあ、そう言わないで。ワーニングのおかげで、あいつら、近づいて来ないじゃないですか」
ブルーはさりげなく振り返り、後方にいる四つの人影を見やる。そこにいるのはラウロとコレットと、ふたりの兵士だ。黄昏の薄暗さに彼らの表情は見えないが、さぞや狼狽しているだろう。
「で、本気で僕にワーニングと話をさせたいの?」
「ワーニングがね、侯爵と一緒に夜の散歩に出かけたいって言ってるんですよ」
ムカデに乗って道を徘徊する自分の姿を想像して、ユーリィはクラッときた。
「やーやー、そうじゃなくて。空を飛ぶ方です」
ユーリィの想像を悟ったのか、ブルーが夕闇を指す。
「ワーニングに懐かれていたような記憶はないんだけど?」
「思わぬものが思いを寄せているなんてこと、よくある話です」
「うわ、それ洒落にならないから!」
真っ赤な顔をして髪に触れてきたラウロを思い出し、ユーリィは咄嗟に叫んでいた。
「洒落にならない? それはどういう……」
「あ、なんでもない。こっちの話」
「なんか気になりますね」
「気にするな。それよりブルーに聞きたいことがあったんだ。僕ってさ、どちらかというとエルフっぽいだろ?」
「細かく言えば違いますけどね」
「例えば?」
尋ねると、ブルーは遠慮もせずにジロジロと眺め始めた。高い位置から眺められるのはいい気分ではない。ユーリィは身の置き場に困って、少し身じろぎをした。
「耳がまず違います。俺ら、こうして尖ってるし」
そう言って、ブルーは長さのある耳の先端を指先で引っ張った。
「うん。それから?」
「目の白いところもちゃんとある」
「少ないけどね」
「あとは背丈かな」
「でもブルーは背が高いじゃん」
「俺だって十七の頃は侯爵の肩ぐらいしかありませんでしたよ。それなのに、なにがどうなったのか知らないけど、発情期にグングンと伸びて。おかげで人間と一緒にいても、背丈で威圧されることはないですけど」
発情期と聞いて、ユーリィはブルーに尋ねたかったことを思い出した。
唐突に出す話題としては問題あるけれど、向こうから振ってきてくれたのなら、もっけの幸いだ。
「エルフってさ、人間から見るといつまでも子どもみたいに見えるよね?」
「らしいですね。俺も子供の頃は女の子みたいだって、近所に住んでた人間の男に言われたことありますよ」
「イヤらしいことされた?」
「されませんよ、侯爵とは違いますから」
「な、なんだよ、それ」
攻め込もうとした瞬間に反撃を食らった気分だった。自分でも分かるほど動揺して、ラウロの奇病が移ったみたいに顔が火照っていた。
「なにを照れてるんですか。今、むちゃくちゃ興味津々って顔してましたよ?」
「興味津々とかじゃなくて、色々と困ったことが……、ブルー、ちょっと耳貸せ」
覚悟を決めて、この間からずっと気になっていたことを、エルフの尖った耳に囁いた。
本当は自分で穴を掘って中に入り、上から土をかぶせて隠れたいほど恥ずかしい。それでもヴォルフのためになんとか頑張った。
「うわっ、そんなこと考えてたんですか、侯爵」
「だって僕は、人間としてもエルフとしても中途半端だし、生殖能力があるかどうかも……」
「もしかして、お子さんが欲しい?」
「だから、そういうことじゃなくて。つまり、ほら、なんて言うか、未熟すぎてアレの最中に気を失っちゃうし、ヴォルフも不満じゃないかなって……」
「まさかと思うけど、男らしくなって、ご自分がグラハンスさんを抱こうとか考えているんじゃないでしょうね?」
「やめろ! 生々しい!」
だんだん自分でも、なにを悩んでいるのか分からなくなってきた。今日は、ここ最近続いていた目眩もなく、頭がぼーっとしていないからかもしれない。
「体のこともあるけど、それとは別に未熟な僕がこんな場所にいて、みんなに命令するような立場にいて良いのかなぁって。ヴォルフにも我慢させたり、嫌な思いをさせたりしてるし。もちろん、男らしくなりたいとも思ってるけどさ」
「侯爵は侯爵のままでいいのでは?」
「僕のままって?」
「少女みたいな見た目も、力がないのも、方向音痴なのも、素直じゃないのも、全部です」
「それって悪口だよね」
「違いますって」
ブルーは大げさに首を横に振って否定した。
「俺がひとつ言えるのは、貴方はちゃんとまっすぐ生きてるってことです。だれにも媚びず、だれも憎まず、だれも裏切らない。それって凄く大切だと思いますよ」
「そうかな……」
自分のことは自分ではよく分からないものだ。そんなふうに思われているのは嬉しい反面、期待に添える生き方がこの先もできるかユーリィは不安になった。
「そうですよ。それと、あっちの件もそんなに心配しなくても大丈夫です。エルフは二十五までは子どもと一緒ですからね。いずれ色々変わってきますよ。俺としては変わらないで欲しいですけど」
「なんで!?」
「筋肉隆々の侯爵は見たくないというか……。ま、そんなに変わらないと思いますが。でもお控えになった方がいいですよ。純粋なエルフなら十日は身動きできなくなるか、下手したら死んでます。人間の血が入っているから、一日苦しむ程度で済んでるんです」
「あ、うん。でもしたくても、ヴォルフに会えないから……」
いつになったら自由に会えるんだろう。
本当は、ヴォルフと一緒にいられるのなら、宮殿でもフェンロンでも地獄の果てでもかまわない。毎朝目が覚めたらそばに彼がいて、くだらないことで怒ったり笑ったりできたら、それだけで満足だった。
「お立場上の問題はあるけど、俺はおふたりが幸せそうにしているのを見るのは好きですよ。その為にできる限りお力になるつもりです。ああ、でもそうか、なんか分かったぞ」
明るい性格のエルフは、急になにかを納得して、うんうんと大きくうなずき始めた。
「なにが分かったんだよ」
「おふたりの温度差。グラハンスさんは熱い男だから」
「暑苦しいの間違いじゃないのか?」
「そうとも言えますが。おふたりとも悩んでいることは間違いないんですが、お互いが好きすぎて、すれ違うんですね、きっと」
「なんのこと?」
「おふたりでじっくり話し合って下さい。おっと、すっかり話し込んでしまったようで、暗くなってきましたよ」
言われてみて初めて、ブルーの顔が見えにくくなっていることに気がついた。
見上げると、空には白い雲がぽっかりと浮かんでいるだけで、夜間飛行にはもってこいだ。あとは寒くなければいいなと思うだけだが、地上を吹く風はかなり冷たかった。
「ほら、ワーニングも焦れてきてます」
細い無数の足は、のたうち回るように気持ち悪く動いていた。
乗りたくないとぶっちゃけ思ったが、ブルーが急かすものだから、仕方がなくユーリィはワーニングへと近づいていった。
それから数分後、ユーリィはひとりでワーニングの背中に乗っていた。まさかブルーが一緒に来ないとは思っていなかったので、浮上する巨大ムカデに呆然とつかまって、ソフィニアの上空を飛んでいるというわけだった。
「っていうか、え? あれ? なんで僕はここに……?」
寒さで我に返った時、ようやくそんな言葉が口を吐いた。
一緒に散歩をしたいと希望しているわりに、ワーニングはなんだか素っ気ない。くねくねと胴体をくねらせているわけだが、背中の者が落ちないようになどという気遣いは全く感じられなかった。
「いったいどこ行くんだよ?」
返事は期待してない。
というか、ムカデとの意思の疎通はやっぱりイヤだ。ムカデの声が頭の中に聞こえてくるのもゾッとした。
「ブルーのやつ、全然説明してくれないから」
下を眺めると、まだ道には人が歩いているようだが、ラシアールが乗っていると思っているらしく、ワーニングを特別注目する者はだれひとりいなかった。
何回か街の上空を旋回し、やがて巨大ムカデはある一点を目指して降下し始める。数日前にガーゴイルと訪れたあの丘だ。
観光客などいないから、あいかわらず閑散として、人っ子ひとりいなかった。
いや、違う。
丘の中央に立ってこちらを見上げている男の、銀色の髪が風に揺れている。
あれは……。
「ワーニング、早く降りて!!」
気づくや否や、ユーリィは叫んでいた。
のろのろと降りていくムカデの動きがもどかしくて。
早く会いたくて。
両手を伸ばし、その相手に差し伸べる。
「ヴォルフ!!」
地上まで少し遠かったが、そんなことは気にしなかった。
彼を信じて、飛び降りる。
「馬鹿!」
焦った声を発した男は尻餅をつきつつ、それでもしっかりと受け止めてくれた。
「痛っ……」
「なんでここにいるんだよ?」
「ブルーに言われて、って、君はなんでワーニングに?」
「あ、そっか、そういうことか」
ブルーの気遣いも嬉しかったけれど、それ以上にヴォルフと会えたのが嬉しかった。
ぎゅーっと抱きしめると、同じ力で抱きしめてくれる腕が愛おしい。
独りぼっちだった朝の分まで、ユーリィはその体にしがみついた。
「しばらく会えないかと思ったよ」
「そうだな。俺もそう思っていた。と言うより、本当にしばらく会えないかもしれない」
「なんだよ、それ?」
その後ヴォルフから説明されたことは、およそ納得いかない話だった。
ジュゼに頼まれて、ブルーと一緒にベルベ島に行くのだという。なにやら島で騒動が起きているらしいとのことだった。
「だったら、僕も行く」
「それは駄目だ」
「なんでだよ!?」
「君は君の役目があるだろ?」
「そんなの……」
言いかけた言葉は、口づけで止められてしまった。
ほんのりと温かな感触を残して唇が離れる。絞り出すような声でヴォルフが言った。
「それ以上は言うな、決意が鈍るから」
「決意ってなに? 決意しなくちゃならないほど大変なのか?」
「いや、本当のことを言うと、呼ばれてるのはブルーで俺じゃない。困ってるとも言ってきてない。ただの推測だ」
なにが言いたいのか分からず、ユーリィは体を離してヴォルフの顔を睨みつけた。
言っている意味は分からなくても、また妙な考えに囚われて行動しようとしていることだけは分かる。嫌になるほど同じことの繰り返しだ。
「そんな顔で見るなよ」
「詳しく説明しろ」
「それは……」
ヴォルフは逃れようという素振りをみせたが、ユーリィは許さなかった。殴られたって放すもんかと、軍服の胸元を必死につかむ。すれ違いで悲しい気持ちになるのは、二度とイヤだった。
「分かった、言うから手を放せ」
「言うまで放さない」
小さなため息を吐くことで、ヴォルフは諦めの心を表現した。
「島に行って、リュットに同化する方法を教えてもらおうと思っている」
「同化って、まさかフェンリルと」
「そうに決まってる。今のままだと中途半端なんだ。あいつに変化すると意識は飛んだままで、魔物になっているという実感がないんだ」
「そんなに急がなくても……」
「駄目だ。俺は早く完全体になる必要があるんだ」
もっとちゃんとした説明が欲しくて、ユーリィは黙ってヴォルフの言葉を待った。
「今のままだと、俺は中途半端すぎて君を守れない。でももし本当の使い魔になれれば、俺が君のそばにいることを許される」
「許されるってだれに? 僕が許しているんだからいいんだぞ。ディンケルにも今度ちゃんと言っておく。ジョルバンニにも絶対に拒絶なんてさせない」
「だれかではなく、俺自身が許せない。これは俺のプライドだ」
「僕を守りたいなんて考えなければいい。僕はそんなことされる必要はないし、逆に僕がヴォルフを守りたいんだから」
すると、ヴォルフはフッと破顔して、髪にそっとキスをしてきた。
「俺は王者として生きる君が好きだ。昔のように捨て猫のような目をしているのではなく、獅子のように雄々しい瞳をしている時の方が好きだ。何者にも負けないと戦っている君が好きだ。そういう君を守りたい。狼魔になりたいのは、君を守る盾になりたいからではなく君を守る剣になりたいからだよ」
「でも、もしも同化して、姿が戻らなかったら?」
「別にそれでも俺はかまわない」
「僕はイヤだ!」
好きな人と一緒に寝て、笑ったり怒ったりして、時々抱き合う、ごく普通の毎日を諦めるなんて、そういう幸せを捨てるなんて、どうしても嫌だった。
今まで手に入らなかった日々が欲しいと思ってなにが悪い。
普通に生まれ、普通に暮らしたかったと思ってなにが悪い。
母親のキスで起こされるように、目が覚めた瞬間から愛を感じたい。
ただそれだけなのに。
「分かってくれ、ユーリィ。君を困らせるのではなく、君に力を与える存在に俺はなりたい。どうしてもなりたいんだ」
色違いの双眸が、月明かりに濡れて光っていた。
それを見て、ユーリィは初めてヴォルフのプライドを受け入れるしかないと、理解した。
彼がそうしたいと願っているのなら、そうさせなければならない。
たとえ自分の夢が壊れてしまっても。
「……分かった」
「本当に?」
「ヴォルフがそう決めたなら、僕は僕の戦いをする」
「戦いだって?」
会えなくなると言ったそばから、心配そうな顔をするヴォルフが本当に愛しかった。
「大丈夫だよ。ジョルバンニの手の内が分かった気がするんだ。もうあいつには負けないから」
「危ないことはするな」
「するわけないだろ。本当に戦うわけじゃないんだから。ヴォルフこそ、ブルーやジュゼに迷惑かけるなよ。それとリュットとハイヤーさんによろしく言っておいて。いつか僕も島に行くから」
「言っておく」
「絶対に人間の姿で戻ってこいよ」
服をつかんでいる手にギュッと力を込める。
神など信じたことはないけれど、今は願わずにはいられなかった。
「分かった」
「信じてるから」
「約束するよ」
「それと……」
口にするが恥ずかしくて、言葉を切る。
けれど、どうしても言いたかった。
「それと戻ってきた時は、抱きしめるんじゃなくて、ちゃんと抱けよ」
「よし、だったら次の日に足腰が立たないぐらい激しくやろう」
「ば、馬鹿か、お前」
頬が熱くなっていく。
本当はちょっと嬉しかったので、それを悟られないようにサッと顔を背けると、ヴォルフが耳元で囁いた。
「愛してるよ、ユーリィ」
その後のキスは、いつもより激しく、甘く、そして切ないものだった。




