第31話 嫉妬の炎
やりきれないほど辛いのは、好きで好きで堪らないからだ。あの男に差し伸べられた手が妬ましい。もしも自分が求められていたならば、神をも捨て去る覚悟をしてしまっただろう。
侯爵と魔物の男が室内に消えたのち、ラウロは長いこと――束の間だったのかもしれない――悔しさと寂しさに苛まれ、白い扉を睨んでいた。
そうしているうちに、廊下を駆けてくる音が聞こえて、ラウロはようやく我に返った。
(だれだろう)
くせ者なのか。
それでもいい、そう思った。この扉を叩く理由ができるのだから。お逃げくださいと叫んで、自分の存在を思い出してもらえるのだから。
怪我だって気にしない。池畔の時のように心配してもらい、あの方の心に入ることができるのだから。
そんな期待で剣を抜き、足音のする闇を睨みつけた。
しかし闇の中から現れたのは侵入者でもくせ者でもなくて、上官ディンケルだった。
「ヘルマン、どうした!? なにかあったのか!?」
黒い髭に埋もれた口から唾を飛ばし、大男がやにわに怒鳴る。その勢いに気圧され、ラウロはたじたじと返答した。
「あの、えっと、闖入者が来たのかと……」
「闖入者だと? どこにいる?」
「いえ、そうじゃなくて、副長の足音が聞こえてきたんで……。なにかあったのですか?」
「それは俺が尋ねたい。おまえの叫び声を聞いたと報告があったぞ?」
そういうことか。
どうやら戦う必要はなさそうだと剣を下げつつ、ラウロは白い扉をちらり見た。
「さっきグラハンスさんが来たんです。俺、止めたんですけど無視して中に……」
派手な舌打ちで、ディンケルは不快感を露わにした。
「油断も隙もあったもんじゃないな、あの男は」
「どうしましょうか?」
「もちろん、叩き出す」
言うや否や、ディンケルはラウロを押し退け、扉を叩き始めた。
激しくはないが執ように上官はノックを続ける。それに根負けしたのか、やがて男が扉の隙間から顔を出した。一目で分かるほど不機嫌な表情だ。
「何の騒ぎだ? 侯爵が起きるだろ」
「なぜ貴方がここにいるのか、ご説明を」
詰め寄るようにディンケルが一歩前に出た。
「する必要があるのか?」
「侯爵は我ら主君であるゆえ、不埒な事態からお守りする役目にあるのだ」
「むしろ、あんたらが侯爵を弱らせているんだよ」
ディンケルとグラハンスには緊迫したものがあり、その雰囲気を感じ取ったラウロもふたたび肩に力を入れた。
「まだ侯爵はご体調がすぐれないのか?」
「精神的なものだと俺は思ってる」
「精神的? しかし、あの方はそれほど弱くはない。最後の戦いでお見せになった強さは並大抵のものではないぞ。普通の少年なら逃げ出していただろう」
「立ち向かうべき敵がいたからだ。あいつは見かけによらず男らしいから……あ……」
グラハンスは言葉を切って、髪をかき上げ考え始めた。ディンケルも眉をひそめる。
「なんだ?」
「なにが?」
「言いかけだろう?」
「気にするな。それより、俺にどうしろと言うんだ?」
「もちろん退室してもらう。たとえ侯爵のご希望であったとしても」
「あいつが俺を失ったらどうなるか、知ってると思ってたけどな。ま、いいだろう」
グラハンスは少し退いて、扉を大きく開け放った。ややためらいを見せたものの、副長は室内へと入っていく。
すると残ったラウロに、グラハンスはイヤミを含んだ小声で話しかけた。
「で、ジョルバンニ氏に報告するのか?」
まだ疑いを捨て去ってくれない相手を睨みつけ、ラウロは上官のあとに続くことにした。自分はあくまでも彼の下にいるのだと示すために。
違う。
本当はお会いしたいだけだ。
中にはいると、そこは豪勢な調度品が並べられた居間だった。家具や椅子はどれも美しく、特に中央にあるソファの、白地に金糸の座面にラウロは目を奪われた。
天井からは高価そうなシャンデリアが吊るされている。しかし無数に立てられたロウソウには火が点されていない。その代わり、部屋の三隅にあるコーナーテーブルの上で、三つのランプが煌々と輝いていた。
「侯爵は?」
「寝てるに決まってるだろ」
足早にディンケルの前を通り過ぎたグラハンスは、奥にある茶色の扉の前に立ち、ゆっくりと押し開いた。
隙間から垣間見える室内は、居間よりずっと暗い。
「どうするつもりだ?」
「一応、確認させてもらう」
当然だと言わんばかりの口調で答え、ディンケルは中へと入る。しばらくして出てきた時には、その表情はずっと和らいでいた。
「なにもなくて良かった」
「なにがだ?」
「ここで言って欲しいのか?」
横目で上官はチラリとラウロを見る。その視線の意味を知りたいとは思わなかった。知ってはいけないというよりも、知ったら深く傷つく。そんな気がした。
「では退室していただこう」
「その前に剣を取りに行かせてくれ」
彼が寝室に入っていくと、ディンケルが扉を開け放つものだから、否応なく中の様子がラウロの目に映ってしまった。
白く大きなベッドが見える。暖炉には炎があって、暖かな空気が流れ出てきた。膨らんでいる毛布の下であの方が眠っている。そう思っただけでラウロの心臓が高鳴った。
グラハンスはベッドの脇に立てかけてあった剣をつかむと、赤茶の毛布を覗き込み、それからゆっくりと顔を近づけていった。
キスしてるんだ。
分かってしまったのは自分もそうしたいと、心のどこかで思っていたから。
高鳴っていた心臓が、一瞬凍りついたように停止する。ふたたび動き出した時には、さらに激しい動悸を伴って、胸の中で暴れ始めた。
「またあのような……。やはり早々に相応しき女性を探していただかなければ……」
苦々しく呟いた上官の声が、ラウロをさらに打ちのめしていた。
「ヘルマンは侯爵がお目覚めになるまで、お側についていろ」
グラハンスが去ってから数分後、上官から下された命令に、ラウロは飛び上がるほど驚いた。
「自分がですか!?」
「ないとは思うが、あの男は窓から入る術を持っているからな」
もしかしたら彼は例の秘密を知っているのかもと思ったラウロだったが、尋ねることはしなかった。
「でも廊下の警備は?」
「もうすぐ交代の兵士が来るから、心配しなくてもよい」
「はぁ……」
「侯爵はあのお顔立ちゆえ、男でも良からぬ恋慕を抱く懸念はあるが、ヘルマンは敬虔なマルハンヌス教信者だから、その点では心配ないと思っている」
薄暗くて良かったと、ラウロは心から思っていた。
でなかったら神に背いた男だと悟られただろう。
なんだか泣きたい気分になっていた。
それから上官の命令通り、ラウロは寝室の扉の前に立ち、侯爵の眠るベッドを見つめていた。時々毛布が動いて、軽い寝息が聞こえてくる。それだけでどうにかなりそうだ。
暖炉の炎がパチッと薪を爆ぜる。その音は、かつて神父様から手のひらに受けた鞭に似て、体が強ばった。たった一度だけだが、あの痛さは忘れられない。むろん悪かったのは自分の方で、“捨て子”とあざ笑った者を殴りつけたからだった。
『神に恥ずべきは、生まれや育ちではなく、己の行動だと反省しなさい』
悲しみに満ちた顔で、神父様はそうおっしゃって、ラウロを鞭打った。
その後、神父様が三日の断食をしたのを知っている。だからこそ、優しいあの人に二度と悲しみを味合わせたくはないのだけれど……。
「ん……」
ベッドから鼻にかかった甘い声がした。
一瞬で自制が吹っ飛ぶ。
引き寄せられて、ラウロはふらふらと歩み寄っていた。
「お目覚めですか……?」
小声で話しかけ、毛布を覗き込む。ただの寝言だったようだ。侯爵の瞳は閉じられたままで、暖炉の炎が美しさをさらに幻想的に魅せていた。
少女のように、その寝顔はとても愛らしい。
闇すらも染めることができない白い肌に、花びらのような可愛い唇が咲いている。
(どうしよう、触りたい。キスしたい。あいつみたいに……)
ダメだと分かっているのに、自重できない。
ためらう指を伸ばし、その唇に触れる。
(柔らかい……)
指先が熱くなってきて、それが体の芯まで到達すると、どうにも抑えることができなくなった。
ああ、このまま奪ってしまおうか。非力な彼を押さえることなど簡単なことだ。拒絶されたってかまわない。俺のものにできるのなら……。
どうにでもなれと、やけくそ気味に唇を重ねようとした、その時だった。
カーテンの隙間から差し込んだ光が、突如ラウロの両目を鋭く刺した。
自制心が蘇る。
(なにをしてるんだ、俺!?)
慌てて体を起こし、逃げるように扉まで後退し、自分の醜さに震え上がった。
こんな劣情が己の中に宿っていたのかと、恐怖を感じずにはいられない。神の御許に行けなくなるところだった。朝陽に感謝しなくてはいけない。俺は魔物以下に成り果てる前で良かったと。
しかし__
「ヴォルフ……?」
侯爵の第一声がそれだと知った時、心の中で炎が燃え上がる。
暖炉よりも激しく、ランプより暗いそれは間違いなく嫉妬の炎。
「侯爵、お目覚めですか?」
愛しき者の問いかけに、自分でも驚くほど沈んだ声でラウロは答えていた。




