第30話 怯臆
腕が背中をまさぐり、指が髪の毛をもてあそぶ。昔は嫌だったこと全部、ヴォルフが今している。だけど拒絶なんてする気はない。彼の胸に頬を当てて、ユーリィは心臓の音を聞いていた。
「こういうの、久しぶりだよな」
片耳が塞がれているせいで、自分の声が頭の内側から聞こえてきた。
「ん?」
「おまえがベタベタするの」
「だな。十日ぶり? いや、もっとか」
ヴォルフの声も胸の奥から内側に流れ込んできて、なんだか不思議な感じがした。
「あ、君も寂しかったのか?」
「“も”じゃなくて、おまえだけ」
ニヤついた声色にムッとして顔を上げると、真剣な眼差しとぶつかった。声とは裏腹の、曇った表情がユーリィを驚かせる。
また自爆気味にひとり落ち込んでいるのだろうか。
ヴォルフは前々からそういうところがあるから困りものだ。心配性な性格が災いし、余計なことを考えてひとりで傷つく。
今回もそれじゃなければいいなと思いながら、ユーリィは彼のオッドアイを見返した。
「怒ってる?」
「いや、」
「じゃあ、なんかあった?」
「別になにも。君が心配なだけ」
「やっぱり心配してるし」
心配してくれなくったって、僕は僕で何とかするからと口を尖らせる。もちろんそんなつもりではなかったのに、ゆっくりヴォルフの顔が近づいてきた。
ただ触れるだけの優しい口づけ。
いつもみたいに貪られることもなく、温もりだけを残してヴォルフは顔を離した。
「ずいぶん大人しいじゃん」
「今日は君のそばにいたいだけだからね」
「ふぅん」
背中にある腕を無理やり解いて、ユーリィは部屋の中央にあるソファへと歩み寄った。
腰を下ろすと、急に眠気が蘇る。眠りかけたところを起こされたせいか、酷くだるかった。それともメチャレフ伯からもらった、変な味の薬草のせいかもしれない。あれを飲んだ途端、急に眠気が襲ってきたのだから。
追いかけてきたヴォルフが隣に座る。その体に身をもたせたのはだるいから。そう、だるいからだと意味もなく自分に言い訳をした。
「で、さっきの騒ぎはなんなんだ?」
「ユーリィ、あいつをあんまり信用するなよ」
「あいつって?」
「ラウロ・ヘルマン」
わけの分からない妄想で、ヴォルフはまた誤解しているらしい。ユーリィは体を離して、もう一度その顔を見上げてみる。本当にメンドクサイ男だ。
黄色の瞳が悲しげに光っていた。
「言っておくけど、ラウロと僕はただの……」と言葉を切って、ためらいを振り払い、「友達だから」と無理して続けた。
きっとラウロはそんなこと思っていないだろう。彼にしてみれば、主従関係しかないのだから。
すると、ヴォルフはチッと舌打ちをして、「君に彼を会わせたのは失敗だったよ」と苦しげに呟いた。
「なに、それ、嫉妬?」
「いや、そうじゃなくて」
メンドクサイから、片腕でヴォルフの頭を少し引き寄せ、形の良い唇にキスをする。いい加減分かれよと、ユーリィは内心毒づいていた。
今度は軽くなんて終わらせやしない。覚えてしまった快楽を求めるため、舌で強引に口をこじ開けた。
自分が未熟な存在だって知っている。それでも彼の心を癒すにはこれしかないから……。
最初は嫌がっていた男は、途中からやっとその気になったようだ。外も内もベタベタになるほどに貪られる。
「ん……んんーっ」
こっちから仕掛けたとはいえ、あまりにしつこいし、息苦しくなったので、ユーリィは顔を背けてヴォルフの劣情から逃げ出した。
「おま……いい加減に……」
濡れた口元を手の甲で拭き取った。
すると、その手をサッとつかまれる。思わせ振りに持ち上げて、まるで貴婦人にするかのように、慇懃な口づけ。そんなヴォルフの行動に、ユーリィはギョッとなった。
「なっ!?」
「この命はすべて貴方の物、我が主よ」
「おまえ、ふざけてんの?」
「ふざけてなんてないさ」
そう言ってヴォルフは手を伸ばし、ペンダントの鎖を指先で触れた。
「この中に、俺とあの魔物がいるんだろ?」
「うん」
「君は独りじゃない、いつだって。もしも俺がいなくなっても……」
「止めろ」
たとえ冗談でも、そんなことを言うのは許さない。未熟かもしれないけど、守るべきもの、欲しいものは分かってる。今の自分にはヴォルフしか残されてないんだから。
そんな思いで睨みつけたユーリィを、鎖から手を離したヴォルフはつかの間、意味深に見つめ返した。
「な、なんだよ!?」
「久しぶりに見たなぁと思ってね、その目」
「目?」
「威嚇の目。以前はしょっちゅうそんな目をしていたのに、ここ最近、酷く辛そうだったから。君がどんどん弱くなっている気がして、見てる方も辛くてね」
僕が弱くなってきている?
そんなはずは……。
でも……。
最近、なんにも考えたくないと思うことが多くて。
前みたいに感情を殺せたらいいのにと思うこともあって。
いったいなにが原因か分からないけど。
緊張しているみたいに首や肩が硬くなってきて、苦しくなる。
食欲も湧かなくて。
「ユーリィ?」
考え込んでいると、心配したらしいヴォルフに覗き込まれていた。
「そうかなって考えただけ。言われてみれば、なんだかちょっと変かも」
「みんな、君に期待しすぎてるのかもしれないな。特にジョルバンニは」
その名を聞いた瞬間、少し息苦しくなり、ユーリィは無意識に胸に手を当てていた。
「ジョルバンニは……」
「君はあいつの命令になんて従う理由はないんだぞ?」
「でもさ、あいつ、言うことがいちいち尤もなんだよ。言い返すこともできないし、あいつの方がずっとソフィニアを大事に思ってるし、僕が逃げ出したいだけっていうのも本当のことだし……」
「どうして逃げ出したいんだ?」
「だって、僕は……」
未熟なんだ。
体だけじゃなく、きっと心も。
それなのにみんな、妙な期待をかけてくる。
僕は子どもの目なんて治せない。
神の加護なんて与えられない。
僕は人間でもなく、エルフでもなく。
ずっと暗いところにいただけの存在。
逃げたいんじゃない、自分が分からないんだ。
でもこんなこと考えてたら、また兄さんに罵られる。せっかく俺が命をかけて守った世界からおまえは逃げるのかって、眼鏡の奥にある目で睨んで……。
「ユーリィ? 大丈夫か?」
「僕は……」
また目眩がした。
ヴォルフの声が遠くに感じる。
世界と自分が切り離されるような、まるで箱に閉じ込められたような……。
目も耳も心も蓋をされしまうこの感覚は、一年前まで何度も経験した。もう僕は昔とは違うはずなのにと、ユーリィはもう一度ヴォルフの肩にもたれかかった。
「なんか目眩がする」
「今日はもう寝なさい」
「うん」
ふわっと体が軽くなって、宙に浮く。
一瞬で、ヴォルフに抱え上げられていた。
こういうのだけは素早いというか、なんというか。文句を言おうと下から覗き見ると、その顔は本当に悲しげだった。
口にしかけた文句が引っ込み、代わりに心配させていることが申し訳なくなる。
大人にならなくちゃって、分かっているのに……。
「ごめん……」
「軽いから平気だよ」
「そういうことではなく」
「なにが?」
そういう顔、凄く嫌だからって言いたかったのに言葉が出てこなかった。
ヴォルフは言葉通りに軽々とした動きで居間を横切って、薄暗い寝室に移動した。優しく下ろされたそこがベッドであることを、背中の感触で感じ取る。すぐ横に加重がかかったのは、彼が座ったためだろう。
暖炉の炎が消えかかっていたので、ほとんどなにも見えない。薄ぼんやりと、ヴォルフの輪郭が闇との境界線を作っていた。
「ユーリィ、寝る前に少しだけいいか?」
「なに?」
「ちょっと聞きたいことがあるんだ」
「いいよ」
「俺は時々、君の夢を見るんだ。炎に包まれたあの町で立ち上がった君の夢を。強く雄々しく気高いあの姿は一生忘れないと思う」
乗っ取られた意識を取り戻した時のことだ。
そんな大げさに言うほどのことだったろうか。
あの時はただ必死なだけだった。
「それで?」
「あの時、君はなにを考えてた? どういう気持ちだった?」
「どういうって……」
闇の中で記憶を辿った。
自分がなにを考えてたか、なにを感じてたのか、ぼんやりとも思い出せなかった。
「あんまり覚えてない」
「じゃあ、今はいったいなにに怯えてるんだ?」
「怯えてる? 僕が?」
「そう、君が」
怯えてる?
なにに?
どうして?
自問してみたが、やっぱり答えが出てこない。
「ジョルバンニが怖いのか?」
「あんな奴、全然怖くないから」
「あの男、だれかに似てると思わないか?」
「思わない、ちっと思わない」
あんな奴が二人といるわけがない。眼鏡の奥にある冷たい瞳に睨まれると、思考が停止してしまう。あの男こそが正義のような気さえした。
「俺は、ある人物を思い出すんだが……」
「だれ?」
「いや、君が思わないのなら、別にいいさ」
「そうだ、ちょっと兄さんに似てるかも」
刹那、唾を飲むような音が微かに聞こえてきた。ヴォルフは兄さんが嫌いだったからなにか言われるんだろう。そう思っていたが、少し間があってからようやく反応があった。
「なぜそう思うんだ?」
「なんとなく。ほら、正論吐くとことか、眼鏡をかけてるところとか」
「エディク・イワノフが正論だって!? その前に彼は眼鏡なんてかけてたか?」
「あれ……? いや、でも、だって……」
なにか変だ。
それは分かったが、考える前に息苦しさだけが増してきた。喉を絞められてるようで、気づかないうちに呼吸が荒くなる。胸に空気が入ってない気がした。
「なんか苦しい……」
「大丈夫か!?」
ヴォルフの手が優しく腕を撫でてくれたので、少しだけ落ち着きを取り戻せた。
「悪かった、変な質問をして。忘れてくれ。今はなにも考えずに寝たほうがいい。朝までこうしてるから」
“うん”と返事をしたものの、先ほどの質問がどうしても気になって、「僕は怯えてなんてないよ」とユーリィは小声で言った。
「分かってる、分かってるさ」
その言葉とともに、頬にキスをされた。
「そういうの、幼児扱いだぞ」
「恋人扱いだよ」
「なんだ、それ」
「いいから寝なさい」
どうしてそんなに辛そうな声なのか聞いてみたかったが、彼の言う通り、今は大人しく寝てしまおう。だけど瞳の中からヴォルフが消えてしまうのが寂しくて、手を伸ばす。握り返してくれた手のひらが温かくて、“ああ、久しぶりにヴォルフと一緒にいるんだなぁ”と実感し、冷たくなった心まで暖まった。
朝になったらもう一度話をしよう。
兄さんのこと、ちょっと考えた方がいいのかもしれない。
そう思っていたユーリィだったが……。
遠くで扉が叩かれる音がした気がした。激しくはないが執拗に何度も繰り返すから、うるさいと夢うつつに文句を言った。
しばらくしてようやく収まったので、安心して眠りに落ちて、なにかの夢を見た気がしたがあまり覚えてなくて、やがて日の光に起こされた。
眠ってから何分も経っていない感じだったが、実際はずいぶん寝たのだろう。
隣にヴォルフが寝てるのかと手を伸ばしたが、冷たいシーツの感覚だけが手のひらに触れた。
(まさか、寝なかったのかな)
少し心配になって、瞼を開ける。
横を向くと、やはりベッドにはだれもいなかった。
「ヴォルフ……?」
それでも近くにいるのだろうと思っていた。
変な自制心で床にでも寝ているのか。
馬鹿だなぁと思いつつ、体を起こす。ベッドの下を覗き込んだが、薄茶の絨毯が毛羽立っているだけだった。
ところが__
「侯爵、お目覚めですか?」
意外な人物の声に、ユーリィは跳ね上がった。
「なっ!?」
あろう事か、寝室の扉のすぐ横にはラウロ・ヘルマンが立っていた。




