第3話 嘘か誠か
屋根裏から降りたヴォルフとユーリィは、まずは昼食を取った。いつも通りの小さなパンと塩水で煮た豆のみ。ユーリィをよく知らない奉公人などは“とても辛抱強い方だ、さすがは金の天子”と褒めちぎっているが、ただ単に食が細いだけ。それに昼食は現状では贅沢だから、ユーリィもヴォルフも文句などあるわけなく、黙々と口に運んだ。
ユーリィに付き従い、ヴォルフが“謁見の間”を訪れたのは、昼をかなり過ぎた頃だった。謁見の間と言っても家臣が国王に拝謁するような場所ではなく、小振りの応接セットが置かれた、ごくごく小さな部屋だ。ユーリィが貴族のだれかと会う時は必ずその部屋を使っていたので、いつしかそう呼ばれるようになっていた。
そして訪れた謁見の間。
待っていたのはふたりの男。ひとりは赤茶の髪を綺麗になでつけ、立派な口髭を生やした四十過ぎ。いかにも貴族然とした彼は、フィッツバーンという名の侯爵だった。
ユーリィもその男も同じく侯爵だから、どちらかがどちらかにへりくだる必要はない。それでも彼は胸に手を当て、深々と挨拶をした。
「本日はとてもお日柄がよろしゅうございますな、ライネスク侯爵」
あざとい男の笑顔に、ユーリィはきっと何か思っただろうが、以前のように皮肉めいた返事はしなかった。だたし片眉はピクリと動く。その表情を見て、部屋の片隅に控えていたヴォルフは内心ハラハラしていた。
「ソフィニアも、ずいぶんと以前の活気を取り戻しているようで安堵しました」
「ええ、活気がありすぎて、警備が追いつきませんね」
場の空気を感じ取れない男に、ユーリィは軽い嫌みで返事をした。
「ライネスク侯爵も、きっとお忙しいのでしょうねぇ」
「僕は何もできないから忙しくはないですよ。そうだろ、ジョルバンニ?」
ユーリィは意味深な目をして、もうひとりの男を見やった。
彼こそが、ユーリィがキレるかもしれないと言っていたセグラス・ジョルバンニだ。オリーブ色の髪、銀の眼鏡、痩けた頬の彼は、だれもが神経質な男と思うだろう。肉という肉を削ぎ落としたような細い体も、その雰囲気に拍車をかけていた。
「いえいえ、ライネスク侯爵は毎日とてもお忙しいと思いますよ」
世辞とも本気ともつかぬ口調で言った男は、人差し指の関節を使って眼鏡を押し上げた。
ジョルバンニはギルド幹部のひとりだ。以前はそれほど地位が高くなかったらしい。しかしギルド組織の主要人物の多くが死亡した為、この二ヶ月でギルド代表のような地位まで上り詰めた。相当の切れ者らしく、言うことにいちいち抜かりがない。揚げ足取りの大好きなユーリィですら閉口している時がある。彼曰く、何を考えているか分からないから不気味とのことだ。
ジョルバンニの、ユーリィに対する態度は決して悪くはない。悪いどころか、公爵家の継承を積極的に薦めているほどで、他のギルド幹部のようにユーリィが妾腹だということについて、卑下しているような素振りは微塵もなかった。
確かに彼がユーリィを褒めたたえる様は、ユーリィでなくても気味が悪い。今もフィッツバーン侯爵に、ライネスク侯爵がいかに聡明で、このソフィニアのために尽力しているかを真顔で訴えていた。
ユーリィの口角がピクピク動く。それは笑みではなく苛立ちを表している。いつまでキレないでいられるのかと、ヴォルフは気が気でない。
「ジョ、ジョルバンニ、もうそれぐらいにして……」
ちょっぴり震え声。
「ああ、そうでしたね、すみません。私のような者が出しゃばってしまって」
「や、そうではなく……」
言いかけたユーリィだったが、諦めたのかフィッツバーンの方を向いた。
「それで、今回わざわざソフィニアにいらっしゃったワケは?」
「ああ、そうでしたそうでした。実はですね、私の領地もかなりの被害を受けまして、家畜もほぼ壊滅という有様でして……」
「それはどこも一緒」
若き侯爵のつれない即答に、愛想笑いを浮かべていた相手もさすがに気配を感じ取れたようだ。
「ええ、ええ、もちろん分かってます。ですが領民のほとんどが畜産で暮らしておりまして、今さら田畑を耕すわけにもいかないのですよ」
「どうしてです?」
「領民は農作については素人ばかりなんです。これから始めるにしても、食料が底を尽き、悠長にしていられる状況ではないので……」
「万が一に備えて、農業も工芸品もまんべんなくというのは、統治学の基本のはずですけどね?」
「ええ、まあ……」
冷めた追及に困り果てたのか、フィッツバーン侯爵はうつむいてしまった。
「悪いけど、僕にはどうすることも……」
するとジョルバンニが表情をほとんど作らず口を挟んだ。
「そうだ、ライネスク侯爵。例の件をお話しされたらいかがですか?」
「例の件?」
「セシャール王国の件です。ああ、私が申し上げましょう。実は先日セシャールからある申し出がありました。子牛を千頭、ライネスク侯爵に二年ほど貸していただけるそうです。もちろん二年後には五割増しで返さなければならないのですが。そうでしたよね、侯爵?」
「えっ!? あー、そうだったかな……」
ユーリィの顔には明らかな戸惑いの色が浮かんでいたが、ジョルバンニはそれを無視してさらに続けた。
「それをご都合なされるというのはどうでしょうか?」
「子牛だけじゃ、どうにもらならないんじゃないの?」
「いえいえ、食料は我々でなんとかいたします。ですから、ぜひ」
「どうなさいますか、侯爵? もちろん色々と苦言はおありでしょうが」
「その話が本当なら別にいいよ、本当ならね」
ユーリィの目つきも声色も言葉も、すべて苦言ばかりだと言っている。しかし残念ながら、この場でそれを感じることができるのはヴォルフだけだろう。それはひとえに、必死に堪え忍んでいる少年の努力の賜だった。
「でしたらギルドの方で他の方々にもお知らせしましょう。フィッツバーン侯爵家だけというわけにはいきませんから。幸い、イワノフ領の家畜はずいぶん残っているとのことですし、セシャールからの子牛を少々融通してもよろしゅうございますね?」
「ああ」
ユーリィの目はジョルバンニを睨み続ける。彼の疑念の答えがその顔に書かれているとでも言うように。しかしジョルバンニは青い瞳の視線など気にすることなく、相変わらず薄い表情でフィッツバーンと話していた。
「この件はもちろん、他家の方にもお話されてもかまいませんが、あくまでもライネスク侯爵のご厚意であることをお忘れなく」
「ええ、もちろんです」
「ご融通できる頭数は追ってご連絡差し上げますので」
「ありがとうございます、ライネスク侯爵」
和やかに立ち上がったフィッツバーンはその手を、同時に立ったユーリィへと差し出した。少々ためらいつつも、渋々握った少年は大人になったという証拠だろうか。けれど足取り軽くその相手が扉から出ていくと、さっそく彼はジョルバンニに詰め寄った。
「ジョルバンニ、今の話を一から全部説明しろ。セシャールのことなんて、僕はこれっぽっちも知らないからな」
「以前、侯爵は『家畜は外国から輸入してでもなんとかしなければ』とおっしゃっていましたよね? なのでセシャール国王へ親書をお送りしておきました」
「まさか僕の名前で出したのか!?」
「いえ、ギルドの名で。ただライネスク侯爵の代筆であることは書きましたが。それからお口添えをしていただけるようにと、フォーエンベルガー伯爵にもお願いしました」
フォーエンベルガーとは、先の事件でユーリィとの間にいざこざがあった男だ。一時はユーリィとの婚約まで噂された。もっともその時はユリアーナという名のイワノフ家令嬢ということになっていたが……。
リカルド・フォーエンベルガー伯爵は、現在セシャールの魔導師の娘と婚約中である。さらに彼には長年の継承問題があったのだが、セシャールとの裏取引で解決したようだと以前ユーリィが言っていた。
「ジョルバンニ、いったいお前の企みは何だ?」
「それはまた心外なことをおっしゃる」
狐にやや似た男は、心外とはほど遠い表情で薄らと微笑んだ。
「別に僕の名前を使わなくても、ギルドから要請すれば良かっただろ!? いちいち僕を引き合いに出すなよ」
「ですが、侯爵ご自身も同じようなことをお考えになっていたのでは?」
「それは……」
ジョルバンニの反論は的を射ていたらしい。苦虫をかみつぶしたような顔をしたユーリィは、違うとは言わなかった。
「やはりそうでしたか。きっとセシャールかルーベン、もしくはイワノフ家のつながりの深い国へお願いされるおつもりだったのでしょうね。もちろんフォーエンベルガー伯にも」
「確かにそうしようかとは思ってた。けど、イワノフの力を使うのはどうかと思ってね。だから近々ギルドから要請して欲しいと言うつもりだったんだよ」
「ギルドからの要請に、セシャール国王が応じて下さるとは思えませんね。二五〇年前のこととはいえ、ソフィニアギルドはセシャール国と戦争を行いましたし」
「まさかグラハンスの名も使ったんじゃないだろうな?」
自分の名前を出されてヴォルフはぎくりとなった。さすがにこれ以上、父に迷惑をかけるのは忍びない。落ちぶれたとはいえ、グラハンス家はセシャールでは有名である。ソフィニアと戦った英雄の子孫が、いまやソフィニアで仕えていると世間に知らるのは、きっと父にとって我慢がならないことだ。
「いえ、それはさすがにしてませんよ。以前も申し上げたとおり、弱体化した現在のギルドでは何をするにも力不足です。侯爵のお望みは存じ上げておりますが、ギルドが力を付けるまで、侯爵にはぜひご協力していただきたいのです」
「それはいったいいつまでだ?」
「さあ、いつになることやら。まずは民衆が飢えずに済むようにならなければなりませんね。では、私はこれにて……」
国王にでもするように、深々と頭を垂れて挨拶をしたジョルバンニは、足早に扉へと向かう。ノブに手をかけた彼だったが、すぐに首だけ巡らせて、表情もなく口を開いた。
「そうそう、言い忘れていました。ライネスク侯爵には必ずイワノフ公とお会いになり、継承問題についてお話し合いになることを、ギルドから正式に請求させていただきます」
「もしも父が譲りたくないといったらどうするつもりだ? まあ、譲るといっても拒絶するけどね」
「イワノフ公爵にはもうその決定権はございません。もちろんライネスク公爵にも。イワノフ家も一応はギルド貴族であることをお忘れなく」
その瞬間、ヴォルフは狐が牙をむいたような幻覚を見る。やはりこの男はユーリィに仇なす存在なのだろうか?
それ以上何も言わず、ジョルバンニは部屋から立ち去っていった。
男が消えると、少年はしばらく黙り込んでしまった。手の甲を噛んで堪え忍んでいる様子が不安感をかき立てる。
「大丈夫か……?」
それでもなお、青い瞳はひたすら宙を睨んでいる。
「ユーリィ?」
二度目のヴォルフの呼びかけに、やっと彼は顔を上げた。
「え、なに?」
「ずいぶん悩んでいるから」
「悩んではいないよ、考えていただけ」
確かにそうかもしれないが、眉間に寄った皺がどちらも正解だと言っていた。
隣に腰を下ろし、ひざにあった手に優しく触れた。必死に頑張っている彼を、せめて自分だけでも分かってやりたい。ただそれだけだったのに……。
「そうやって、また触るし。お前の発情力には感心する」
「いや、そうじゃなくて」
「愛情表現だって言いたいんだろ?」
「嫌ならやめるさ」
すると少年はヴォルフの手を握り返し、自分の顔へと持っていった。
頬を滑らせ、唇をふさぐ。
手のひらの感覚で、彼がキスをしたのだと知り、目眩がするほどゾクゾクした。
以前では考えられなかったその行動に、俺は愛されているんだと実感できる。それが嬉しくて抱きしめようと思ったら__。
愛がするりと逃げていく。
前に立った少年は、腰に手を当て、ふふんと偉そうに鼻で笑った。
「明日も予定がいっぱいだから、これ以上は駄目」
「もうちょっとぐらいしてくれても」
「その嫌らしい言い方はやめろ」
「せめて口と口でチューッと吸い合って……」
途端に頭をコツンと叩かれた。
「言葉を濁せ!」
声は荒かったが、上気した顔が可愛らしい。
何にせよ、元気になって良かった……。
と思うことにして、ヴォルフはコホッと空咳をした。
「ま、あれだ。君の言うとおり、あの男はきな臭い感じはする」
「ジョルバンニ?」
「そうだ」
「あ、うん、しかもあいつの目的がさっぱり分からないし」
ユーリィに分からないことが自分に分かるはずがないとは思いつつ、ヴォルフは頭に浮かんだ疑念を一応尋ねることにした。
「彼は正直者、という可能性は?」
「そんなわけあるか。たとえ僕自身が手紙を出していたとしても、セシャール国王があっさり子牛千頭なんて貸してくれると思うか? 裏で取引があるに違いない」
「君は一度陛下と会っているから、ということはないか?」
瞬間、少年は呆けた顔となったが、すぐに呆れかえるという表情に変化した。
「ヴォルフ、あの時僕が女装してたのを忘れたのかい?」
その口調は、教師が頭の悪い生徒に教え諭していると言ったところか。
「ああ、そうだった」
美しく可憐な少女が実は男で、しかもこの世界の救世主だったという事実にセシャール国王が感銘を受けた、というお茶目な動機を考えていた。
しかしそんなはずはなく。
「どうして僕の前には、次から次へと胡散臭い奴ばかり現れるんだろう」
疲れたという表情で、ユーリィは大きく息を吐いた。