第28話 森の中の秘密
馬車から小柄な老人が姿を現した時、ラウロの背筋は自然に伸びていった。
元領主のメチャレフ伯爵は、すでに七十に手が届くかという高齢だ。長い白髭と、後ろに流している真っ白な頭髪も、寄る年波には勝てぬことを物語っていた。だが、やや出た広い額と太い眉には、鷲を彷彿させる印象がある。鍛え上げられた戦士のような体格をして、きびきびとした動きは年の割には若々しかった。
口やかましく眼光鋭い伯爵だが、領民には人気がある。神父様によれば、メチャレフ伯爵は人の情をよくご存じだということらしい。寄付だけではとても賄えない孤児院を維持できるのも、伯爵から援助があるからだそうだ。
“それに比べて、あのお二人は……”
神父様が伯爵の話をする時は、必ず最後にそのお言葉で締めくくる。あのお二人とは、伯爵家の子息たちだ。長男のアシュトはそろそろ四十になるというのに未だ独身。貴族の令嬢から果ては娼婦まで、両手に余るほどの女性遍歴はあるそうだが、どうにも身持ちが悪いとの噂だ。そのせいで父親と喧嘩をして、現在は勘当同然の扱いを受けている。次男のミーシャは、結婚はしているものの奥方と伯爵との折り合いが悪く、これまた城には寄りつかない。
“メチャレフ伯爵家の将来が、本当に心配です”
そう言って、神父様は何度も首を振ったものだった。
そして今、そのメチャレフ伯爵がラウロの前に立とうとしていた。伯爵の隣にはライネスク侯爵がいる。今朝のことでショックが抜け切れていないせいか、いつもよりずっと浮かない表情をしていた。
「そなたは確か、ボワヴァン神父のところの……」
「は、はい。伯爵のお力添えにつきましては、神父共々感謝しております」
横にはアーリング士爵と、数人の指揮官らが整列している。その二人を差し置いて自分が先に声をかけられることに、ラウロは冷や汗が出るほど恐縮した。
「士爵の足を引っ張るのではないぞ、わしが叱られるからな。そうであろう、アーリング?」
「私が伯爵を叱るなど、滅相もございません。そればかりか今回のギルドの件で私が叱られそうですよ、伯爵」
“ふむ”と小さく言って、メチャレフ伯はわずかに考える素振りを見せた。しかしそれ以上はなにも言わず、「まあ、それはあとで話をしよう」とだけ声を落として返事をした。きっと出迎えた自分や他の兵士たちを気にしたのだろうと、ラウロは思った。
「それよりも、ライネスク侯爵よ」
隣に立っている少年を見下ろした伯爵の顔は、やや厳しくなった。
「はい」
「そなた、ずいぶんと疲れたような顔をしておるな?」
「いえ、そんなことは……」
「そなたと初めて会った時は忘れぬぞ。人を小馬鹿にしたような生意気な態度に、わしもそうとう腹を立てたものだ。それがどうだ、今はまるで魂の抜けたような顔をしておる」
まったくその通りで、侯爵は心ここにあらずといった表情をしていた。
「伯爵、侯爵は少々お疲れなのですよ」とアーリング士爵。
「政治のことで、子どもが疲れるほど必死になる必要はないと思うが。まあ、良い。そなたとは今夜、じっくり話そうと思ったが、わしはアーリングと杯を酌み交わすことにする」
「分かりました」
侯爵の返事には、なんの感情すらこもっていなかった。
「本当に疲れているようだな。あとでわしが持ってきた薬草を分けてやろう。滋養強壮には効果覿面だ。それを飲んで今夜は早く寝なさい」
伯爵と侯爵のふたりは肩を並べて、白いエントランス階段を上り始めた。侯爵はどこかうつむき加減だ。緋色のマントも心なしか、寂しげに揺れている。それを気にするように時折、伯爵は少年をチラチラ見ていた。
メチャレフ伯爵は案外、侯爵が好きなのかもしれないなと思い、それはそれでラウロは嬉しく思った。反面、侯爵の元気のなさが心配であることも確かだ。
彼は笑った時が一番素敵なのだ。
尊大な態度で笑った時は気品に満ちた美しさがあり、照れたように微笑んだ時は少女のように可愛らしさがあり、その差異がラウロの心をつかんで離さない。あの海色の瞳が輝くと、それだけで幸せな気分になった。
だけど今は、夜に沈む湖みたいに青い瞳は闇色に染まり、それがすべて自分のせいなんだと感じていた。
なんで俺はちゃんとお守りすることが出来なかったんだろう……。
民衆に囲まれ、恐怖の表情を浮かべた侯爵の顔を思い出すと、心が痛くなった。
伯爵たちの後ろを、アーリング士爵と指揮官たちが着いていった。それを見送り、ラウロはホッと息を吐く。元領民ということで士爵が気遣ってくれたのだろうが、本当のところ無用の親切ではある。イワノフ城から戻ってきた時もそうだったが、先輩兵士たちからの風当たりがますます強くなる方がずっと辛かった。
「さて、俺も……」
バケツを取りに行かなくちゃと、その場を離れようとしたその時、気配を感じてなんとなしに顔を上げた。
宮殿の屋根の上になにかがいる。
藍鼠色のなにか。
「あれ、もしかして……」
間違いない。狼に似た侯爵の使い魔だ。
以前ラウロもあの魔物に助けられたことがある。もっとも魔物が助けた相手は自分ではなくてグラハンスだったが、結果的にそうなった。
あの時と同じ魔物は今、宮殿の屋根に立ち、遠くを眺めていた。
「なにをしてるんだろう?」
「あの魔物でしょうかね、侯爵を連れ出したのは」
ラウロは“ヒィ”と叫んで数歩退く。心臓が爆発するかと思った。
振り返るとそこに、眼鏡の男 ――名前は確かジョルバンニといったはず―― が立っていた。どことなく存在感がないせいか、そばにいたことも全く気づかなかった。
「あ、あの……」
「ラシアールの話では、人間どころか並の使い魔ですら太刀打ちが出来ないほど強いらしい。となると少々厄介な……」
「厄介って?」
ラウロの質問に、男はわずかに眉をひそめた。
「こちらの話だ。それより君はヘルマンといったかな? 侯爵とは親しいのようだが?」
「と、年が近いから、し、親しみを感じてくださっているだけです」
顔が赤くなるのをどうしても止められない。
そんなこと思っちゃダメだって、背徳なことを考えちゃダメだって分かっているのに。
今の今だって申し訳ないと思う反面、ちょっとでもおそばにいられたことを喜んでいる自分がいる。
気持ちを悟られたのではないかと、ラウロは相手の顔色を窺った。だが男は無表情のまま、当たり障りのない言葉を返してきた。
「お若い侯爵にとっては、我々のような年配者に囲まれてばかりだと息もお詰まりになるのは確かだろうな」
「たぶん……」
それ以前に、侯爵はあなたが好きではないはずだとラウロは心で呟いた。
どうにも冷たい印象のある男である。彼には体温というものがないのではと思うほど。せめて着ているグレイの服を、もう少し暖かみのある色にすれば印象は変わるだろうに。
あまり関わらない方がいい。そう思って意識を屋根に戻すと、ちょうど魔物が屋根の縁へと動き出した。
刹那、馬ほどの大きさがある藍鼠色の狼は、軽やかに屋根から飛び出した。見えない地面があるかのように、四肢が宙を駆る。その躍動感ある動きに見とれ、ラウロは旋回する魔物をしばし眺めていた。
もしも侯爵の使い魔でなかったら、恐ろしいと感じたことだろう。だが今は、光の粒を散らして走るその姿に、美しさを感じるばかり。魔物に感銘を受けるなんて初めての経験だ。
「おや、侯爵を探しているのかな?」
隣に立つ眼鏡の男が、同じように空を見上げている。
「どうでしょう」
「まさか、侯爵はまた外に出られるおつもりなのか……」
違う。侯爵を外に連れ出したのは、あのでっかいコウモリみたいな化け物だ、と言おうと思ったラウロだったが、やっぱり止めにした。
そのことはふたりだけの秘密にしておきたいし、誰にも知られたくはない。神にだって本当は内緒にしたいくらいだ。
「どこかに行くようだね」
そう言われ、ラウロは魔物の動きを注視した。なるほど、旋回はしているが徐々に宮殿の裏へと円の中心が移動しているような感じだ。
「どこへ行くのでしょう?」
「さぁて、ラシアールたちは自分の使い魔を近くの森に隠しているという話だが、あの魔物の居場所は……」
黙ってしまった男は、すぐに信じられない命令をラウロに下した。
「ヘルマン君、追いかけたまえ」
「追いかけるって……」
「きっと宮殿の敷地外には行かないはずだ。ほら、行きたまえ」
「で、でも……」
そんなことをしたら侯爵が悲しむ気がした。
悲しむどころか、もし知られたら本当に二度と口をきいてもらえなくなるかもしれない。
侯爵が好きではない男の命令に従うなんて嫌だ。それに眼鏡の向こうにある琥珀の瞳に、得体の知れないものが隠されている予感すらあった。
すると突然、男は破顔して、
「ではこんな条件はどうだろうか。君を侯爵付きの警護兵にすると言ったら?」
「警護兵ですって!?」
「ひとり足りないと思っていたところなのだ」
心が揺れ動く。
ちらつかされた餌は、拒絶ができないほど香しく、そう、まるで侯爵を抱きしめたかのように……。
「俺は……」
「それほど深刻に考える必要はない。敷地から出て行ってしまったら、それはそれでかまわない。もちろん侯爵にご迷惑をおかけするつもりもない。あの魔物の居場所が分かれば、人を近づけないようにしようと思っているだけだ」
「あ、はい」
なるほど、そういう理由か。
と納得しようとしている自分がいる。でも心の半分は嘘に違いないと訴えていた。
「分かってくれたようだな。では行きたまえ。早くしないと追いつけなくなる」
首を上げた相手に同調し、ラウロもその方角を見やる。魔物は旋回しながらも、徐々に遠くなっている。
「ほら、早く!」
鋭い声に促され、ラウロは左の方へと走り出した。
宮殿の庭は、花壇によって幾何学模様を描かれている。芸術的には素晴らしいんだろうけども、今のラウロにとっては厄介な造りだ。花壇に沿って道がうねうねと蛇行して、なかなか前には進めない。
しかたなく花壇をまっすぐ突っ切ることにした。まだ庭園の手入れが開始されたばかりで、なにも植えられてないから。そう思ったのに、狼魔を見上げながら走っていたので、丸く囲んでいる煉瓦につまずいて何度も転びそうになってしまった。所々に植えられている常緑樹も邪魔だった。
(あっ!)
狼魔は徐々に宮殿の裏へと降下して、とうとう陰に隠れてしまった。だから目で追いかけるのは諦め、必死に走る。
やっとのこと宮殿の左端に到達したが、ラウロの息はそろそろ限界に来ていた。
そもそも宮殿はイワノフ城の三倍もあろうかという大きさがある。正面からは横に長い建物に見えるが、本当は四角い箱の一辺が取れたような形をしていた。
宮殿の裏には、前庭よりもっと広い庭園が広がっている。三方向を御舘に囲まれた場所と、小さな溜め池、少し離れた場所にある薔薇の庭園、一番奥にある小さな森。それらすべてをひっくるめて中庭と呼ばれていた。
狼魔は今、その森へと降りていこうとしている。
(あの中に隠れてたのか)
そう納得し、とにかく先を急いだ。
池の縁を周り、庭園の茨をかいくぐり、ラウロは森へと突入した。魔物の姿は見えなかったが、それほど広くもない森だから、飛び立たない限りきっと出会えるはずだ。
(ってか、出会ったらどうするんだよ、俺!?)
ラウロの足は次第に動かなくなっていった。
出会ったあとのことなんて、これっぽっちも考えていなかった。いくら侯爵の使い魔とはいえ、相手は魔物だ。襲ってこないとは限らない。散々走り回って今頃気づくなんて、なんともマヌケな話だ。
(あの人、どうしろって言ってたっけ?)
追いかけろとは言われた。
でも挨拶をしろとも、戦えとも言われなかった。
つまり森に入ったことを確認できれば任務終了のはず。
(じゃ、じゃあ、もういいのな?)
“いいよー”とすぐに自分が答えてくれた。
回れ右。今来た方向へと戻り始める。
しかしその矢先、嫌な気配を背後に感じてしまった。
慌てて木陰に飛び込んで様子を窺う。万が一あの魔物が現れてもいいように、自分の口を両手で塞いだ。
やがて、幹と幹の間から藍鼠色の魔物が姿を現す。狼に似てはいるが、体の大きさも、口の大きさも、はみ出た二本の牙もまるで違う。
(綺麗だけど、やっぱ怖い……)
木漏れ日に魔物の瞳が鋭く光る。その威圧感に背筋がゾクゾクした。
少しずつラウロの方に近づいてくる。やっぱり逃げた方がいいのだろうかと思っていると、狼魔は急に立ち止まった。
(気づかれた?)
冷や汗が背中を伝っていく。口を押さえていたのは、まさに先見の明。じゃなかったら、きっと大声を上げていたことだろう。
すると__
藍鼠色をした体が突如、黄金の光に包まれ始める。
いったい何が起ころうとしているのかと、ラウロはひたすら狼魔を眺めていた。
やがて光は大きく広がって、魔物を完全に包み込んでいった。内部がどうなっているのか眩しくて分からない。もしや魔法を使おうとしているのかと、戦々恐々たる思いで、息を殺して見守り続ける。本当は足が震えて動かないだけだった。
そうしているうちに、光は少しずつ薄くなっていった。消散と言ってもいいだろう。
光が消えるとともに中から見えてきたもの、それは……。
(え……まさか……)
魔物と同じ藍鼠色の長い髪をした男。その彼が、魔物のいた場所に立っているのだ。
とても信じられなくて、ラウロは口に当てていた手で片目を擦った。
(なんで……)
自分の目が未だ信じられない。
だって以前あの魔物を見た時は、彼は確かに自分の前にいたのだから。
小さく首を振った男は、己の額に右手をあてた。朦朧としているのか、体がゆらゆらと揺れている。足元もおぼつかないらしく何度かよろめいた。
大丈夫かと声をかけるべきか、見てしまったことを秘密にすべきかとラウロが悩んでいるうちに、男はゆっくりと歩き出した。
はじめの数歩こそふらついていた男は、すぐに足取りはしっかりとしてきて、ラウロの横を通り過ぎようとした。
その時、男の顔がふと動く。色違いの瞳が確実にラウロを捉えた。
「あ……」
その声を発するや否や彼は迫ってきて、ラウロの首根っこをつかみ、背後にあった木の幹に押さえつける。驚きと苦しさにラウロは呻くことすらできなかった。
「お前、見たのか?」
魔物かと思うほど、低く恐ろしげな声だ。
違うと嘘をつくこともできず、それ以前にしゃべることもできず、ラウロはただ相手を見つめる。恐怖のあまり泣きたくなった。
しばらくそうしていると、男はようやく力を抜いてくれた。
「悪かった」
謝られたものの、未だ心臓の高鳴りが治まらない。なにか返事をした気がしたが、自分でなにを言ったか分からなかった。
「だが、君はなぜここにいた? だれかに頼まれたのか?」
「あ、あの、グラハンスさん、俺……」
相手の名前を口にした時、ラウロの心臓はふたたび激しく動き出した。




