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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第二章 冬霞
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第26話 「ご加護を!」

「バケツを持つと僕が現れる、という魔法だ」


 冗談とも本気ともつかない顔で彼がそう言った。

 数秒ラウロは立ち尽くし、やがて止まった思考のまま漠然と呟く。


「ああ、魔法で……」

「嘘に決まってるだろ」


 食い込み気味に否定され、ふたたび脳みそが停止した。

 きっと端から見れば、ぽかんと口を開けた間抜けな表情をしていただろう。近づいてきた侯爵も、楽しそうに綺麗な顔をほころばせている。


「もしかして、これが運命の出会いってやつ?」


 冷静な時なら冗談だと気づいたろう言葉が、水のようにラウロの耳へと流れ込むと、途端に心臓が暴れ始めた。息苦しさは半端じゃなくて、胸を押さえて背中を丸める。


「うぅ……」


 一瞬、告白されたかのかと思ってしまった。

 もちろん、そんなはずはないのだけれど……。


「え、なに? 急病!?」

「あ、いえ……大丈夫……です。ちょっと苦しくなっただけで……」

「それ、急病だから。早くだれか呼ばないと。あ、その前に横になった方がいいな。ラウロ、寝転べ」

「あ、ま、まっ……」


 体を起こそうとしたところを押されてバランスを崩し、思わずつかんだ侯爵の腕ごと後ろへと倒れていく。尻の衝撃に手放したバケツが飛んでいった。それでもまだ勢いは止まらない。背中と後頭部に痛みが走り、気がつけば細い体を抱きしめ地面に寝転んでいた。


「うぅ……」

「おい、大丈夫かよ」


 すぐ目の前にあるのは、美しい少年の顔。頬にかかった髪が、朝日を浴びて金色に輝いている。瞳は海に浸った宝石のようで、唇は濡れたように艶があり、それらがあまりにも近すぎて、どうしていいか分からない。心臓はさらに加速して、耳に響くほど波打ってる。もうそろそろ死んでしまうような気さえした。


「あ、あ、あ……」

「ちょっとだけ我慢してろ。医者をすぐ連れてくる!」


 体を起こし、立ち上がろうとした侯爵の細い腕を慌ててつかんだ。


「だ、だ、大丈夫ですから。本当になんでもないんです」

「でも顔が真っ赤」

「これは持病で、顔が赤くなる病気なんです」


 出任せとはまさにこのことを言う。

 後先なんて考えず、とにかく大げさなことにならないように必死だった。


「……なに、その病気」

「えっとえっと、昔から驚くと顔が赤くなるんです」

「でもこの間、宮殿で叫んだ時は赤くなってなかったぞ?」

「あ、あの時は暗かったから」

「ふぅん」


 しばらく考えていた侯爵は、ラウロがつかんだ腕を振り払った。

 きっと嘘がバレたんだろう。噂によれば相当頭の良い方らしいから、こんな出任せなんてすぐに見抜かれるのは当たり前だ。

 正直に告白すべきか、それとも嘘の上塗りをすべきなのか悩んでいると、冷たい手で額に触られた。


「熱はないね。胸が苦しいのは持病とは関係あるの?」

「あ、えっと、びっくりすると息も詰まるんです」

「おまえ、一度医者に診せた方がいいぞ。なんだったら宮殿に呼ぶよ?」

「これは医者にも治せない病気ですから」

「奇病ってやつ?」

「あー、はい」


 痛みが残る背中と頭を押して、ラウロは上半身を起こした。

 最初のショックから抜け出し、虚ろになった意識の中でひたすら別の自分が呟いている。

 抱きしめてしまった。

 抱きしめてしまった。

 抱きしめてしまった。

 手に残る感覚は、壊れそうなほど細くて……。


「大丈夫?」


 隣に腰を下ろした侯爵が、心配げな表情で覗き込んできた。


「あ、はい」

「驚かせるつもりはなかったんだ、ごめん」

「お会いできたのは嬉しいですから。でもなぜここに?」

「色々つまらなくてさ、この間みたいに散歩にね。散歩って言うか飛んだんだけど」

「飛んだ!?」


 侯爵は銅像のように動かない魔獣を指さした。


「あいつに連れ出してもらった」

「ああ……。でもあの魔獣は動くんでしょうか?」

「動くさ。見たい?」


 本当は見たかったけれど、嬉しそうに微笑む表情に、これ以上は耐えられなくなると、ラウロは慌てて拒絶した。


「いえ、今は。それより早くお戻りにならないと、皆さん、心配するのでは?」

「どうだか……」


 口を尖らせた表情すら可愛いらしいと思ってしまう。奇病はもう末期状態に入っているようだ。


「少なくてもアーリング士爵はご心配なさると思います」

「あー、アーリングは優しいかもね。初めて会った時はすごい喧嘩したけど」

「あ……」


 その件に関してはラウロも噂には聞いていた。ふたりはかなり反目し合い、口論を聞いた者はみな青くなったそうだ。だから今はその話を蒸し返すのは良くないと、なるべく穏やかに話を逸らすことにした。


「とにかく宮殿に帰りましょう、侯爵」

「でもラウロは水汲みに来たんだろ?」

「それはあとでも構わないので」

「っていうか宮殿に大きな貯水池があるじゃん。あそこは地下水が湧き出ているから、ここにわざわざ来なくても……」

「自分用のです」


 困惑したような顔を見て、どうやら事情を知らないようだと分かり、ラウロは簡単に説明をした。

 イワノフ城からソフィニアに戻ってすぐ、ラウロは宮殿近くのアパートに移るように指示された。もともと王宮時代に宮殿の近衛兵用に造られた建物で、つい最近までは一般市民が住んでいたらしい。その彼らを引っ越させ、劣悪な環境にいたラウロたち兵士が寝泊まりできるようにしてくれた。一部屋に八人ずつの窮屈さはあるものの、前よりはずっと快適な毎日だった。


「俺はてっきり侯爵のご配慮かと思っていました」

「僕じゃないよ。たぶんジョルバンニじゃないかな、あの眼鏡男。もしくはアーリング」

「きっと侯爵のお手間を省こうとお思いになったんですよ」

「へぇ」


 侯爵は明らかに不機嫌になった。瞳もはっきり分かるほど輝きが失せている。

 いったいなにが悪かったか分からず、ラウロは困惑して口ごもる。謝る言葉すら見つからなかった。

 その困惑が顔に出ていたのだろう。

 不安げな声で侯爵が「ごめん」と呟く。その表情はラウロがキレたあの時と同じで、叱られた子猫のように寂しげだった。

 また視線を逸らされる。

 瞬間的にそう思った。


「侯爵、やっぱり宮殿へ戻りましょう! ちょっと待っててください」


 飛ばしたバケツを大急ぎで拾って草むらに隠し、侯爵のところへとまた戻る。彼はただ佇んでいて、悲しげな表情もそのままだった。


「気にしないでください」

「うん、でも……」

「俺、任務は昼からなんで午前中は暇……」

「あのさ!」


 また食い込み気味に遮られる。

 さっきよりも必死な形相は、見ている方も緊張してしまう。

 まさか、そんな、もしかして……。


「なにか困ったことがあったら、僕に直接言えばいいよ。僕ができることならなんでもするから。ええと、もちろん迷惑じゃなければってことだけど」


 徐々に語尾が消えていく。視線も下がり、まるでラウロの靴と話しているようだ。

 期待していた言葉とは違ったけれど、こんな自分を気遣ってくれているのだと思うだけで幸福になる。

 ああ、もしも身分の差がなくて、同性でもなければ、もう一度抱きしめたい。

 そう思わずにはいられなかった。


「分かりました、そうします」


 きっぱり言い切ると、彼の視線が少し上がり、青い瞳が光を帯びる。「絶対そうしろよ」と言った声にもどこか力がこもっていた。



 それからすぐ、ふたりは池をあとにした。のんびりとソフィニアを散策しながら宮殿に戻るのも悪くないと思っていたラウロだったが、それが難しいと分かるまで時間はかからなかった。

 緑地から出ると何人かとすれ違った。彼らは侯爵にすぐ気づいたようで、立ち止まり、振り返り、こそこそと話を始める。最初はその程度だった見物人も徐々に増え、後ろを着いてくる者まで出始めた。

 とにかく黙って道を急ぐ。いずれ彼らも諦めるだろうとラウロは考えていた。

 ソフィニアには南北と西東を繋げる十字の大通りがあり、宮殿には南北通りをまっすぐ行けばいい。緑地から続く道を過ぎ、右に曲がってその大通りに出ると、騒ぎはますます酷くなった。

 背後からは大勢が着いてくる。大通りにいた者たちも、金の天子だとすぐに気づいたようだ。わざわざ家に戻って家族や知り合いを連れてくる者もいる。横道に駆けていき、“金の天子がいらっしゃるぞ”と大声で叫ぶ馬鹿者まで現れる始末だった。

 歩けば歩くほど、道は人やエルフでごった返す。その頃になってやっとラウロは焦りを感じ始めた。

 確かに侯爵は名望があるが、すべての者が敬愛しているとは限らなかった。魔物に襲われて治らない傷を負った者がいる。親兄弟を殺された者もいるだろう。それを侯爵のせいだと逆恨みをする者がいることを、ラウロはよく知っていた。

 ラウロが物心のついた頃、教会に子どもの病気を治して欲しいと男が頼みにきた。神父様は三晩も寝ずに神に祈り続けたが、とうとう子どもは息絶えた。

 男は神父様を酷く罵った。子どもが死んだのは祈りが足りなかったせいなのだと。

 その子は神に召される運命だっただけだ。神父様は一生懸命お祈りしていたじゃないか。

 幼心にも、ラウロはその理不尽に腹を立てた。

 しかしそれは嫌な思い出の始まりにしか過ぎなかった。そうしたことは何度も起こり、そのたびにラウロも他の子どもたちも心を痛めた。


「急ぎましょう、侯爵」


 今は自分だけが彼を護る役目にある。けれど人はますます増えてきて、走ることすらできやしない。ひたすら“退け”と叫び続け、無意識に細い腕をつかんで引っ張り歩く。とにかく必死だった。

 ふと、前方にいる見物人の中から“薄汚い不義の子だ”とヤジが飛んだ。

 とうとう恐れていたことが起こってしまったのだと、そう思った。

 だが事態はラウロの予想を遙かに超えていた。

 ひとりが「こいつが言ったぞ」と隣の男を指さした。男は違うと否定したが反対側の男が殴り倒した。ところが殴られた男の後ろにいた者が「弟になにをするんだ」と、殴った男を殴り返す。やがて数人の乱闘騒ぎとなっていった。

 侯爵は心配そうに立ち止まりかけたが、ラウロは強引に引っ張った。

 気にしていたらもっと酷くなる。早くここから抜け出さないと、侯爵になにかあってからでは遅いのだ。

 ところが、そんなふたりの前に人混みから突如現れた女が立ち塞がる。彼女は抱えていた赤子を差し出すと、「天子様、どうかこの子に神のご加護を」と懇願した。


「ぼ、僕は……」


 狼狽し、侯爵が口籠もる。


「どうかご加護を、天子様」


 女はふたたび言った。


「僕は天子なんかじゃ……」

「我が子は目が見えません。どうかどうかお願いいたします」


 母親に気圧されて、赤ん坊へと片手を伸ばしかけていた侯爵の腕をラウロはつかんで引き戻した。


「侯爵はお疲れなのです」


 この方に神父様のような目には遭わせてはいけない。

 彼はただの少年なのだから。

 天子なのではなく、笑ったり怒ったりすねたりする普通の少年なのだから。


「でもどうか……」

「駄目です」


 俺が悪者になればいいと冷たく言い放つ。

 ところが、いつの間にか親子の隣に老婆がひとり立っていた。


「私にもどうかご加護を」


 しわがれた病人のように弱々しい声のわりに、素早い動きで近づいてくると、彼女はいきなり侯爵に取りすがった。わざとらしさは感じたものの、嘘だとも言い切れず、ラウロも押し退けるべきかと迷ってしまった。

 その一瞬のすきに、母親は泣き出した赤子を侯爵の腕にぐいぐいと押しつけて、さらにくたびれた中年男がやはり「ご加護を」と口にして、老婆の後ろから金の天子に手を伸ばす。そこから先はなにがなんだか分からないほど大混乱に陥った。

 ラウロがいくら下がれと怒鳴っても、だれも聞き入れる者はいない。我先に天子のご加護を求めて腕を出す。すでに侯爵は数十本の手に囲まれ、身動きが取れなくなっていた。その顔は恐怖に引きつり、それを見たラウロは民衆を殴り倒してでも彼を助けなければと焦りを感じた。

 しかし力及ばず、体を押されて地面に手をつく。

 ああ、神よ、マヌハンヌスよ。

 どうかあの方を、金の天子をお守りください。

 無意識にそう叫んでいたかもしれない。だからきっと、神が聞き届けてくださったのだろう。

 アッと叫ぶ声がした。うずくまっていたラウロの目に、地面を横切る影が映る。驚いて顔を上げれば、浮遊する魔物が見えた。

 人々の頭上をかすめるように飛ぶ、ムカデに似たその魔物の背には男がひとり。あれは間違いなくラシアール族だ。

 助けに来てくれたのだ。


「おまえら、侯爵から離れろ!!」


 さすがに魔物の恐怖を忘れていない人々はその声を聞いた途端、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

 残されたのは呆然と立ち尽くす侯爵と、己の不甲斐なさに落胆したラウロのふたり。

 ムカデの魔物が地面へと降下して、その背中から背の高い男が飛び降りた。


「侯爵、大丈夫ですか!?」

「ブルー!」


 侯爵はエルフへと駆け寄っていく。

 そんな様子が悔しくて、ラウロは唇を噛んで地面を睨んだ。


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