第23話 目眩
さっきから目眩がする。
なんでだろう?
ジョルバンニが喋っているのになんにも聞こえなくて。逃げてばかりじゃ駄目だって、前々から分かっていたんだから、ちゃんと考えなくちゃいけないのに……。
朦朧とした頭で、ユーリィはそんなことばかり思っていた。
会議は滞りなく進められ、物資輸送やソフィニアの警備などがラシアールとアーリングから報告された。
メチャレフ伯爵が近日中にソフィニアに来ると連絡があったとか。ジョルバンニが確かそう言ったと思う。けれどユーリィは上の空でうなずいて、その意味を深く考えなかった。
大方のことが決まり、全員が立ち上がるのを真似して、ユーリィも腰を上げた。
刹那、目の前が白くなる。頭がふらつき、宙に浮くような感覚で、体が後ろに傾斜していく。遠くで「あっ!」と叫ぶ声がした。
なにが起こったのか自分ではよく分からない。視野が戻ってきた瞳には、白地に藍色の幾何学模様が描かれた壁が映っていた。
それが天井だと分かったのと、背中を支える腕に気付いたのはほぼ同時。腕の主がアーリングだと理解したのは、さらに数秒あとだった。
「侯爵、大丈夫ですか!?」
「あ……ごめん、なんか目眩がした」
「お疲れのようなので、部屋に戻られてお休みになった方がよろしいかと」
「うん……」
右目でジョルバンニを見る。
冷たく光る眼鏡の縁に、馬鹿されたような錯覚に陥った。
こんなことで体調を崩したと思われたくはない。弱さを見せれば、その分だけつけ込まれる。もっともっと酷い言葉を浴びせ、心を殺そうと企むに違いない。
そう思うと少しだけ力が湧いてきて、ユーリィはアーリングの腕を軽く振り払った。
体を起こす。けれど、まだ足は震えていた。
「でも平気」
余裕もないのに、なんてくだらない強がりだろう。
そう分かっていたけれど、ユーリィはなおさら表情を硬くして、震える両足に力を入れる。まだ負けてはいないし、諦めてもいないと心の中で言い張った。
気を遣ったのか、皆が退室するのをためらっている。それすらも気に入らなくて、先に行けと言い放つと、ブルーが明るい声で「お言葉に甘えて」と答え、足早に扉へと歩いていった。
意地を張っていた心が急速に萎んでいく。未熟な自分が、ブルーの優しさに比べてあまりにも醜く感じてしまった。
繰り返す失敗を、どうして活かせないのだろう?
もしかしたら僕は、一生大人になれないんじゃないだろうか。
そんなやるせなさを抱え、ユーリィは退室していく者たちを漠然と眺めていた。
ブルーの後ろを長老シュランプが続く。
左にいた冷淡な男はひと言も発してくれず、ギルドの三人とともに立ち去った。
残念だったのは、オーライン伯爵ことアルベルトの態度だ。味方だと思って連れてきたのに、会議で一度も発言するもことなく、その場に留まることもなく、他の者たちと同じように扉から消えていく。
結局、意味のない策略だったということだろうか。己の先見に幾ばくかの不安を感じずにはいられない。
意外なことに、アーリングはまだ気遣うような目でこちらを見ている。その視線がユーリィを少々混乱させた。
「あの、本当にもう大丈夫だから、アーリング士爵」
「あの男の言っていたことなどお気になさらずに、侯爵」
「してないよ、ありがとう」
嘘だ。
だけど言わずにいられない。
ジョルバンニに卑怯者呼ばわりされたことが、こんなに心をえぐられるなんて思ってもみなかった。
そのせいだろうか。突然、アーリングの本音を尋ねたくなってしまった。
「あのさ、ちょっと聞いてもいい?」
「なんでしょうか?」
「僕が卑怯かどうかは別として、どうして士爵は自らソフィニアを作り替えようとしないの? 士爵にはそれができる力がある、実績もある、民衆の信頼もある、そして優秀な麾下もいる」
ユーリィは視線を動かして、こちらを注目しているディンケル他二名の様子を窺った。
彼らが気にならないはずがない。アーリングを越えたい存在だと覇気を見せていたが、そんなことを公言できるほど信頼を寄せている相手なのだから。
「士爵がいったいどんな気持ちで僕を支援してくれるのか説明が欲しい」
「なるほど」
なにを納得したのか、アーリングはそう言うとしばらく口をつぐんだ。見ようによっては、どうやって詭弁を弄そうと謀っているようにも見える。その可能性が十分にあった。
「そうですなぁ……。仮に武力で制圧する必要があるというのなら、自分は迷いもなくその任に就くでしょう。その相手がギルドであっても、貴族であっても、侯爵であってもです」
「士爵は権力が欲しくはないの?」
「権力ですか……。果たして、権力とはいったい何なのでしょうな? 人々に平和と幸福をもたらすものなのか、それとも己の力と欲望と信念を満足させるためなのか。今回のことで自分も大いに考えさせられましたよ。残念ながら、まだ結論は出ておりませんが」
彼の言わんとしていることを理解して、ユーリィは軽くうなずいた。
「あの男の言ったことなど、お気になされるな。侯爵はソフィニアを良くされようとお考えなのはよく分かっておりますから。自分は、微力ながら力をお貸しするだけです」
言葉は飾りにしか過ぎないから、疑ってしまえば、この世界の者がすべて自分を騙そうとしているのように思えてしまう。その中にどれほどの真実が含まれているのか、必死に感じるより他ない。
けれどやっぱり言葉の真実など感じるのは難しかった。今できるのは「ありがとう」と返事をするだけ。その謝礼がアーリングにどう届いたのか、分かるほど大人ではない。それに昨日の真実が今日の虚偽で、今日の虚偽が明日の真実なんてよくあることだ。
そんなユーリィの気持ちに同調するかのように、ふたたび口を開いたアーリングは、きつい釘を打ち込んできた。
「ただし、貴方やあの男が私欲のために動くのなら、ためらいなく剣は抜かせていただきます。努々お忘れ召されるな」
赤毛の英雄は部下たちを伴い退室した。
そして残されたのはふたりだけ。外にはきっと従者たちが待っているだろう。この部屋を出てしまえば、次に話せるのはいつにのことやら。そうは思うのに、先ほどの暴走が心に引っかかって、ユーリィは自ら動けなかった。
円卓の向こうにいた彼が、黙って近づいてくる。色の違う瞳がどちらも淡く光っていた。
やがてヴォルフが前に立つ。伸ばされた片手に肩がビクッと震え、少し首をすくめて身構える。けれど心のどこかに、優柔不断な態度を叱って欲しいと願う自分がいた。
「やっぱり熱があるな」
ヴォルフの手のひらが額に触れた。その冷たさが心地よくて、怯えた心が癒される。こういう時間が本当に好きだ。だれにも奪われたくないから、だからあんなにむきになってしまったのかもしれない。
「寒くないか?」
「ないよ」
「さっき倒れかかったから、気になってたんだ。ちゃんと寝てるんだろうな?」
「うん……たぶん……」
寝ているか寝ていないか分からない、夢うつつな夜がずっと続いている。独りになると寂しさが心を支配して、広いベッドがひどく寒かった。
「俺が一緒にいてやれない分、自分のことは自分で守れよ」
「子ども扱いするな」
「本当は甘ったれのくせに、あいかわらず生意気だな、君は」
反射的に腕を伸ばして、軍服の胸を抑えつける。抱きつけないように、そして抱きつかないように。それが精一杯の強がりだった。
「あのさ……ごめん……」
「なにが?」
「ヴォルフの立場が悪くなったから」
髪をグシャリと鷲づかみにされた。だけど強くつかまれたわけじゃなく、すごく優しいから心が痛くなる。
以前みたいに説教臭いことでも言われた方が、ずっと気が落ち着くのに……。
「気にするな。遅かれ早かれ、こういうことは起こる覚悟はできてたんだ」
「でもさ、ジョルバンニは完全におまえに目をつけたし」
「そんなの、とっくの昔につけられてるさ。それに理由はともあれ、セシャールに戻るのは悪くないよ。妹が生まれたらしいし、一度ぐらい会わないとな?」
「うん……」
ヴォルフは明るくそう言ったが、グラハンス家断絶の確率が高くなったから、ユーリィは素直に喜べなかった。
それに、ジョルバンニが匂わせていた政略結婚の件も気にかかる。本気でセシャールの第三王妃をと思っているのなら、どうやって逃れれば良いのか。無碍に断れば、グラハンス家にも悪影響を及ぼすと推測できた。
「セシャールに戻る時は、さすがにこの軍服を着ていくわけにもいかないだろうな。見た瞬間、オヤジが怒りで卒倒したら困る」
「シュウェルトに頼んでみるよ」
「あの男は意外にセンスがいいなぁ。少なくても君に似合う服をよく知ってるようだ。けど、俺にその金ぴかを着せるのなら断固拒絶する。それだけは言っておいてくれよ」
「あ、うん」
笑おうと思ったのに上手くいかない。
大人たちの考えも未だに分からない。
世の中は自分ではどうにもできないことばかりだと、なんだか悲しくなった。
「ユーリィ、結論を急ぐ必要ないさ」
「結論ってなんだよ? だってあいつの言い方だと、僕には選択の余地がないじゃん。僕はただ椅子に座って、人形みたいに“その通り”と笑って、人形みたいに暮らせって言われてるんだぞ」
「そうじゃないだろ? もっと他にもやり方がある」
「例えば?」
「それは……」
ヴォルフが口を開きかけたところで、扉がノックされる音が聞こえてきた。従者たちが待ちきれなくて、様子を窺いに来たのだろう。そう思って、つかんでいた軍服から手を離す。すると急に独りぼっちになったような感覚に襲われて、ゾクゾクとした寒さが体中を駆け抜けた。
本当に甘ったれになったものだ。独りになりたいと思っていたあの頃が嘘のように、心細さに支配されていた。
気を取り直し、扉を見る。開かれたそこから姿を現したのは、意外なことにアルベルトだった。
「お取り込み中、失礼します、ライネスク侯爵」
戯けて言われたのではない。かといって軽蔑したような声色でもない。
抑揚がなく無機質な声はジョルバンニによく似て、友との間に見えない壁があるようだ。その隔たりに気圧されて、ユーリィは眉をひそめた。
「なんだよ、アル。ずいぶんよそよそしい……」
「先ほど会議中に申し上げられませんでしたが、明日オーライン領へ視察に参ろうかと思っています。つきましてはご許可をお願いします。ジョルバンニ氏からはすでに許可が下りていますが、侯爵にもいただくよう指示がありましたので」
「うん、いいよ」
「そうですか、ありがとうございます」
きっと伯爵としての立場で、そうした態度を取っていたのだろう。公私を分けようとしているだけだと、勝手に想像した。
しかし次の言葉で、それが見当違いな想像だと気づかされた。
「それから、オーライン伯爵としてお伺いしたいのですが、よろしいでしょうか?」
「なに?」
冷ややかなアルベルトの口調が、ユーリィを無意識に身構えさせていた。
「先ほどの件について。ジョルバンニ氏の質問の答えを知りたいのです」
「答えって?」
オーライン伯爵は首を横に振ると同時に、肩越しに背後の扉を顧みた。彼には珍しく険しい表情で眉をひそめ、しばしそれを見つめたのち、円卓を回って近づいてくると、椅子ふたつ分手前で立ち止まった。さらにもう一度、だれもいないことを確認するように背後を振り返り、ようやく納得したかのように表情を緩めてユーリィに向き直った。
「では先に私が、ギルドに関しての情報をお耳にお入れしましょう」
「ギルド?」
「今回、裁判にかけられる八人は良く言えば保守派、悪く言えば私利私欲にまみれた者たちで、古い時代に分かれた貴族の縁者だったのはご存じかと思います」
「うん」
「問題は、八人のうち五人が“幹部”と呼ばれ、ギルドを総括していたということです」
言われなくても、そんなことはユーリィも知っていた。知っているどころかそれを利用して、強引に侯爵という地位を手に入れ、ククリ族やベレーネクの陰謀を阻止し、混乱するギルドや貴族を黙らせたのだから。
彼らはイワノフ三家それぞれの息がかかった者たちだった。三家の派閥に分かれてはいたが、癒着していた貴族は紛れもなく自分の血縁者だ。要するにジョルバンニは、イワノフとの関係が深かった者たちを排除したいのだと分かっていた。だからこそ、なぜそのイワノフ家の血を引く自分を祭り上げようとしているのかさっぱり分からない。その答えを知っているのだろうかと、ユーリィはアルベルトを凝視した。
「このことはご存じかどうか分かりませんが、今回の裁判はギルドの内部分裂とも大きく関係しています」
「というと?」
「保守派の横暴ぶりに、以前からギルド内部では不満がかなりあったそうです。しかしイワノフとの関係で反発することもできずにいたらしいのです」
「だったら良かったじゃないか。上手い具合にイワノフも幹部たちも力を失ったし。ギルドが思うとおりに事が進められる。そうじゃないの?」
それを何度もジョルバンニに言っているのに、あの男は聞き入れない。その答えをアルベルトが教えてくれそうで、ユーリィはうずうずとして返事を待った。
しかし彼はなかなか答えない。まるで言葉を選んでいるように二度三度唇を舐め、ようやく決意したように話し始めた。
「改革派にはふたつの派閥があります。ひとつは全貴族を廃絶し、ギルドにおける完全なる統制を考えている急進派ですね。貴方も同じことをお考えなのですよね?」
「うん」
「ですが、急進派の多くは貴族の処刑もしくは追放を訴えているようですが?」
「それは……」
その瞬間、だれも傷つけないような改革があるはずだと、おとぎ話のようなことを思い描いていた自分に気づかされた。
素晴らしい理想を掲げれば、多くの者が賛同し、身分も種族もない世界がこのソフィニアに生まれるのだと。でもそれをするのは自分ではなく、アーリングかもしくは他のだれかがすべきだと思っていた。
「やはり処刑はお嫌ですか?」
「だって……」
思い出すのは、ハニーブラウンの髪をした少女だ。最後に会った時の彼女は領民たちを守ろうと、必死な形相で恐怖に立ち向かっていた。そんな彼女が処刑されていいはずがないし、他にもそうして戦った貴族がいるかもしれない。
「それで、その急進派じゃないもう一方はどうしようと考えているんだ?」
言葉を失った自分の代わりにヴォルフが尋ねたのを聞いて、ユーリィもうつむきかけていた顔を上げた。
「セシャールのような専制支配を理想としているようです」
「そしてユーリィを王にしようと企んでいるってわけだな?」
「他にもアーリング士爵をという声もありますし、様々です。ただ、どちらも望んでいるのは、絶対支配ということだけは確かのようです」
「絶対支配……」
だれかを支配したいなんて、今の一度だって考えたことはないし、支配される側の気持ちを知っている。自分にそれができるなんてこれっぽっちも思えない。
それに、僕もそのうちあの男に支配されるんだと思うと、ユーリィは震えるほど恐ろしくなった。
「僕には……無理だよ……」
「ではどうしたらよいとお考えですか?」
「どうしたらって……」
「これまで保守派が全く動かなかったのは、貴方がイワノフ家を継ぐのかどうかを見極めていたのでしょう。メチャレフ家の次男は現在、父親とは折り合いが悪く、長男は品行が悪いと評判で、これまた父親が忌み嫌っています。ところが最近、そのメチャレフ家の次男が、盛んにギルドに働きかけているようですね」
話はいよいよきな臭さを帯びてきた。また陰謀合戦が始まるのなら、何もかも捨て去るべきだ。心が警鐘を鳴らしていた。
「僕はやっぱり……」
「では、お逃げになりますか?」
びくんと心臓が飛び跳ねる。
だれかが卑怯者だと叫んだ気がした。
「それともジョルバンニ氏にすべてをお任せになりますか?」
「つまり僕が王になれって?」
「ええ、そうです。そうとなれば彼は精力的に動くでしょう。もっとも彼は彼で苦しい立場にいるのですが」
それからアルベルトは、別に聞きたくもないジョルバンニについての話を始めた。
先ほど会議にいた三人のうち、ひとりは急進派の中心人物で、もうひとりはメチャレフ家の次男と繋がっていると噂があるそうだ。ジョルバンニは今のところどっち付かずな態度を見せているが、裁判が終われば動き出すだろうというのがアルベルトの見解らしい。さらにユーリィをセシャールに行かせるのは、ごたごたの最中に暗殺を恐れたのではないかと推察し、アーリングから引き離そうという魂胆ではないかと、想像を含めた意見で話を締めくくった。
「僕をアーリングから引き離す?」
「貴方と士爵が繋がることを恐れているのですよ」
「自分が排除されるかもしれないから?」
「最終的に貴方は彼に全てを任せるでしょう? そうなると待っているのは軍事国家です」
アーリングの言葉を思い起こせば“然もありなん”とユーリィは納得した。
さらにアルベルトはヴォルフの方をチラリと見ながら、
「ラシアールたちは、魔物や精霊を操れる貴方の力に畏怖の念を抱いているようです」
「あ、うん」
「では、分かっていただけましたか」
「なにが?」
呆れたと彼は大げさに目を見開いて、それから先ほどの冷たい表情になる。
「今のところ、貴方しかソフィニアに平和と秩序をもたらせる方はいないのですが?」
「でも僕は……」
「なにかを成し遂げるためなら、なにかを犠牲にするしかないのですよ。グラハンスと行きたいというのなら、早急にお願いします。こちらにも色々準備がありますので。ソフィニアが混乱に陥っても気にしないことです。ギルド国家を作りたいというのなら、貴族は全て排除し、場合によっては武力行使も処刑も辞さない気迫をお持ちください。ジョルバンニ氏の言うとおり、貴方が国を治めるというのなら、私も協力を惜しみません」
最後は吐き捨てるように言うと、オーライン伯爵はきびすを返し、足早に出ていった。
「僕は……」
パタンと閉められた扉に呟く。
揺れ動く心が抑えられず、どうしていいか分からなかった。
「ユーリィ、俺のことは気にするな。君が信じる道を選べばいいから」
そんなヴォルフの声も、ユーリィは遙か遠くから聞こえてきたように感じていた。




