第200話 執着の鎖
「おはようございます」
挨拶を口にして入ってきたクライスを横目で見やってから、ユーリィはふたたび手元の書類に視線を落とした。
机の上には幾重にも積み重ねられた羊皮紙がある。数日業務をサボっていただけでこの有様だ。すべて自分で確認すると決めた手前、投げ出すことも適わない。だがほとんどが要求請求の類いで、業務完了の報告は来ていなかった。ギルドも貴族院も軍部も要求だけはいくらでも思いつくらしいが、こちらからの命令はのんべんだらりと進めているようだ。
「水晶鉱山の警備まだ手薄だな……ラシアールからの連絡も来ない……」
「は? なにかおっしゃいましたか?」
聞こえただろうに、机の横まで来たクライスがすっとぼけた表情で尋ねる。その隣には相変わらず無表情の異色眼の男が立っていた。
「クライスの報告が杜撰だと言ったんだよ」
「おかしいな、水晶鉱山とラシアールって声が聞こえたような……」
「お前、昨日からなんか態度がデカいよね?」
「そりゃそうですよ。魔物と戦って――」
「戦ったっけ?」
「魔物と対峙してから徹夜でご命令に従ったのも、きっと陰謀に加担した者たちを陛下があぶり出す手助けになるからと思っていたのに、まさか全員不問に付すとは。なんと言いますか、驚くやら呆れるやらで」
言葉通りにクライスは顔をしかめて、口を尖らせた。
「一言でいえば証拠がない」
「証拠などなくても、陛下の采配で成敗すればいいのでは?」
「ならクライス、お前は公金を横領した罪で収監する」
「はぁ!?」
「って言われても困るよね? 僕が気にくわないと思った人間を閉じ込めて良いんなら、牢獄だらけになってしまうぞ、いいのか?」
「ええと……」
恐怖王と言われたジャックス三世は確かにそういう政治を選んだ。彼にひれ伏さない相手は容赦なく罰し、収監し、そして処刑した。反面、ソフィニア周辺の治政はかなり合理的な道を選び、作物などの収穫量もそれまでの三倍まで増やした功績もある。
しかしそんな功績を持ってしても、王の名に塗られた血は永久に消えることはないだろう。
お前もそうなりたいのか?
尋ねられれば、否と答える自信はある。けれどその答えを反故にして、自分の名前を血に染めないという自信はなかった。
クライスの隣にいる男にさり気なく視線を送る。無表情ではあるけれど、異色の双眸にそこはかとない激しさが感じられた。
そんな風貌を眺め、ユーリィの脳裏にオーライン伯爵の言葉が蘇った。
『暗殺者の家系なんですよ』
クライスに、アールステットが怪しいと言われたからでは決してないが、それでも子爵を起用した理由を尋ねた方が良いだろうと、物のついでのように昨日伯爵に尋ねてみた。すると戻ってきた答えがそれだった。
「アールステット家の始祖はジャックス三世の時代に叙爵された人物で、王の代わりに両手を血に染める仕事をしていたそうです」
五百年も前の話ではないかとユーリィが言うと、アルベルト・オーラインは口角を小さく上げて意味深にそうだと返事をし、その表情のまま彼はさらに続けて、
「ギルド革命の時も、アールステット家が働いていたとしたら?」
僅かな沈黙の中、応接室に射していた陽光が一瞬で消え去り、古の亡霊が見えた気がした。だが太陽に被った雲はすぐに流れたようで、光は室内に戻ってきて、過去から現世へと意識が帰る。そして正面のソファに座る男は、五百年の時を経た豪華な調度品に囲まれ、空色の瞳を輝かせていた。
「この宮殿はもともとジャックス三世が建てたものですね」
「だから?」
「王の別名は“恐怖王”、それ以前は“反逆の王子”でしたね。父親の命にことごとく背き、兄であったジャックス二世を暗殺し、玉座に就いた王。似てると思いませんか?」
「だれに? まさか僕にって言うんじゃないだろうな?」
だが旧友は答えなかった。代わりに室内を見回して、まるで吟味するように一つ一つに視線を投げかけていた。
「この場所が欲しいと思う者がどれだけいるでしょうね」
「欲しければくれてやるさ」
「そうおっしゃれるのは、今はいないと確信しているから」
「なっ……!?」
「違いますか? 数ヶ月前、貴方はこの場所にいることをお望みではなかった。けれど今、覇者である魅力にお気付きになっている。だからその座が脅かされると知った時、簡単に手放せますか?」
「できるに決まってる」
「その相手がこの国を任せるに至らない者だとしても?」
「……」
即答ができなかった。それに驚きつつも、ユーリィは目を細めて相手を注視した。いったいこの男がなにを言おうとしているのか見極めるために。
「数ヶ月前、貴方は自分のやり方を行使すると宣言なされましたね。捕虜たちを一掃し、逆らう者を処刑すると。障壁となりそうなミューンビラー侯爵を失脚させ、サロイド塔にいたククリたちもすべて排除なされた。アーリング将軍に死を賜ったのもその一環でしょうか? その他にも数人、この半年の間に謎の死を遂げましたね。もっとも将軍以外は小バエに過ぎない者たちでしたが」
「えっ、今って過去を懐かしむ会なの?」
「そう思われるのでしたら、もっと昔に遡りましょう。初めて会った時、私は貴方に言いましたよね、“愛されなかった子供は、愛が分からない”と。だからこの世界に貴方が執着するものなどなにもないはずですよ。私と同じようにね。それでもこの場所とヴォルフ・グラハンスに執着していらっしゃる」
「もういい」
アルベルトがなにを言おうとしているのか分からず、馬鹿丁寧な言葉遣いも含めて苛つきを感じ、ユーリィは片手を上げて制止をした。
しかし彼はその制止を無視して喋り続けた。
「私も、そして貴方も非情とはなにか、もう知ってしまっている。非情な相手をどう対処すべきかも」
「だからアールステットを使えと?」
「ご随意に」
アルベルト・オーラインは相変わらずつかみ所のない男だ。本心を語っているのかもしれないが、理解しがたい理念が底にある。しかもジョルバンニのように完全に隠すのでもなく、ミューンビラーやその他大勢のように見せびらかすのでもなく、穏やかな表情のまま正論だという呈で語る。だから、反論する糸口が見えないのだ。
「アルベルト、お前は僕になにをさせたいの?」
「私は貴方を見届けたいだけですよ」
「お前は母さんの方だけ向いてればいいんだ」
「むろんそうしています。なにしろ貴方を産んだ女性ですから。その為にもオーライン伯爵領を返上してフィリップ様が継いだのち、私に新たな爵位を頂きたい。貴族院の議長の座も仮ではなく正式なものに」
「なんだ、結局それが目的かよ」
「私はこの国と貴方の行く末をできるだけ近くで見届けたい。議長の椅子に座って改めてそう思いました。アールステット子爵を登用したのも、彼が闇堕ちして私の目の届かないところで動くことを防ぐためですよ。貴方がどう使うかは先ほど申し上げた通り。盾として使うのもご自由、剣として使うのもご自由。むろん非情な者として君臨するのならそれも止めやしませんよ。私は傍観者となりたいだけです」
「アル、お前は僕の味方になってくれると思っていた」
「お味方など必要でしょうか? 貴方は貴方の考えた通りに進まれればいい」
そうしてアルベルト・オーライン伯爵は立ち去っていった。
(やっぱあいつに探られてたんだよなぁ……)
ユーリィがそう気づいたのは少し経ってからだった。
過去の話を持ち出したり、非情になれと煽ったり、アールステットの話をしたりしたのは、皇帝がなにを考えているのか探ろうとしていたのだ。それが傍観者としてなのか、別の理由があるのかまでは分からないが、探られたという事実が腹立たしかった。
だからというわけではないが、非情とは真逆の、すべてを許すことに決めたのだ。
その夜――――
宮殿の謁見室に呼びつけた重臣と貴族十数人が集まったのは、街が寝静まり始まる頃だった。
あえて黒服と長い黒マントを選び、グラハンス獣爵を伴い、ゆっくりとした足取りで入室したのも、自分が皇帝であると改めて見せつける為。最前列にいたジョルバンニが当たり前のような顔で近づいて来るのを手で制し、ここはもうお前の場所ではないと示せば、相手は素直に従った。
(そういえば、ジョルバンニとはしばらくぶりだな)
ひと月前までは毎日会っていた相手だ。だからそう思ってしまうのだろう。
なにを思っただろうかと眼鏡の縁を眺めてみた。やぶにらみが酷くなったくらいで特に変わった様子はない。人を寄せ付けない雰囲気は以前のままで、それを感じ取っているのか彼の周りには少し空間ができていた。
しかしその内面を読み取ることはやはり難しい。だから早々に諦め、ユーリィは全員を睥睨した。
見知った顔が次々と瞳に飛び込んでくる。ミューンビラー侯爵は平然とした顔をしていたが、アルカレスはオドオドと落ち着かない様子で四方を眺めていた。エルネスタは不安そうな表情で、オーライン伯爵は辺りに傍観するような視線を送り、ロズウェルはそっぽを向き、アールステットは無表情に瞳を光らせていた。ディンケルら軍人はまるで戦場にいるような気配だったのに比べて、ブルー将軍がやけに小さく見えた。それ以外のラシアールは、シュランプ長老を筆頭に硬い表情を作って、いつでも出て行くという態度だ。
すべてが想定内だった。
だからいったい彼らがどんな想定で、皇帝に呼び出されたと思っているのか。それを考えると少し気分が高揚して、口元に笑みが浮かんでいた。
「これより先日の会議について、皇帝からの結論を申し伝える。まずは昨日の件だ。すべてククリの謀略だと調べがついた。なので、ここにいる一同の嫌疑は晴れた」
「はぁああ?」
素っ頓狂な声を出したのはクライスだった。
その彼に全員の視線が集まり、さすがのクライスも首をすくめる。すぐにコホンという空咳が聞こえて、そちらを見れば、ディンケルがミューンビラーを睨み付けてこう進言した。
「命令違反の罪はどうなされるつもりですか? 少なくてもこの中に、輸送停止命令に逆らってセシャールに密輸しようとした者たちがいると聞きましたが」
「なっ!? それはギルドが勝手に……」
睨まれたミューンビラーが慌てて答える。積み荷は少なくても侯爵家の物ではなかったはずだが、焦ったあまりに自ら墓穴を掘ってしまったようだ。しかも共犯のアルカレスが「存じません」と即答して、馬脚を現してしまった。
「なるほど」
あまりの小物ぶりに呆れつつユーリィがそう言うと、ミューンビラーがすぐに自分の失態に気づいたようだった。しまったというような表情になったものの、起死回生を狙ったのか矛先をディンケルへと向ける。
「それを言うなら離宮の件は陛下にどうご説明するつもりだ、ディンケル将軍。ここにいるクライスの話によれば、あそこに火を点けたのは軍兵士だったそうだな?」
「一兵士のことなどいちいち監視できるものか」
「それで将軍とは片腹痛い」
「なにを――」
「ミューンビラー、ディンケル、黙れ!」
つまらない小競り合いなど金輪際聞きたくなかった。
アロンソが復活するまでにいったいどれだけの猶予があるか。それを考えれば雑魚を相手にして無駄な時間を費やしている場合ではない。
皇帝の牽制に両者は押し黙り、それでも目だけは相手を睨み付けていた。
「僕が不問に付すと言ったら、もうそれ以上追求することは許さない。ここにいる以外の者については、追々調べていく」
「「御意」」
頭を垂れた二人の声が重なり、ユーリィは満足して小さく頷いた。
「シュランプ」
突然名前を呼ばれたエルフの長老は、ピクンと肩を振るわせて跳ね上がった。
「は、はい」
「ラシアールの土地が欲しいと言ったな? いいよ、旧ベレーネク領の四分の一を受け渡す。フォーエンベルガー領に接するダン=フェニス子爵号が付随した土地だ。明日からダン=フェニス子爵を名乗るがいい。シュランプ以外の者は追々。治政に明るくないお前たちにどこまでできるか見極めてからだ。今のところ麻しかない。けれど麻さえ収穫できれば、交易で十分潤うとも言える」
「領民は……」
「領民はほとんど人間だ。だからソフィニアに住むラシアール全員が移住しても、人間の方が多いだろうね。本当に全員が移住したいかは知らないけど」
シュランプは乾いた唇を何度も舐めて、考え込んでいた。
不満なのだとユーリィはすぐに悟った。彼らが欲していたのはきっとソフィニアに近い場所だ。領主を失ったギルド管理地ならソフィニア中どこにでもある。だからソフィニアから一番遠い北西地を押しつけられるとは思わなかったのかもしれない。しかしそれが正解なら、戦略を知らずに戦いを挑もうとした間抜けだとも思った。
「もしラシアールだけでは不安だと言うのなら、ククリの捕虜を半分ぐらい連れていってもいいぞ。百人程度ですべて女子どもだけどね」
「ふざけんなっ! オレらにお荷物を押しつけたいだけじゃないか!」
長老の孫であるセバが、祖父を押し退けて吠える。皇帝を前にしてその反骨心は見上げたものだと思ったユーリィだが、褒めるつもりは一切なかった。
「なんだ、エルフの世界を作りたかったんじゃなかったのか? だったら偽善がましくエルフのなんて言わずにラシアールのって言っとけ。もしそうなら、あの辺りにはジーマ族も少し暮らしているから、別の場所に移住してもらわなければいけなくなる。ジーマ族の血は僕にも流れているからね、邪険にも扱えない」
反論する言葉が見つからなかったのか、若いエルフはグッと歯を噛みしめて、荒ぶった気持ちを内に押し込めたようだった。
だが、まだ手ぬるい。
「もし気が変わって捕虜を引き取る気になったなら、今どこかに雲隠れしている連中と連絡が付けやすくなるかもしれない。セバ、お前はあの連中と仲良くする自信があったんだよな? 僕はどちらでも構わない」
ラシアールに人間たちの疑念の目が向けられていく。それに耐えかねて、シュランプ老人が少し身動ぎをした。
それから長くて短い静寂があった。大勢が息を殺したその時間に、それぞれがなにを考えていたのかユーリィにはなんとなく想像ができた。
疑念と保身と不快。
どれであろうと大した違いはない。
「さあ、どうするんだ?」
長い静寂は他の者の思考を深くする。なんとなくそう感じ取ったユーリィはその静寂を壊して、ラシアールたちに催促をした。
苦渋の表情を浮かべたままシュランプが口を開く。
「分かりました。我々が短慮であり、陛下の理知には到底敵わないことを素直に認めましょう」
「つまり移住はしないと?」
「いえ、させていただきます。おっしゃるとおり全員ではないでしょうから、捕虜も連れて参ります。しばらくは苦難の日々が続くでしょうが、それもまた短慮の報いだと思えば……」
数十年も歳を取ってしまったような老人の姿が哀れに見えた。
別にこの老人が嫌いだったわけではないとユーリィは改めて思った。好きか嫌いかで物事を決められるのならどんなにいいか。けれどそれを突き詰めてしまえば、かの恐怖王のように両手を血に染めてしまう未来が待っているような気がした。
「この先一年、ダン=フェニス子爵にはできる限りの支援をしよう。あの戦乱で領地がどれほど荒れているか分からないのでまずは調査を。むろんラシアールにも数人加わってもらう。セバ、お前が指揮を執れ。ダン=フェニス子爵領はいずれお前の物になるんだから、その前に安泰の地にしたいだろ?」
セバは視線を外していたが、内にある熱気のようなものはほとんど消えかけていた。
それを確認してから、その前に立つブルー将軍に目を移す。
「ブルー将軍、お前はどうするつもりだ?」
「自分はもちろん残ります。皇帝陛下と帝都をお守りする職務にありますので。魔軍兵の多くも残るでしょう。いえ、残させます。陛下に万が一のことがあればどうなるか実感できたでしょうから」
裏切られたことに憎しみはない。いつだって哀しみと諦めがあるだけだ。けれど以前のようにブルーを見られるかと言われれば、しばらくは無理だと答え、きっと疑心の中に彼を入れておくに違いない。それが哀しいとユーリィは感じていた。
ラシアールからジョルバンニへと視線を移し、不気味なほど大人しい宰相の様子に満足して、改めて全員を見渡した。
こうして何度も宣言し、僕は皇帝という鎖を何本も足に巻き付けていく。もうそれが嫌だとも思わないし、痛みすら分からなくなるほど心地よさを感じてしまっている。もしかしたらアルベルトの言うとおり、執着しているのかもしれない。
だから僕はここにいるんだ____。
そんな気持ちを胸に、ユーリィは顎を引いた。
「今日より二十五日後、セシャール国大聖堂自治領において、僕は神マヌハンヌスより皇帝の座を正式に賜ることになった。そうなれば何人も僕を玉座から引きずり下ろすことは適わない。異議不服がある者は今すぐ申し出よ!」
息を呑むような気配が、細波のように室内を巡っていった。
しかし誰一人声を発する者はなく、皇帝の視線を浴びた者は次々と胸に手を当てて、忠誠の意思を表していった。
「よし、なら戴冠式が滞りなく済むよう、皆には動いてもらう」
沈黙は守られている。異論はないようだと理解してユーリィは先を続けた。
「僕はギリギリまで帝都に留まり、戴冠式にはここにいる獣爵と一緒にまずフォーエンベルガー領に入るつもりだ。だからディンケル、お前は早急に護衛部隊を組織して先に移動させておけ。ジョルバンニはフォーエンベルガー伯爵に皇帝が行くと連絡を。それから帰国したらすぐに招宴を催す。ミューンビラーは社交界の復活に尽力するように。それと戴冠式には何人かの貴族を連れて行く。オーライン伯爵は適当な者たちを数名人選しろ。戴冠式後はダン=フェニス子爵始め数人、叙爵の予定がある。むろんギルドではなく僕が叙するが、その準備はアルカレスがやれ。あとは細かな人事異動はあるけど、それは後日連絡をする」
一気に捲し立てたあと、呼吸を整えるため口を閉ざし、一同を見回してからこう付け加えた。
「で、なにか質問がある者は?」
沈黙は破られず、長い夜がようやく終わった。
(ミューンビラーは新しい玩具に満足するかな……シュランプも自分たちが“帝国の穴”の前に置かれた盾だって気づいたかどうか……)
皇帝ユリアーナが今どこに進んでいるのか、後世の歴史家どもが勝手に考察でもなんでもすればいい。自分はただ目の前にある扉を一つ開けては、そこに潜んでいる魔物に立ち向かっているだけだ。時には刃を振り回し、時には餌を投げつける。その結果がどうなるかなんて誰にも分かるはずがない。簡単に先を見越せるのなら、ここはもっと素晴らしい世界になっているはずだ。それができないから、誰かが苦しみ誰かが嘆く。
「……か? ……いか?」
遠くからなにかが聞こえて、ユーリィはおもむろに顔を上げた。
「ああ、お目覚めでしたか、皇帝陛下」
「目を開けて寝てたら気持ち悪いだろ」
「でも意識飛ばしてましたよ」
そんなに考えていただろうかとクライスを見返すと、皇帝の前だというのに彼は、少々顎を上げて不機嫌な顔を作っている。クライスに限らず、皆少し馴染んでくると態度が徐々に悪くなる。由々しきことだからと止めるべきか考える間もなく、クライスは肩の力をフッと抜いた。
「もう慣れましたけど……」
「そんなに考えてた?」
「ずいぶんお待ちしました。あいつなんて、あそこでくつろいでますよ」
クライスが肩越しに指を示した方を見ると、アールステット子爵は部屋の片隅にあるソファに腰を掛けて、その横顔を見せていた。
「くつろぎすぎだろ」
「ですよね。で、あんな男とこのボクをわざわざ一緒に呼び出したのは?」
「ああ、それね。昨日細かな人事異動があるって言ったのを覚えてるかどうか知らないけど――」
「天才のボクにそれ尋ねます?」
「お前ホント、いい性格してるよね」
「お褒めいただきありがとうございます」
「褒めてないし」
もう注意するのも馬鹿馬鹿しくなって、ユーリィは本題に話を戻した。
「エルネスタ・リマンスキー子爵令嬢を今の役職から解任する」
「え、また、なんで……」
「彼女を危険な目に遭わせるのは良くないと気づいたからだ。で、あそこいる男も総務長の地位から引きずり下ろして、リマンスキー嬢の代わりに役目を果たしてもらう」
「はぁ!? 聞いてないですよ、そんなの」
「当たり前だ、今初めて言ったんだから」
「いや、でも、だって、ほら……え!?」
クライスの混乱と動揺は驚くほどだった。まるで馬車の中でマイベールなる友人を見た時のような慌てぶりだ。
「なにをそんなに動揺してる?」
「ど、ど、動揺なんてしてないですよ。つまりボクが怪しいと思った人物にそんな重要な役目をさせて、まして皇帝陛下のおそばに置いておくというのは……」
「大丈夫。子爵のことはだいたい調べがついた」
「ボクが大丈夫じゃないですよぉ……」
「なんで?」
「あ、いえ……別に……」
アールステットよりクライスの方が怪しさ一杯だ。
「なにか不服があるなら今すぐ言え」
「ないです、なにもないです」
「そう、それなら本人にも伝えておいて。僕から直接言おうと思ったけど、正式発表は明日か明後日になりそうだし、あそこで意識飛ばしてるから面倒でさ」
「でも起きてるみたいですよ」
あの無表情な異色眼を見るとなんだか嫌な気分になるんだ、昔の自分を見ているようで。とは言えずに「そうしろ」とだけ押し切った。
「もちろん他言無用だ。リマンスキー嬢にはまだ話していないから。それと代わりの総務長も探さなければならない。その前にクライスがあいつに、仕事の流れを説明しておいて。最初から手間取られては仕事が進まないよ」
積まれた書類に視線を落としながら、ユーリィは命令を完了させた。
「は、はぁ……」
「返事がなってない」
「御意」
渋々と了承し、アールステットと出ていくクライスを見送って、やっと一つ扉を開けられると安堵したところで、背後から不意に拘束された。
「ヴォルフ、仕事中だぞ」
「少しだけ」
「落ち着け、情欲」
「少しだけだ。時々こうしないと、君がどこかに行ってしまう気がする」
「――分かった、少しだけぞ」
ヴォルフに寂しい思いをさせているのは知っているから、それ以上の拒絶はできない。耳朶から首筋、そして肩へと順々に舐られ、堕ちまいと必死になって指先に力が入る。手を乗せていた羊皮紙が折れ曲がって苦しんでいた。
「ヴォルフ……もう……」
止めろと言う前に、胸に回ってきた掌にまさぐられ、ついに耐えきれずに小さな呻きが漏れ出てしまった。
「やっ……んんっ……」
その声でようやく我に返った魔身がサッと体を引いた。
「や、やり過ぎだぞ……」
「悪い」
「しばらく倒れるわけにはいかないんだからな」
薄く感じる頭痛に絶望を抱きつつも、恋人の欲情を軽くなじった。
「悪かったよ」
「ヴォルフに寂しい思いをさせてるのは知ってるから。だから――」
「いいんだ。でも時々、君が俺のそばにいることを感じさせてくれ」
「お前はずっと僕のそばにいるよ」
両手に巻き付いた執着という鎖は、もう身動きできないほど、背後にいる男に繋がっているのだから。
「ヴォルフ、お前がいるからこそ、僕は皇帝でいられるんだ」




