第2話 新兵の憂鬱
イワノフ公爵家近衛兵ラウロ・ヘルマンがソフィニアの街に来たのは二ヶ月ほど前だ。目的は街の警備で、上からの命令だった。
この街は領地ではないのだから、公爵家の近衛兵が守る義務などないけれど、今は些細なことを気にしている場合ではないらしい。あの事件で、ギルド直轄の憲兵たちが相当やられたようだと、先輩兵士が教えてくれた。
「おい、ヘルマン。ボケッとしてないでちゃんと見張れよ」
通りの向こうにいるその先輩兵士に怒鳴られる。いつものことだ。下っ端兵士への態度などこんなもの。特に今は街中が苛立っているから、その雰囲気に兵士たちも飲まれ気味だ。ラウロ自身も一日の半分は、わけもなく滅入っていた。
幸い今日は、街は穏やかだった。酔っ払いもいない。というより酔っ払うだけの酒が街にはない。毎日のようにある騒動の大半は、少ない物資をめぐる争いだ。餓死者すら出ている。
けれど、こんな状況はこの街ばかりではないに違いない。
このソフィニアの街とその周辺は、ギルドと貴族が治めていた。その中でもイワノフ公爵家は一番大きな貴族だ。その公爵家の近衛兵となり、英雄アーリングの元で働けるのは素晴らしい名誉である。孤児が選ばれるなど滅多にない。その滅多にないことが自分に舞い降りた時は、神のご加護だとラウロは信じていた。
それなのに、そのイワノフ公爵があの事件の首謀者のひとりだったと聞いて、心は揺れ動いている。
あの戦いで親友を失った。ラウロ自身も大きな怪我をして、ようやく完治したのがひと月前だ。怪我の為に最後の戦いには参加できなかったが、そのおかげで今もこうして生きていられた。
そんな過去に思いを馳せているとを、向こう側にいた先輩が近付いてくるのが見えた。先の戦いで治らない傷を負った足をひきずっている。ラウロの前に立った彼は、脱いだ冑を小脇に抱えた。
「今日はもう帰ろうぜ」
「いいんですか? だって……」
日が高いと言う代わりに、ラウロは空を見上げた。
「腹が減って死にそうなんだ」
「俺もそうですけど……」
「一食でもありつけてるのは、有りがたいんだけどな」
そう言った視線の先には、動けなくなっている老婆がいる。痩せ衰え、今にも力尽きそうな様子だが、差し伸べる手がない現状を憂うしかなかった。
とにかく物資がない。特に食料は深刻だ。時々エルフ族のラシアールらの持ってくる配給品だけが民衆の命綱。
ラシアールは魔物に乗って近隣諸国に行き、そこから食料を運んでくるらしい。噂に寄れば、旧王族が住んでいたガーゼ宮殿の装飾品などを売って、手に入れているとのことだ。だがそれもいつまで続くことやら……。
「そろそろ身の振り方を考えないとなぁ。近々、領民が減った貴族たちが移住者を募集するらしいんだ。オレもこんな足だからもう戦えないし、そこに行って農民になるのもよし、家畜の世話をするのもよし。もっとも家畜がいればの話だけどさ」
諦め気味に彼は鼻で笑った。
魔物によって多くの家畜がやられた為、肉を手に入れるのは絶望的だ。ラウロもこの数ヶ月口にしていない。
「オレの家は代々公爵家に仕えてるんだけど、あの事件以来、公爵に忠誠心なんて持てないんだよ」
彼のようにイワノフ公に絶望し、近衛兵を辞めてしまった仲間が何人かいる。ラウロも一時はそれを考えた。
「でも“金の天子”がまだいらっしゃるし……」
「あの方は今や絶大な人気だからなぁ。ギルドよりよっぽど頼りになるって話だぜ。食料の配給も、ギルドの反対を押し切って侯爵が決めんだってさ」
「侯爵がイワノフを継いで、アーリング士爵が重臣でいるなら、俺は残ります」
揺れ動く自分の心を抑えつけるために、ラウロは力強く断言した。
アーリング士爵は、ラウロにとって子供の頃からの憧れだ。外国との戦いや、魔物討伐の話を聞くたびに心が躍り、いつかは彼の家臣になって、立派な戦士になることを夢見ていた。
“金の天子”ことライネスク侯爵は、イワノフ公爵の庶子である。母親はエルフ族で、長い間その存在すら世間には知られていなかった――貴族の間では有名だったらしいが。
当初、魔物襲来は侯爵のせいだと噂されていた。エルフの血を引く彼が、魔物を呼び寄せているのだと。
だが、まだ十六歳の少年が勇敢に魔物と戦ったという話を聞いて、ラウロはいたく感動した。侯爵がソフィニアで戦っていた様子を見た者の話では、銀の狼魔に乗った彼はまさに神が使わした天子だったという。
あとで知ったことだが、侯爵についての悪い噂も陰謀によるものだった。
ラウロ自身がライネスク侯爵を見たのは、イワノフ城にいた時に遠目から一回だけ。にもかかわらず、少女のような眉目と、気高い雰囲気がしっかり脳裏に焼き付いた。
侯爵の実母は終戦後イワノフ城にいる。ハーフエルフの彼女もまた、この世の者とは思えぬほど美しい。彼女が城にいる間はイワノフの近衛を辞めないと言う兵士たちもいるが、ラウロにとっては“金の天子”の方が上だ。
(グラハンスさんと話ができれば、侯爵にもお目にかかれるかなぁ)
ヴォルフ・グラハンス――ライネスク侯爵の唯一の側近らしい。その男に以前、ラウロは命を救われたことがある。
グラハンス氏は本当に強かった。それに輝くブルーグレーの長髪と、均整のとれた体格は、たくましいアーリングとも、美しいライネスク侯爵とも違った格好良さがある。槍を握って魔物と戦っていた姿は本当に雄々しく、彼の先祖がセシャールの英雄だということも納得できた。ラウロにとってヴォルフ・グラハンスは、憧憬を抱く人物のひとりだ。
(俺のことを覚えてるか、すげぇ微妙だけど……)
戦場から十日以上もかけ、ふたりで戻ったのだから忘れるはずはない!
……と思いたい。
けれど横を通り過ぎたグラハンスの眼に、あれ以来ラウロの姿が映されたことは一度もなかった。
地味な容姿が災いしているのだろうか。たくましい体格ではないし、美しい眉目でもない。茶色い髪に茶色い瞳はあまりにも平凡すぎる。口髭も考えたが、二十という年齢に相応しいとは思えなかった。
「そういえば、ヘルマン。お前の実家は大丈夫だったのか?」
肩を並べて歩き始めた頃、先輩兵士はふと尋ねてきた。
「先輩のところは?」
「両親はとっくに他界してるんだ。でも親戚が何人か死んだらしいけど」
「俺も天涯孤独なんです。孤児なので……」
「孤児?」
気をつかってくれたのか、彼は少し声を落とした。
「ええ、でも育ての親がいますから」
それ以上は言いたくなかった。実は捨て子で、孤児院育ちなどおおっぴらにできるわけがない。
育ったのは孤児院をしている教会だった。捨て子や遺児数十人の共同生活。引き取ってくださった牧師様はそういう意味で育ての親だ、嘘はついていない。
去年、運良くイワノフ公爵家近衛兵団に入ることができたのは、本当に嬉しかった。
運良くと言っても偶然ではない。アーリング士爵の下でどうしても戦いたいと何度も懇願し、根負けした牧師様が領主であるメチャレフ伯爵へと願い出てくれた。
けれど、たとえ伯爵家がイワノフの分家だからといってそう易々とは叶うはずもない。何度も何度も申請を繰り返し、ようやく許可が下りたのが去年だった。
「で、その育ての親っていうのは無事だったのか?」
「ええ」
教会には戻る気にはなれない。あそこに行くと、どうしても自分を捨てた親のことをつい考えてしまう。
そんなラウロの横を、幼子を抱いた母親が通り過ぎる。彼女のか細い腕が、穏やかに眠る子供の頭を撫でるのを見て、ラウロは少々やるせない気分になっていた。