第197話 蟲魔襲撃 後編
壊れた扉の隙間から、蟲が一匹また一匹と入ってくる。隙間と言っても人一人は通れる幅があるから、完全にこちらを怖がらせるためだけの姑息な威嚇だ。しかしその威嚇に負けた看護婦が意味不明なおろおろ声を出し、エントランス奥にある階段の方へジリジリと下がり始めたので、ロズウェルは慌ててその肉厚な二の腕に手を置いて引き留めた。
「逃げても結界がズレるだけだ。中にこれ以上入られたらもっと困る」
「で……でも……」
「ボクが助かったら鉄貨百枚、いや金貨三枚ね。だから耐えて」
メイドなら三ヶ月分の給料だ。どうやら看護婦の気力を復活させるだけの金額だったらしく、逃げ腰だった体勢がしっかりとして、患者を抱える腕にも力が蘇ってきた。
「エルネスタさんは患者の手を握って、名前を呼んで励まして下さい」
「分かったわ、やってみる」
今はこの人形のようなエルフだけが最後の砦で、彼女が負ければ絶対に助からない。どうしようもなく頼りない寄る辺である。
が、ロズウェルはまだ望みは捨てていなかった。
(きっと皇帝が戻ってくる)
直感に近かった。けれどエルネスタという存在がそうだと思わせる。たぶんあの若き皇帝は、彼女を見捨てないだろう。そんな気がした。
「アーニャさん、頑張って!」
言葉とともに、少しだけ蟲が押し戻される。
「もうすぐ皇……魔将軍が助けに来るから」
そしてまた結界の範囲が広がる。
眠り姫が抱いているものが愛情なのか友情なのかロズウェルには分からない。けれどきっと彼女はそれだけを望んでいるだろうと想像して、助かるために利用する。嘘という絶望はどうせ気づかれやしないのだ。
どのくらいそうしていただろう。
扉の向こうの外界がほんのりと明るくなっていた。しかし太陽がこの絶望を救ってくれるとはこれっぽっちも思えない。蟲が幻影ではないという確信を得ただけだった。それでもロズウェルは女たちを励ました。
「夜が明けたら、将軍が戻ってきますよ」
「私は陛下を信じてるわ」
ロズウェルの顔を見ることなく、エルネスタは力強く答えた。目を細め、なにかを思い出すように。
(なるほど、彼女が皇后候補だと噂されるわけだ)
その一方で、恋敵とも呼べる存在が気になった。
確かにアレはもう人間ではない化け物だ。その相手を彼女はどう考えているのか、どうするつもりなのかという俗気が心に浮かんだが、今はそんなことを考える時ではないと振り払った。
「そうよ……陛下はきっと……」
ぼんやりと呟いたエルネスタの言葉に応えるかのように、外で異様な声がした。
吠えるとも違う、動物ではないモノが唸るような低い声だ。
「獣爵が……!?」
期待した分だけ、ほんの少し彼女の声が明るくなる。しかしロズウェルの位置からは外がはっきり見えていた。
それはコウモリのような黒い翼、銀色の双眸を持つ醜魔だ。蟲を威嚇するように低く唸っている。猛禽類の両脚と、三本の指の両腕を持つアレがどれほど強いかは知らないが、皇帝の使い魔の一体であるというだけで助かったような気持ちになった。
――オマエハァアアアアアア!!
蟲が気づいた。
すぐに侵入が止まり、一群となって外へと飛んでいく。だが、迎え撃つかと思われた醜魔は、両翼を広げて一気に舞い上がった。
「ふざけんな! 逃げるのかよっ!」
絶望を感じて腹立ち紛れに荒声を発したロズウェルだったが、すぐに思い直した。近場で戦闘が始まっても普通に困る。扉のそばまで駆けよって見上げると、白んできた空に黒い塊に追われて、皇帝の使い魔が上へ下へと逃げ回っていた。
しかし、しばらくすると見えなくなった。街の中心部に行ったのか、それとも郊外に出て行ったのかは定かではない。分かるのは、自分たちに猶予が与えられたということだけだ。
「今のうちに逃げ――」
「アタシはもう一歩も動けやしませんよ……」
言葉通りその場にしゃがみ込もうとする看護婦を、エルネスタが支えるように誘導して、階段の一番下へと座らせた。
しかたがないことだと諦めるしかない。確かに彼女は頑張ってくれたのだから。
「分かった。少し休憩しよう。でもできるだけ早く宮殿に移動しないと」
蟲たちが戻ってくるという確信はなかったが、戻ってこないという自信も一切ない。むしろもしも復讐が目的なら、ロズウェルは戻ってくるという予感があった。
「とりあえず扉は閉めておこう」
蟲たちには建物を壊すという力か、あるいは知恵がないらしい。ならば全て締め切ってしまえば、もしかしたら生き残れる可能性はある。
扉が閉まらなかった理由はすぐに分かった。熱によって歪んで反り返った床板が、扉の下部に当たっているのだ。なんとかできるだろうかとロズウェルは歪んだ部分を試しに二度三度踏みつけた。すると板があっさり割れて凹み、扉が自由になったくれた。二百年以上経っている建造物だから経年劣化しているとはいえ、ずいぶん派手に焼いたなと顔を少し近づけると、嗅いだことがある臭いをすぐに感じた。
(あれ……これはシュス油だ……)
シュス油とは、シュス酒という引火しやすい強い酒に、魚油と石炭の粉を混ぜた燃料だ。シュス酒自体が希少なので、強い火力が得られるが一般には出回ってない。主に火を使う商売――例えば鍛冶屋やガラス屋などが仕入れていて、クライス家の工房にも保管されていた。
(ギルドで調達したのかな?)
衛兵が火を点けた犯人ならそれも有り得る。ただしその背後にいる人物には、嫌な予感しかしなかった。
(大した量じゃない。奥の方はそれほど焦げてなかったからこの辺りだけだ。せいぜい水筒用の革袋二つ分……あ……)
色々気づいてしまった。
脳味噌の回転が速いと自ずと色々見えてしまう。
(ま、いいか。あとで考えれば……)
結局はそうなる。
実際のところ、足を突っ込みたくないことを考えるのは面倒だった。
けれど外はどうなっただろうかとふたたび扉を開けて空を見上げ、まだ世界が破滅するようなことが起こってないと安堵した時、ふと思い出した。
(そういえば、あいつ、変なこと言ってたっけ)
蟲から逃走する間際、口走ったあれはどういう意味だったのか?
考えまいと思っていても、ついつい考えてしまう。頭脳派の悪い癖だ。
「私、奥に行ってお水を取ってきますね」
「あ、はい」
返事をしてエルネスタの動きを目で追う。
玄関は吹き抜けで、正面には二階の廊下に繋がる階段があり、その階段の両脇に一枚ずつ扉があった。一方が食堂でもう一方は厨房へと繋がるはずだ。この手の古い家屋によくあるタイプで、エルネスタも厨房に繋がる扉へと歩いていった。
(そういば喉がカラカラだ)
気が利く娘に感心して、もう一度外を眺めようと振り返った瞬間、背後から小さな悲鳴が聞こえてきた。
開いた扉の前に今さっき考えていた男が立っている。というか、助かっていたことにロズウェルは驚きを隠せなかった。
「ずっとここに隠れていたのか?」
男はなにも答えない。戸惑ったように眉間に皺を寄せてロズウェルたちを見つめるばかりだ。歳は三十過ぎぐらいだろうか。足を引きずっていたのは、生まれつきと言うよりも戦いで負傷した後遺症だろう。でなければ軍には入れてもらえるはずはない。厳つい顔立ちではあるが、軍人と言うよりもどちらかといえば農民のような浅黒さだった。
「無事でなにより」
「どうも」
ロズウェルの質問に、兵士はようやく声を発した。しかし困惑したような表情は消えず、エントランスのあちこちを眺めてなにかを探している。その様子に、ロズウェルはピンとくるものがあった。
「他の二人なら蟲にやられたよ」
「あの蟲はなんだ?」
「それはこっちが聞きたいぐらいさ」
「また魔物が襲ってくるじゃねぇだろうな!?」
「だから知らないって――」
「あの戦いのせいで足を悪くしちまったんだ。またあんなことがあったら、今度は死んじまう。俺は故郷に帰ってのんびり暮らしたいんだよ」
つまらない泣き言は聞き流した。どうせならあの件について喋ってもらいたものだ。見た目より口が軽い奴らしいので、少し突っつけば簡単に暴露してくれそうだ。
「蟲が来ることは言われてなかったみたいだね」
自分の失言に気づいて兵士は口を噤む。
そんな態度がロズウェルの賢しら心に火を点けた。
「衛兵は油樽持って来たって言ってたけど、その樽はどこだい?」
「そ、それは……」
「そもそもシュス油って重いから、一人では油樽なんて運べない。というか、樽をぶちまけたわりに延焼は残念すぎるね? シュス油一樽あれば、剣二本ぐらいは鍛造できるよ。でもこの燃え方だとせいぜい革袋一つ分か」
「なにが言いたい!?」
「考察してるだよ。あなたがボクらに嘘をついた理由を。そして目的がなんだったかも。ディンケル将軍とじっくり話し合う必要があり――」
「いやっ!!」
最後まで言わせてもらえなかったのは、男がエルネスタの腕を掴んで無理やり引っ張ったからだ。彼女は抵抗するも細首に腕を回され、動いたら殺すという脅しに負けて動けなくなってしまった。
ロズウェルにしても立ち向かって敵うかどうか分からなかった。少なくても男の二の腕に躊躇するだけの動機はある。女ほど非力ではないが、戦闘能力があるとも思っていない。身を挺して彼女を救った代わりに自分が囚われるのも嫌だった。
「まず落ち着いて……」
「俺は故郷に帰りたいんだ。ヘルマンと一緒に帰れば良かった」
「その路銀欲しさに、危ない仕事を引き受けたのかな」
「そうだ、悪いか!」
「悪くないけど、できれば雇い主の名前をチラッと言って……」
「うるせぇ! どうせあの蟲どもにやられて皆死ぬんだ!!」
自分の言葉にどんどん興奮していくタイプらしく、話を聞き出せるような雰囲気でもない。エスネスタの首を締め付けている腕にも力が入っているらしく、彼女が苦しそうにもがき始めた。
(どうしようかな……)
意を決し突っ込もうかと思ったその時、予想外なことが起こった。というより見えてしまった。
階段の上、二階の通路に繋がる場所で、男がこちらを窺っている。間違いなく先ほど後ろ姿を見た奴で、まさか戻ってくるとは思わなかった。
(二人を相手にするのは無理でしょ)
直ぐ後ろには扉がある。蟲は醜魔を追いかけて今はいない。
つまり逃げるチャンスは十分あるということだ。
しかし上の男はロズウェルではなく、下にいる兵士を気にしている。つまり逃げずに済む展望があるということか?
(いや、でもあいつは……)
昨夜のことを考えると確信がない。そもそも今宵起こったこと全ての、意味も目的も理由もロズウェルにはさっぱり分からなかった。
だからこそ、そんな暗中模索の状態でいることには少々飽きてきていた。
(煽ってみるか。いざとなったら逃げればいいさ)
幸い上も下も武器は手にしていない。
「おい、雑兵!」
「なにを……」
「ちょっと考えて。今、そんなことしてなんか意味あるかどうか」
「うるせぇ、黙れ!」
「考えて。敵はボク達か、それとも魔物か」
「全部敵だ!!」
「考えて。この状況で故郷に帰れるかどうか」
「てめっ! 馬鹿にしてんのか!!」
兵士は良い感じに燃え上がって、ロズウェル以外に意識が働かなくなっている。上にいる男は階段の手すりに足をかけている。ロズウェルはいつでも扉から飛び出せるよう、気づかれない程度に少し下がる。
あとは温かく見守ろう。
「いいか、俺はもうどうなったって――!?」
上の男が飛び降りた。
それに驚いた兵士の束縛が緩まり、エルネスタが転がるように逃れる。兵士はそれを捕まえようと手を伸ばすも、落ちてきた男が間に入って、兵士の顔めがけて左拳を出して牽制した。だが即座に兵士が飛び退いて当たらず。すぐさま反撃に出ようとする兵士に、ロズウェルは慌てて声をかけた。
「やあ、雑兵、故郷はこっちだよ!」
兵士が振り向いたのを確認し、扉を開く。すると目前の敵とロズウェルと見比べ一瞬迷った彼は、わけの分からない叫び声を上げながらエントランスを駆け抜け、表に飛び出していった。
「はい、お疲れ様」
そう言って扉を閉じるも、まだもう一人味方だか敵だか分からない奴が残っていることを思い出して身構える。けれど心配する必要はなかったようだ。
「イリス……」
前に立つ男を見上げるエルネスタには不安の欠片もない。
「エルナ、無事で良かった」
微笑みを返す男も、まるで恋人でも見るような目をしている。
ああ、なんだ、やっぱり味方だったか。
ホッと溜息を吐いたものの、すぐに記憶が蘇った。
「ちょっと待て。貴方、さっきここに忍び込んできましたよね、アールステット子爵」
「それがなにか?」
「もの凄く怪しいんですが?」
長い金髪を結び、異色の瞳を光らせ、上着もズボンもブーツもスカーフまでも真っ黒な男の存在そのものが怪しすぎる。油断はできない相手だと、心が警鐘を鳴らしていた。
「ある方から頼まれて、リマンスキー嬢を守りに来ただけだ」
「ある方って?」
ロズウェルの代わりにエルネスタが質問をした。
「オーライン伯爵だよ」
「仮議長が!? でもなぜ……?」
「君は、陛下のご命令で離宮に入ると伯爵に伝言しただろう」
「貴族院には報告しておいた方がいいかと思いましたので。ま、まさか伯爵は今夜のことを予測なさって!?」
「伯爵に尋ねてくれ」
「なぜ子爵に頼んだのかすら、ボクには分からないんですけど」
頼むなら衛兵か憲兵だろう。一貴族でしかない男にどうして護衛など頼む理由があるのだろうか。そんなロズウェルの疑問を勘違いして、エルネスタが少し気恥ずかしそうな様子で返事をした。
「彼と私、親戚なんです。といっても、幼い頃に数回会っただけですけど。彼の母親の妹のご主人のお母上が、私の祖父の妹のご主人の母親の又従姉妹なんです」
それ、赤の他人だろ。
と思いつつも、貴族とはそういうものだとはロズウェルは知っていた。なるほどと納得した振りをして軽く頷く。もちろん知りたかったのはそれでなかったので、子爵を凝視してもう一度質問を繰り返した。
「けどボクは、なぜ貴方に頼んだか知りたいですね。言っている意味、分かります?」
「それも伯爵に。たぶんアールステット家だからと答えるだろう」
「はぁ?」
しかしロズウェルの呆けた声に応えず、子爵は浮かべていた笑みを消した。
「そんなことより外を」
「外?」
そう言われて、ロズウェルは扉の両側にある細いガラス窓の一方を覗き込む。古いガラスなので透明度はないが、吹き抜けの上部まで届くほど長いので、かなり高い場所まで目視ができた。
外は曙とは呼べないほど、夜の痕跡が消えている。青くなりかけた空の光がやけに眩しく感じられた。
だからこそ、その空にある黒い斑点が酷く気になる。しかもその斑点は、蜘蛛の子を散らすかのように四方へと飛び始めているのだ。
「なんだ、あれ……」
「蟲だ」
「そんなのは……」
分かっている。知りたいのはあんなふうになっている理由だ。
しかし細窓ではその全てを見渡すことができず、気づけば扉を開け、玄関前の煤けた石畳の上に立っていた。視線は北の空。その下には帝都の町並みが広がっているはずだ。その場所に黒い斑点が雨のごとく降り注ごうとしている。
「あの使い魔はどうしたんだ!?」
「あそこに」
いつの間にか隣に来ていたアールステット子爵が、やや左側の空を指さす。
そこにはあの醜魔が滑空していて、その両脚と片翼に大量の蟲が集っている。振り切ろうとしているようだが、その数は尋常ではなく、しかも一部が剥がれ落ちて次々と地上へ落ちていっているのだ。
「これ……マズいかも……」
絶望に近い状況に見えた。
あっという間に二人を殺した蟲が街に降りてしまったら、どれだけの人数がいようとひとたまりもないだろう。
「ラシアールは!?」
「戦ったところで敵うとは思えない」
確かにそうだ。一匹一匹は小さな蟲に過ぎない。だがそれが大群となれば、魔物数体以上の存在となる。しかも先ほどより数が増えているように感じられた。
「逃げる方法は……」
「ない」
「ですよね」
これで終わってしまったのか。
もう打つ手はないのか。戦わずとも街にいるラシアールが協力し、全員で結界を作ればなんとかなるかもしれない。
しかしその司令塔となるべき魔将軍は現在ここにはいなかった。
「困った」
こんな最期はあまり想定していなかった。蟲に集られて死ぬとしたら、どんな姿になてしまうのだろうか。できるのなら顔は避けて欲しい。じゃないとあの世に行ってからがとても大変だ。
「困った」
同じ言葉を吐き出したロズウェルを、少々背が高いアールステットが真顔で見下ろしていた。その意味深な視線にびっくりしてなにか言おうとしたが、後から来たらしいエルネスタの声に邪魔された。
「見て、あれ!」
エルネスタの指さしたのは、アースレッドが差した場所とは真逆。
黄色い太陽が昇る東の空に、その陽光を受け駆けてくる姿があった。
青白いベールのような光を纏うモノ。
あれは紛れもなく青い狼。
ロズウェルの位置からでは見えないが、その背には間違いなく金の天子、若き皇帝が乗っているだろう。なぜなら、彼らを追うようにして、無数の光が飛んでいるのだ。そればかりではない。目の前の池からも、小径の脇にある草むらからも、さらに先ほどまで闇に支配されていた雑木林の中からも、無数の光が彼らに向けて浮上していく。
(噂に聞くあれか……)
皇帝が精霊たちを操る力があるという噂も、それを見たという者の話もロズウェルは聞いていた。それでも実際に自分の目で見ると、言い知れぬ感動を覚えてしまう。
「どうやら助かったみたいだ」
「なぜそう思う?」
「あれを見たらそう思うに決まってますよ」
光たちが散っていった黒い蟲を次々と消滅させていく。
朝日の中で、落ちていった先で、そして木々のてっぺんで。
さらに大量の光が、あの醜魔に取り付いている蟲たちに襲いかかった。それを避けて大群が逃げていく。だが青白い光を散らして狼魔が空を駆け、その集団に火を吐いた。
一瞬にして蟲たちが炎上し、次々と火の粉となって落ちていく。
ロズウェルを同じように、人々もその様子を下から眺めているだろう。
そしてまた、皇帝の伝説が一つ増えるに違いない。
「あ、そうか、だれだか知らないけどあの兵士を雇った奴は、皇帝を孤立無援にしようと思ったのか」
「どういう意味だ?」
「ギルド衛兵の仕業に見せかけて離宮を燃やすか、もしくはあの兵士が殺す予定だったのかもしれない。どちらにしてもリマンスキー嬢やラシアールの患者にもしものことがあれば、対立はさらに深まる。それを狙っていたのかも?」
「なんの為に?」
「もしかしたら皇帝陛下を潰そうとしたのか、それとも皇帝の絶対的権力を確固たるものにしようとしたのか。」
「だれが、そんな酷いことを……」
ショックを受けた様子で、真後ろのリマンスキー嬢が呟いた。
「さあ、知りません。ボクの勝手な想像です」
「そうでないことを祈ってるわ。とにかく私、アーニャさんたちの様子を見てきます。きっと心配しているでしょう」
そう言いつつ、彼女は皇帝のいる空を眩しそうに目を細めて見上げた。その瞳は、恋する乙女のそれだと言われればそういうふうに見えるかもしれない。
(皇帝陛下も、色々大変だ……)
もっともそんな懸念は、ロズウェルにとって興味の対象に過ぎなかった。
エルネスタが立ち去ったのを確認し、ロズウェルは声を潜めて、伝えなかったことをアールステットに告げることにした。
「さっきの想像、だいたいは合っていると思いますよ。なにしろこのボクが考えることですからね。十中八九、ボクが間違うことはありません」
「ほぉ……」
「いずれにしても、全ては丸く収まって、皇帝陛下の地位に揺るぎはないでしょう。ボクの機転のお陰だというような自慢はしませんけどね。だから貴方も諦めた方がいいですよ?」
「諦める? なにを?」
「離宮から森へ逃げていく後ろ姿を見かけました。本当にリマンスキー嬢を守るなら、そんなことをするはずがない。そうじゃありません?」
自信たっぷりにアールステットを見返すも、相手はまるで動揺した様子がなかった。
「想像に任せよう」
「想像じゃなく、オーライン伯爵に聞けばすべて分かりますよ。ま、いずれにしても、リマンスキー子爵令嬢になにか想いを抱いていても無駄ですよ。彼女は皇帝陛下を……」
「エルナを? いや、私は彼女よりも君に興味を持った」
「はぁ?」
なにを言われたのか分からず戸惑っていると、突如顎を掴まれた。
「え、なにを……」
そう言っている間にも、異色の瞳がどんどんと近づいて来る。
いったいなにが起こっているのか理解力の限界を超えていた。
そうして唇が直ぐ近くまで来て、ようやくハッと我に返った。
「冗談は止めて下さい」
「嫌か?」
当たり前だ。
そう言いかけた時、天の助けにしてはあまりにもおぞましいことが起こった。
最初は激しい水音がした。
何事かと二人で池の方を見れば、全身水浸しの兵士が岸辺を這いずって近づいて来る。顔半分を地面に擦りつけ、こちらを見る目は死んだ魚のようだ。
「なっ!?」
驚きのあまり数歩下がってしまったが、兵士は足先が水から出た途端に動きを止めた。
その体から黒い煙が沸き出してくる。さらにそれが三つに分かれ、それぞれあの蟲になると、今度は兵士の上を飛び回る。まるで死体に群がる蠅のようだ。
――アイツニ……ツタエロ……マダオワッテハイナイ……。
その声が耳の奥に響くと、やがて三匹の蟲はどこへともなく飛び去っていった。
「ふざけている場合じゃないみたいですよ、子爵。早く彼女たちを連れて、宮殿へ行きましょう」
想像力を超えたことが立て続けに起こった動揺を隠せず、ロズウェルにはそれだけ言うのが精一杯だった。