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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第八章 流星
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第196話 蟲魔襲撃 前編

 枝へとしがみつく葉の隙間から、数日ぶりの月がまばらな光を地上に落としている。その下にいる真っ黒な羽蟲の群生は、宙を(うごめ)き、人型を象った。

 弱い月光がゆっくりと色を作っていく。白い肌、青い髪。それが若いエルフだと分かった時、背後で兵士が小さく呻いた。


「なんだよ……あれ……」


 青いエルフはだれも見てはいない。血色の赤い瞳を少し伏せ、口元に気味の悪い笑みが浮かべている。


(幻……?)


 あれが誰だかロズウェルは知っていた。先の戦いにおいて、首謀者とされるエルフだ。だがたとえ幻だとしても、その事実が目に見えない悪意となって胸が圧迫されるような感覚がある。恐怖に近いなにかだった。


(怨念かな)


 そうであればいいという希望も含まれていた。

 しかしそれを否定するかのように、次の瞬間エルフの体は右半身から少しずつ崩れ始め、闇に溶けていく。


「あああああ……」


 臆病者のサンダースは腰を抜かして、その場に座り込んだ。


「あんなの……俺は聞いていない……」


 兵士が意味不明な言葉を呟く。

 悲鳴混じりの女の荒い息も聞こえる。

 ロズウェルだけではなく、そこにいるだれもが言い知れぬ恐怖を感じていた。


「に、逃げましょう」


 とうとう堪りかねたエルネスタが、震える声で皆を促す。

 言われるまでもない。

 溶けた破片が蟲へと還っていく様子を見て、一刻の猶予もないのだと悟らない者などこの場にいるものか。

 令嬢の言葉にいち早く反応したのが、武器を持つ兵士だった。


「どけぇえええっ!!」


 怒鳴り散らした男は、脱兎のごとく今来た道を逃げ去っていた。


「早く、私たちも!」


 毅然と叫んだリマンスキー嬢と半べその小柄な看護婦が、兵士を追うようにして走り出す。患者を抱えた女もそれに続いたが、その体型もあってかなり鈍足だった。

 ロズウェルは腰を抜かしているサンダースを助け起こすべきか迷ったものの、目の端に黒い塊が迫ってきているのが見えて一瞬で諦めた。


「立って逃げるんだ」


 それだけ言うのが精一杯。けれどものの数秒で、背後から罪悪感を煽るような悲鳴が聞こえてきた。


「やめろやめろやめろやめろォオオオオオ!!」


 なにがあったか確認する勇気はない。代わりに女たちを必死に急かした。


「もっと早く走って!」


 果たして飛行する蟲から逃れられるのか。そんなことを考える余裕すらなかった。

 前方は道がようやく判別できるほどの明るさしかなく、左右は木立に挟まれている。もう少しすれば片側の木々が消えて、小さな池が現れるだろう。池の向こうには宮殿へ繋がるもう少し広い道がある。


(いや、宮殿は無理だ!)


 それならあの離宮まで辿り着ければ、助かる可能性があるかもしれない。どうしようもなく絶望に近い可能性だ。


「もうやぁああッ!」


 その絶望に耐えかねた看護婦が、とうとう道を外れ右の林の中へと突入していった。


「ちょっ!? 待っ!?」


 走りながら、ロズウェルは女の行方を追って視線を動かす。すると黒い群勢が木立の中を縫うように飛んで来ているのが見えてしまった。

 追ったところで自分に助けられるわけがない。錯乱した彼女が悪いんだ。

 そう己に言い聞かせたものの、闇を切り裂く甲高い悲鳴がロズウェルの罪悪感を一つ増やす。“ボクは運が良いから”という言葉も、今だけは虚しく感じられた。


「頼むから、もっと早く走って!」

「むり……もう……限界……」


 息絶え絶えの看護婦だったが、患者を投げ捨てる選択はしなかった。エルネスタは速度を緩めてそんな彼女を気づかった。

 小走りより少し襲い速度に苛つきつつも、ロズウェルが女たちを捨てて逃げる卑劣さはまだ形成できない。兵士の姿はどこにも見えなかった。


(案外ボクもお人好しだ)

 

 むろんアレが飛んできたなら、自分だけが助かる道を選ぶつもりだったが、後ろと左右を確認しても肝心のアレがどこにいるのか分からない。


(逃げたかな?)


 そんな安直な考えは、浮かんだ瞬間に先頭の看護婦が打ち消した。


「ヒィッ」


 小さな悲鳴とともに看護婦が止まる。エルネスタも同時に立ち止まり、その二人にぶつかって停止したロズウェルは、看護婦の肩越しに前方の状況を注視した。

 少し林が開けた先に、黒い塊が浮いている。旋回する羽蟲の大群だ。


「回り込まれていたか」


 逆走したところで逃れられるような気がしない。いたぶられているんだとロズウェルは直感した。


「どうしたら……」


 絶望を含んだエルネスタの声を聞きつつ、逃げることを考える。正義とか潔さとかそんなのは目指していないから、ここにいる女たちを囮にしてでも自分一人助かりたい、もしそれが可能ならば。しかしこの状況では汚点だけ残してあの世に逝きそうだ。


「アッ!」


 旋回する蟲たちが動き出したのと、エルネスタが叫んだのはほぼ同時だった。

 羽蟲は次々と上がっていく。その光景は、まるで煙の中から黒い(ひも)が空へ引っ張られているように見えた。


(諦めたか?)


 これも願望。魔物の意思など分かるわけがない。淡い期待を込めて漠然と見上げていると、事態は一変――――いや、ある意味想定通りのことが起こった。

 紐の先端はかなりの高さまで昇ると、刹那、方向を変えてロズウェルたちの方へ向かって降りてきた。


「逃げなきゃ……」


 エルネスタの声が虚しい。叫んだ本人も、患者を抱える看護婦も、微動たりともできずに荒い呼吸を繰り返しつつ見上げている。

 ロズウェルだってそうできるものならそうしたかった。最期の瞬間に“中途半端な人生だ”と気づかされるほど冷静に、急降下してくる蟲紐の先端を眺める。恐怖で足がすくんでいるわけでもない。ただ、逃れられる手段が見つからないのだ。

 月光を吸い込んで、真っ黒な蟲たちはもうすぐ地上に降りてくる。アレに集られた時、いったいどんな死を迎えるのだろう。世の中は常に死と隣り合わせだと半年前に悟った。それからは以前より増して、なにかに執着することも執着することも避けてきた。

 いい加減に生きる。

 という決意をしたかどうかは覚えてないが、適当な人生も悪くないとは考えていたかもしれない。


(そういえばドルテの奴、どうしたかな……)


 最期に気にかける相手があのクソ野郎だと思えば虚しくもなるが、自分らしいと思えば確かにその通りで、少なくても泣きながら逃げ回るのは容姿端麗頭脳明晰な者にがすべきことではない。

 漠然と、呆然と、短時間にそんなことを考えつつ、恐怖を堪えて蟲紐を眺めていると、思わぬことが発生した。

 ロズウェルたちの斜め頭上まで接近してきた羽蟲たちは、突如ばらけた。それまで隊列を組むように一塊になっていた彼らは、散り散りになってあらぬ方向へとそれぞれ飛んでいったのだ。


(どういうこと!?)


 驚く間もなく、四散した蟲たちはふたたび寄り集まり、同じ攻撃を繰り返す。だが何度繰り返しても、ロズウェルたちに近づくことができない。それはまるで、見えない壁にでも阻まれているかのように―――。


「彼女だわ」


 そう言って、エルネスタは看護婦が抱えているエルフを見る。ロズウェルも同じく覗き込んですべてを納得した。

 手も足も動かない人形のような者だが、白目のない青紫の瞳は煌々と輝き、宙を見つめている。体がほんのりと光っているようにも感じられた。


「そうか! 結界か!」


 初めて彼女が生きているのだと実感した時、その口元にある小さなホクロが妙に艶めかしく感じられた。

 ギリギリのラインで卑怯な行動を取らずに済んで良かった。まあ、何度も迷ったけれど、最終的にそれを選ばなかったのは、やはり自分の運が良いからだ。そう思うと意気消沈していた気持ちに活力が蘇ってきた。


「よし、離宮まで走ろう」

「分かったわ」


 ひとまずだ。どうしても殺したいと思われているのなら、それでなんとかなるかどうかは分からなかったが、自分の幸運を考えれば助かるような気がして、ロズウェルは先頭を走り出した。

 やがて左手に池が見えてきて、さらにその奥に離宮の輪郭が月明かりに映える。羽蟲の攻撃は相変わらずだったが、そのたびにエルフの結界が守ってくれた。

 そうして離宮の正面玄関から中へと飛び込んだ時には、恐怖と疲れで皆倒れかけていた。だからといって安堵したわけではない。火事後の焦げ臭さがそれを許してはくれなかった。シャンデリアのロウソクも残り一本が細々と灯っていて、足元どころかお互いの顔を見るのですらままならない。床はところどころ焼けて穴が開き、玄関扉は下の方が焼け落ちて、完全には閉まらなかった。

 こんな状況でも、ロズウェルの楽観は萎むことなく、むしろ緊張感が作り出した冷静さが、頭の回転を速くさせている。


「なるべく扉と窓から離れて、部屋の真ん中の方に」

「上に行く?」

「うーん、階段がどれだけ焼け落ちてるか見えないな」

「彼女、ええとアーニャさんの力がどれくらい残ってるか心配だわ。こんな体でずいぶん魔法を使ってるから。それまでに諦めてくれるかしら?」

「諦めてくれるまで待つしかない」


 それ以前に、なぜ我々が狙われているのか分からない。

 初めはラシアールを逆上させるために、魔将軍の恋人を狙っているのだと思っていた。けれどそれだけでは説明が付かないしつこさである。他になにか訳があるのかと少し考えて、あることを思い出した。

 八ヶ月前の事件のことだ。真相はなんだったのか興味本位で知りたくなって、情報書記官という立場を利用して、いくつかあった裁判やギルドの資料を色々調べた。イワノフ家の利権争いだったことは知っていたが、本当にそれだけだったのか。

 そうして分かったのは、始まりはあの倒壊した魔法学園だったということ。学園が秘蔵していた魔法書を使い、あの青いエルフが異界から魔物を集めて起きた事件だった。その魔法学園にいたのが皇帝ユリアーナと、それからここにいるリマンスキー令嬢だ。


「エルネスタさん、さっきのエルフ、ご存知ですよね?」

「え……ええ……」

「もしかして、貴方を狙ってるのでは?」

「私を? でも彼は死んだはずよ。だからアレは幻影」

「本当に?」


 肯定の意味でエルネスタが小さく頷く。しかしドルテの話から、過去から蘇った魂が魔物と融合したらしいことをロズウェルは知っていた。それを彼女に今ここで伝えるべきかどうか。

 迷った末やめておいた。ロズウェルも詳しくは分からない。すべてを知っているのはたぶん皇帝とあの獣人だ。いずれ彼らの口から彼女に伝えられるかもしれないが、憶測で物を言うのは止めておこう。むろん自分自身のために。


「蟲はどうしたかな?」


 閉じない扉の隙間から外を窺う。そろそろ夜が明けても良さそうな時間だった。

 離宮の前の小さな庭にも、その向こうの池にも蟲の影はない。


「もう諦めたのかしら?」


 反対側からエルネスタが顔を出す。患者を抱えた看護婦はどうしただろうと振り返ると、精根尽き果てたといった様子でエントランスの真ん中に突っ立っていた。それでも立っていられるのは、素晴らしい体力だ。歳は四十を超えていると思われるが、無事に生き延びたらぜひクライス家に来てもらおう。ほとんど歩けなくなっている婆さんの世話をしてもらうには、持って来いの人材だ。

 その時、視線の端になにか映った気がして、扉の方へと視線を戻す。途端、心臓が飛び差しそうになるほど驚いて、ロズウェルは無意識に叫んでいた。


「うわァアアアっ!」


 驚いたのは、扉の横からフッと姿を現したエルフを見たからだ。先ほどと違ってその赤い瞳はしっかりとロズウェルたちを捉えていた。


「ア、アロンソ……」

「エルナ、ボクを中に入れてよ。だって友達だよね?」


 十代前半の少年のようにしか思えなかった。エルフは若く見えるとはいえ、まだ幼さの残る子供が黒いローブに身を包み、浅く被ったフードの下からエルネスタを見上げ、哀愁を帯びた声で彼女に訴える。しかし口元にある笑みが不気味すぎて、効果は真逆に振れていた。


「いや……来ないで……」

「お願い、ボクを助けて?」

「あ、貴方は死んだはずよ」

「生き返ったんだ、彼に謝りたくて。凄く反省している。だからボクを中に……」

「来ないで!」


 エルネスタが叫ぶと同時に、エルフの顔の左半分から黒い蟲が溢れ出てきた。しかし顔から剥がれた蟲たちは、扉の隙間に入ろうと襲いかかってきた。


「ナ゛カにイレろ……」


 顔が崩れたせいで、声が酷く歪んでいた。

 蟲たちは壁に集るように、その境界線にぶつかっては少年の頭の上を飛び回り、ふたたび戻ってくるが、どうやっても入れないようだ。それでも蟲たちの攻撃を避けたくて二人とも患者のところまで戻っていた。

 すると、エルネスタが心配げに患者を見下ろす。


「どうしよう、彼女、疲れてきてるかもしれない」

「どうして!?」

「だって、光が弱くなってる。それに瞳も……」


 能力のない人間にはほとんど分からない力。僅かに感じる圧迫感がそれだろうか。


 その時だ。

 木が裂けるようなという音とともに扉が内側に開かれた。蟲たちが、先ほど立っていた場所まで侵食してきている。エルネスタの言うとおり、結界の範囲が少しずつ縮まっているのだ。


「……ノを……コワ゛シテヤ……」


 エルフの体がすべて蟲へと戻っていく。耳に聞こえていた声も、魔物のそれとなって頭へと直接響き始めた。


――ソノオンナヲ……ワタセ……ソノオンナヲ……。


「い、いや……」


――アイツ……ノタイセツナモノヲ……スベテ……。


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