第195話 背信の意味
闇黒の森より伸びた一筋の光が、断雲漂う夜空を貫く。しかし瞬く間に下の方から消えていき、やがて月影だけが残された。
その森へフェンリルはためらいもなく飛び込む。ユーリィには陰影しか見えない木立を避けつつ、狼魔は疾走した。
ユーリィも落とされないようにその背にしがみつき、戦いに備えて魔力を集束させる。腕の力は先ほどよりグッと弱くなっていて、その代わりに向かい風の制御が先ほどよりずっと容易かった。
(そういえばさっきまで魔力を感じづらかったかも……)
薬の効果が切れたのなら、安堵とも無念ともつかない複雑な気分だ。
だがそんなことを考えている場合でもなく、雑念を振り払って顔を上げる。どこかにククリが潜んでいるだろうかと目を凝らし、耳を澄ませたが、判るほどの気配をユーリィは感じなかった。
「フェンリル、なにかいそう?」
――魔物の気配はない。
「ってことは、ラシアールは森にはいないのか」
敵はククリのみと決めていたので、余計な戦闘をしなくて済むと思った直後、狼魔は不穏な状況を付け加えた。
――森の向こうに二体。
「え!? それって……」
――上にも一体。
「上はブルーだろ! でも他に二体いるなら早く……」
――悪いが、俺はあのエルフを信用していない。もっと言うなら、皇帝以外何者も信用していない。君に従うと嘘を吐き、向こう側にいる連中と一緒に襲ってくる恐れがある。
「なに言ってる。ブルーはそんなことしないぞ!」
――君のその無極の優しさを抑制するのも、俺の役目だとさっき気づいた。
「なんだよ、それ――」
だが言い切る前に、鈍い爆発音が聞こえてきた。
「もう始まってる!?」
それなのにフェンリルは速度を一気に緩めて、ついには巨木の横で止まってしまった。頭上でバサバサと慌てたような羽音がして、なにかが飛び去っていく。
フクロウだとユーリィは思った。だからほんの僅かに気を逸らし、老人の声を期待する。あの精霊がいればすべては丸く収まるような、そんな気がした。
けれど、その期待は更なる爆発音に消し去られた。
――前だ。見えるか?
言われて前方に意識を戻す。黒い木立の間からは月光色の草原が見えた。緩やかに下っているその先に荷馬車らしき影が二台あり、視界の左右には馬車ではない大きな影。
「あれ、馬車の数がなんか少な……」
――ブルーが来たぞ。
言われるまでもなく、ブルーの使い魔が森を超えていくのがユーリィにも見えた。
だが翼が四枚、蹄のある脚が四足あるその魔物は、左右どちらかの影に近づくのでもなく、馬車のそばに行くわけでもなく、二度三度と旋回を繰り返すばかり。
――やっぱりあの野郎、騙しやがったな。
「でも僕は信じるよ」
本当を言えば“信じる”ということがユーリィ自身も分かっていない。今まで信じた者たちに幾度となく裏切られてきたけれど、それはきっと自分が未熟なせい。だからいつか裏切られない日が来ると、自分を信じたかった。
「それに、なんか遠慮がちに牽制してる感じがする……」
――遠慮がち?
「ほら、奴らの動きが止まてるだろ?」
ラシアールの使い魔と思われる二体は、両側から荷馬車二台を挟んだまま、次の攻撃をやめてしまっている。あと一撃で壊滅状態にできるにも関わらず。ここからでは見えないが、乗っているエルフは上空にいるブルーを眺めているだろうと想像できた。
「あ、いいことを思いついた」
考えた作戦を口にするも、狼魔の賛成は得られない。事前の打ち合わせもしていないのにそれは無理だと、即座に否定されてしまった。
「ブルーが僕を信じているなら分かるはず」
――あいつをそこまで過信する理由が分からない。
「僕はいつだって誰かを過信しすぎてるよ」
――そして後悔をする。
「後悔したことなんて一度だってない。お前の時もそうだ」
昔は自分だけがそれを持ち、自分だけが汚いと考えていたけれど、誰もが心に暗い部分があることを今は知っている。出会ってきた者たちの多くは、その闇に囚われて堕ちていった。ブルーだってそうなるかもしれないと分かっている。
でも好きな者たちには負けないで欲しいと思う。何度も堕ちそうになった自分がヴォルフに助けられたように、自分も彼らを助けたいから、だから信じたいと思う。
けれど負けてしまっても、責めたり後悔したりするつもりもなかった。
(哀しいけど……)
いつだって裏切られて残されるのは、後悔ではなく哀しみだ。
「行け!!」
これは逆らうことを許さない絶対命令。
狼魔はもう反論することなく、森の中から矢のごとく飛び出した。
木の葉が散る、両頬を風が擦る、青白い放射光が流れる__。
闇黒から月夜へ目が慣れるまで数秒__。
空へと駆け上がる狼魔から落ちないように風を制御しつつ、下を眺める。荷馬車が二台しかいなかった理由を瞬時に理解した。
森から緩やかに下った場所に街道がある。そこに大きな窪みがあり、一台は片側の車輪を、もう一台は馬ごと嵌まっていた。それほど深くはないが、馬一頭で馬車を引き上げるには無理そうだった。
森を挟んで街道の反対側も斜面となっている。そちらはわりと急坂で、斜面の下に荷馬車が転げて、綿花らしいものが雲のように四散していた。馬の姿はない。繋いでいたロープが切れて逃げられたのだろう。ロズウェルの話では、馬車は全部で五台らしいので他の二頭も逃げているといいなと思ったユーリィだったが、薄暗い広範囲を確認する視野も余裕もなかった。
「人間はどうしたんだろ……?」
――馬車の影に固まってるぞ。
「馬車!?」
言われて見直せば、三人が窪みの底にある馬車の後ろに隠れている。ただ一人だけ軍服を着た長髪が、ユーリィたちの方を向いて大きく手を振っていた。
「あれ、マイベールか。なんか叫んでる」
――そんなことよりホントにやるのか?
「もちろん!」
旋回していたブルーの使い魔は、前方上空にて滞空している。そこをめがけてフェンリルは一直線に突っ込んでいく。ユーリィは振り落とされないよう必死で風を制御した。
向かっていった狼魔を、ランガーが寸前で躱す。背に乗るブルーの眼は驚いたように見開かれていた。
ユーリィはそのエルフに見えるように下を指で示した。きっと分かってくれると期待を込めて。
ランガーに躱されたフェンリルはその背後を旋回し、まだ体勢と整えられずに真横を向いている敵にふたたび突撃した。
「本気でやるなよ!」
――分かってる。捉まってろ。
「狙いは黄色の方だ」
ランガーに急接近した狼魔は寸前でスッと軌道を下げた。ユーリィの頭上を蹄の付いた四肢が過ぎていく。絶妙なタイミングだ。
そのままフェンリルは何度かランガーへと炎を放ちつつも、旋回しながら高度を下げて続ける。後ろからはブルーが追ってきていた。
ユーリィは落とされないように気をつけながら、地上の様子を窺った。
黄土色に見える魔物は人間の二倍ほどの大きさがあり、毛むくじゃらのずんぐりとした体型をしている。前脚に比べて後ろは太腿の付け根から逞しい。顔は潰れた犬のようだ。その魔物の首に手綱を付け、小柄なエルフが乗っていた。
エルフは狼魔がかなり接近しているにもかかわらず殆ど動かない。まだ自分が標的だと気づいていないのだ。
(ラシアールが戦い慣れしてないのが助かった。これならきっと……)
フェンリルは、なんだかんだ文句を言いつつも自分の作戦に従ってくれる。ブルーへの牽制に四回炎を噴き出した時、狼魔は地面すれすれまで降りてきていた。
「行くぞ!」
短剣を握って滑空するフェンリルから飛び降りる。風が支えてくれたので衝撃は殆どなかった。敵はようやくこちらの意図が分かったらしく反撃しようと後ろ脚で立ち上がったが、狼魔の方が速い。
黄土色の横っ腹に頭から突っ込んでいく。大きさも力も圧倒的にフェンリルの方が優っているから、あっけなく魔物は倒された。その衝撃に乗っていたエルフが弧を描いて、街道の下へと飛ばされていった。
ユーリィはそれを追って斜面の上に立つと、短剣を掲げる。
「レネ!!」
たちまち旋風が生起して、地面に叩きつけられる間際のエルフをやんわりと支えた。細い体へのダメージは半分で済んだだろう。
尋ねたいことが山ほどあるから、死んでもらっては困る。
しかし反撃するだけの気力を持たれていても困る。
短剣を斜め上に振り抜いて、集束させていた魔を解き放つ。
二つの風刃が雑草を切り裂いていき、やがて倒れるエルフの横を過ぎていった。
「ひ、ひぃ……」
「動くな、動いたらお前が真っ二つだ!」
コクコクと頷いたエルフに、ユーリィは肩の力を抜いた。エルフの上をレネが飛び回っているから、ひとまず抵抗はないだろう。
振り返ればフェンリルは例の魔物の首に食らいついて抑え込んでいた。
「キャァアアアア、獣爵様ァアアアア、素敵ィイイイ」
それは聞かなかったことにして。
ブルーはどうしたかと反対側に目をやると、巨大なネズミのような形をした魔物の前にランガーを着地させ、その背に乗るエルフになにか怒鳴っているようだった。
ユーリィとブルーの前には二人のエルフが膝を突いて座っている。背後にはフェンリルとランガー、その間に赤毛の巨漢が立っていた。
二体の魔物はさらに離れた場所で、ブルーの結界魔法で捉えている。他の人間たちはまだ馬車のそばから離れない。マイベールの話では最初の攻撃でギルドの三人を乗せた馬車と、二人の御者と、六人のギルド兵が逃亡したらしい。まだ夜が明けるまで時間があるので、どこかに隠れていても探す出すことは難しいだろう。
「黙ってないで早く答えろ! ククリと結託して襲うつもりだったんだろ!?」
ブルーが主に怒っているのは、彼の右前方にいるエルフだ。ネズミ型に乗っていたその男は、唇を噛みしめて悔しさを露わに俯いている。彼が長老の孫セバらしい。
「どうなんだ、答えろ!」
「その前に聞きたい。あんたは俺たちを裏切ったってことだな?」
上を向いたエルフの赤紫の目は、鋭い光を放ってブルーを睨む。その隣にいるユーリィは完全に無視しているようだ。
「帝国の将軍が裏切る相手は、ここにいらっしゃる皇帝陛下しかいない」
「ラシアールであることを捨ててか!?」
「ラシアールを捨てることと皇帝に従うことがどうして同じなんだ」
「それは俺たちが――」
「僕はまだラシアールが敵だなんて思ってないけど?」
ユーリィの言葉に、セバはプイッと横を向いた。
「メノはどうなんだ?」
ブルーは諦めたのかもう一方に声をかけた。そっちは気弱そうに俯いたままだ。ずいぶん若い男だ。ただしこんな暗がりではエルフの年齢など正確には分からないから、あくまでもユーリィが感じた雰囲気だ。
「オレは……ただミランが可哀相で……」
「アイツは自業自得だ」
「でもアナタの親友だったんですよね?」
「ククリなんかの口車に乗ったのがバカなんだ、お前らも俺もミランも。エルフの世界を創るだって? そのために半年前奴らがやったことはなんだ? 別のエルフを利用して殺して、破壊しまくっただけじゃないか。ラシアールだって奴らに何回騙されたか忘れたのかよ。長老もそのことを忘れてククリなんかに――」
「爺さんは騙されてなんかないぞ!」
横を向いていたセバが、顔を戻してブルーを睨んで声を荒げる。
さてどんな話が出てくるかと期待して、ユーリィは無表情で聞いていた。
「俺がククリと一緒にエルフの世界を創ると宣言したら、それなら人間に土地を要求してラシアールだけの国を建国しようと言い出したんだ。だからククリなんかに協力などするなって。爺さんはククリを信用しちゃいなかった」
「なるほどね。だけどお前はそれに納得できなかったわけか?」
「どうせなんだかんだはぐらかされて、また人間に利用されるに決まってる!」
セバの戯れ言は置いとくとして、ククリたちの目的と今回の襲撃がユーリィは気になった。だれかの陰謀だとしても、大元がだれなのかさっぱり分からない。なのでこの際だから煽ってみようと、反抗的な目をするエルフを高圧的に見下ろした。
「それにしたってこんなセコい襲撃でも負ける連中に、エルフの世界が作れるのか?」
「セコいだと!?」
「しかもこの輸送は明らかに命令違反だから、痛くも痒くもない」
「物資が足りない帝国で、そんな強気でいいのかよ!」
「言っておくけど、ひと月前にはこの百倍の収穫があり、三分の一はセシャールに輸出している。お前が考えるほど帝国は壊れてはいないよ。そんなことも知らずに土地だけ奪って、いったいなにをするつもりだったんだ? 昨日まで人間が作った物で暮らしていた連中になにができる? 国を作るんだったら帝国はお前らと交易なんてするつもりはない。せいぜい自分たちで耕して、芋でも豆でも作って暮らせ」
「ぐ……」
悔しがりつつも反論ができないエルフに、ユーリィは呆れかえった。
人間だってエルフだって、霞を食べて暮らしているわけではない。水だって必要だ。皇帝の仕事の大半は、そんな物資をどうやって手に入れて、どうやって配分するかを考えてばかりだ。今のところ大人しいセシャールもフォーエンベルガーもどう出てくるか分からない。北ではフェンロンが動き出す気配すらある。それ以外にも、この大陸には二十以上の国があり、大勢の人間が暮らしていて、それらを滅ぼしたのちに作る世界など、箱庭に芋と豆を撒けば十分なほどの規模ではないか。エルフなんてせいぜい一万もいるかどうかだ。
馬鹿らしくて話にならないが、さらに聞き出さなければならないことがあった。
「しかもククリには簡単に騙されたよね?」
「騙された?」
「この襲撃に協力しろって言われたんだろ?」
「奴らは最初から参加する予定なんかなかった」
「へぇ。じゃあなんのために?」
「知らねぇよ。ただ輸送部隊を襲えば、人間を脅せるって……あの男に……」
「あの男?」
口を噤んだセバをブルーが説得にかかった。
「陛下はこう見てても温情ある方だ。正直に話せば、ラシアールと戦おうなんってお考えにはならないぞ。お前らの使い魔で、フェンリルや精霊に立ち向かおうなんて無理なことは分かってるだろ!」
「こう見えてもは余計だ、ブルー」
「あ、済みません」
頭をかいて誤魔化す魔将軍を横目で睨んで、ユーリィはセバらを見下ろした。
「最後通告だ。知っていることをすべて言え!」
「わ、分かりました……」
セバより先に若いエルフが口を割った。
「オレらに言ってきたのは赤目のククリです。成功すればオレらを信用するって」
「ロジュか……」
あの男はまだ諦めていない。
それを知っただけでも収穫だった。だがロジュがこんなつまらない作戦を考える理由が未だに分からなかった。
「あの光は?」
「あれは部隊がここを通ったら教えてくれることになってました。俺たちは向こうの方で待機していたので」
そう言って若者は森の反対側を指さした。
「二人だけで襲撃か? 仲間は他にいるだろ?」
「アイツら、直前になって怖じ気づいて。で、オレらが成功したらちゃんと協力するって約束させたんだ」
「オイ、よくよく考えたらその話はちょっとおかしいぜ」
ユーリィを押し退けるようにしてブルーがグッと前に出た。
「俺をここに来るように命令したのは長老自身だぞ。つまり長老も襲撃に加担しているってことにならないか?」
「知らないよ、そんなこと」
「なるほど、つまり長老にはまた別の思惑があるってことだね。そういえばマイベール……だっけ?」
背後にいた赤毛の長髪は、よもや皇帝が話しかけてくるとは思っていなかったようで、驚きの表情を隠しもせずに二度ほど頷いた。
「お前がクライスに、この輸送部隊の話をしだんだよな?」
「え、ええ、そうですけど……」
「ギルドの連中に、あの男が混じっていた?」
「あの男?」
「ニコ・バレクだ」
「ああ、あの方なら馬車に乗ってました」
「その馬車はどこに逃げていった?」
「向こうの方に」
エルフと同じく草原の方を指さす。
積み荷をすべて捨てて暗い草原を逃げていくとは、よほど慌てていたのだろう。もっとも両方から挟み撃ちにされれば、そこしか逃げ場所がないからしかたがない。しかしそれほど遠くには行っていないはずだ。今から探せば__。
そんなふうに考えていた時、ブルーの声がユーリィの耳に届いた。
「それにしてもこんな小規模な部隊の襲撃を俺が本気でやれるって長老が考えていたなら、相当見損なわれているんだな」
確かに見かけによらず男気のある奴だから、たとえ恨みがあったとしてもブルーなら躊躇ったかもしれない。幼馴染みを失った哀しみを抱いていても、彼は決して卑怯な真似などせずに正々堂々と皇帝に反論した。
もしその気があるならば、帝都を___。
「あっ!!」
酷く嫌な予感がした。
ブルーを帝都から遠ざけた理由がそれだとしたら今頃は……。
「フェンリル、帰るぞ!」
「いきなりどうしたんですか!?」
「ブルー、たぶん帝都が危ない」
「まさか!?」
「間に合えばいいけど……」
「だったら俺も」
「ブルー、お前はここの事後処理を頼む。ギルドの連中も探してくれ。そこの二人も協力するなら今回のことは大目に見る。それとも芋と豆を作って暮らしたいか?」
長老の息子は黙ったまま俯いてしまった。
「お一人で大丈夫ですか!?」
「お前が行ったら余計にややこしくなるだけだ。魔将軍は今回の件には一切関わりがない。その事実だけがお前を守れる唯一のことだからね」
近づいてきた狼魔に飛び乗ろうとして、少しよろけてしまった。目覚めてからまだ数時間しか経っていない体は、かなり限界に近づいているようだ。
――大丈夫か!?
「ヴォルフ、僕たちの街を守るぞ!」
狼魔でない魂にそう命令し、ユーリィは雲が流れる夜空を睨み付けた。
☆ ★ ☆
キャラ:ジェイド・スティール
作画:利田鶏様