第194話 剣が峰
テーブルのランプが薄闇を作っている。室内のすべてが灰色と化して、その中にいる自分はあまりにらしくないとロズウェルは感じていた。
原因はリマンスキー嬢が考え無しだったことだ。感情にまかせたようなこんな作戦で得られることなどなにがあるというのか。薄闇に死という影があるような気さえして落ち着かず、窓際を行ったり来たり繰り返した。自分の予想が間違っていればいいと思ったのはこれが初めてだった。
(彼女、ここで潜むってどういう意味か本当に分かってるの?)
相手は見舞いに来るのでもなく遊びに来るのでもなく、確実にあのエルフを殺しに来る。もしその相手が室内にいなくても、顔を見られれば口封じを試みないとは思えなかった。つまり二つの部屋のうち、敵がここだと考えて開けた方にいるどちらかが狙われる。それは自分か彼女か。相手がどの程度ここの状況を知っているかによるが、その可能性は五分五分だった。
(今さら中止を言い出せば、臆病者のレッテルを貼られそう)
自意識過剰だの荘言大語だのと思われるのは腹が立つ。容姿が良く頭脳が明晰なのは疑いようもなく、戦闘力はそれほどないことは自覚しているのだから、なにひとつ間違ったことは言ってはいない。自分を必要以上に卑下したり偉ぶったりするよりずっとまともではないだろうか。
(それはともかく、ただ待っているだけっていうのも……)
けれど室内を見回したところで武器となりそうな物などなく、ロズウェル自身も持ち歩くような人間ではない。灰色のこの部屋で一番目に付くのはランプのみだった。
(あれを使えば……)
もし患者が夜間起きていると知っている虫ならば、必ず明るい部屋に寄ってくる。何処から来る虫なのか探るにはもってこいの方法だ
部屋の中央にあるテーブルまで行くと、ランプに手を伸ばす。その炎を強めるべきかと消すべきか迷った末、結局手を引っ込めてしまった。
(ま、ボクが賭けをする必要はないか。囮になる理由もないし)
そのままテーブルを離れ、扉の陰となる壁際に立った。
程なくして、扉の外から物音が聞こえてきた。呼吸に紛れるほど僅かなその音に、ロズウェルは思わず息を止める。それでも静寂の中にある塵のような雑音が耳障りだ。
それが靴音と分かったと同時に、悲鳴にならない女性の声がした。
(なんて間抜けだ。彼女が襲われたあとを考えていなかった)
滅多にないそんな自分にロズウェルは少しほくそ笑んだものの、身動きはせず聞き耳を立て続ける。相手がだれか確かめると彼女が言い出したことだ。ならその言葉に従わせてもらおう。悪人ではないつもりだが、勝算もない戦いをするほどは間抜けではない。
そんなふうに考えても軽い罪悪感には苛まれて、首筋が強ばっていく。
すると、次に聞こえてきた音は予想を遙かに超えていた。
「てめぇ、なにしてやがる!!」
一瞬リマンスキー嬢が抵抗し、それに怒った暴漢が叫んだのだと思った。だがその思考とは裏腹に、ロズウェルの視線は窓を捉える。
刹那、扉が閉じられる音がした。さらに忍ぶことをやめた靴音が、ロズウェルの潜む部屋の前まで近づいてきて、緊張に肩が震える。
しかし音はそのまま通りすぎ、奥へと駆けていく。奥にはもう一つ、召使い用の階段があるのはよくある構造だ。つまり敵は逃亡を試みている。
「ふざけんな!!」
窓の外から、またもや怒号が聞こえてきた。
隣の部屋はなんの気配も感じられない。
(さて、ボクはどうしますか……)
今すぐの決断を迫られている。一度に入ってきた情報を分析している暇などなかった。このままジッとしているか、窓から外を確認するか、隣を見に行くか、敵を追うか。一番自分らしいものを選ぶとしたら?
考えるまでもないと、ロズウェルは扉を僅かに開けて廊下へ顔だけ出した。壁に付けられた三つの楼台のロウソクが、歩けるだけの光を放っている。室内より明るい世界に目が眩んだもののすぐに慣れ、左手奥を確認できるだけの視界が戻った。
誰もいないことに安堵し、滑り廊下に出る。右手にある扉を一瞥したのち、確認した方へと歩き出す。
(ちらっと見ただけで覚えているボクは優秀)
果たして、廊下の一番端にあったのは明り取り用の細長い窓だ。召使い用の階段があるのはよくある構造だが、ここに窓があるかどうかは建物による。二階に上がってすぐ、その窓がロズウェルの記憶に残っていた。
(見えるかな?)
雨上がりの闇夜だ。ロウソクに照らされた内部から見えるだろうかと懸念しつつ、用心深く窓外を覗く。幸いなことに薄雲から月が顔を出していて、建物から離れていく人物の後ろ姿がぼんやりと見えた。離宮の裏にある林の中へちょうど入るところで、背格好と髪型程度しか分からない。しかし、相手がだれなのかロズウェルにはピンと来るものがあった。
(なるほど、そういうことね)
納得しつつも不快感はぬぐえない。
いっそククリであったなら良かったのに。こんな真似をしてどうなるのか分からない者がこの世にいるとは、ロズウェルにはおよそ信じられなかった。私利私欲に目が眩んでいるのだろうか、憎しみに視野が狭まっているのだろうか。
そんなことを想像していると、どこからともなくきな臭い匂いが漂ってきているのにはたと気づく。
(なんかもの凄く嫌な予感が……)
躊躇いがちに振り返れば、ちょうどリマンスキー嬢が部屋から出てこようとしているところだった。彼女もまたロズウェルの姿を認めて動きを止める。感じているだろう不安は、まるで霞かかったかのような幻想的な背景と相まって、手に取るように――。
「って霞でも幻でもない! エルネスタさん、火事だ!!」
「え!?」
彼女は階段の方を振り返り、上がってくる煙に驚いた様子だった。
「逃げるな!!」
例の怒号がまたもや聞こえる。
なにがどうなっているのかは分からないが、絶体絶命でないことを祈りつつ、ロズウェルはエルネスタに向かって手招きした。
「こっちに召使い用の階段がありますよ!」
「他の人たちは!?」
「おっと、ボクとしたことが忘れてた」
向かい側に並ぶ扉のうち、左から二番目、ロズウェルの斜め前にある扉にか駆け寄り、乱暴にノックを繰り返す。思った以上に焦ってる己を自覚しつつも、「火事だ! 出てこい!」と命令口調で訴えた。
恐る恐る顔を出した看護婦は、ロズウェルが指差した方向に見て、カエルが潰れたような悲鳴を上げた。
「グエッ!」
「裏にはまだ火の手が回っていないから、急いで脱出するよ」
「患者は……」
「ボクが抱えて逃げられるかな?」
「あ、はい、そうですね」
瞬時に納得されて苛つくも、今はそれどころではない。内部を覗き込むと、椅子に座らされた患者の他にさっきはいなかった看護婦がそばに立っていた。
「彼女は……」
「あの子は隣で仮眠してたんです」
「そういえば確かもう一人いたね」
離宮は昼夜交代の三人体制ということを思い出し、ロズウェルは口早に尋ねる。火の手が迫っている今、他を構っている場合ではないけれど、見殺しにしたら寝覚めが悪くなるかもしれない。
「サンダースさんなら下に。彼は看護人ではなく、料理人兼雑用係なので」
「あ、彼ね、彼女じゃなくて」
ならどうでもいいや。
という気持ちがちょっぴり声に出てしまい、取り繕うつもりで付け加えた。
「もう逃げてるかもね。とにかく急ごうか。まずボクが先に降りる」
「先……?」
背後にいるリマンスキー嬢の言葉に、ロズウェルは振り返ってにっこり微笑んだ。
「さっきの奴がいたら困るでしょう?」
「え……あっ……」
彼女は眉間をやや動かしたものの、唇を噛むように口を閉ざした。
その様子から、どうやら相手がだれかを彼女もまた気づいているのだとロズウェルは理解する。しかしその意味を考える時間は、今はなかった。
「さ、急ごう」
廊下は煙がかなり充満してきていた。むせかえるほどではないものの、燃え広がっているという想像は安易にできるほどだ。表情を強ばらせた女たちを従えて、ロズウェルは宣言通りに狭くて急な召使い用の階段を慎重に降りていった。後ろには患者を抱えた体格の良い女が続き、その後ろにリマンスキー嬢、最後はそばかすの女がヒィヒィと悲鳴を上げつつ降りてきた。
幸いに階下は思ったほど煙はなく、視界も良好。二つある扉のうち外に繋がる方を開けば、すぐに夜の空気が流れ込んできて、匂いと一緒に漂っていた緊迫感が薄らいだ気がした。
「早く外へ」
そう言って先に外に出たロズウェルだったが、目に飛び込んできた寸劇に足が止まってしまった。
「貴様もあいつの仲間だろ!!」
「ヒィイイイ、違います違います」
腰を抜かしている男に長剣を突きつける兵士。あの怒鳴り声の持ち主は、二人いた兵士のうち軍兵の方だった。
「サンダースさん!!」
後ろから聞こえてきたその声で、だいたいの想像ができてしまった自分はやはり天才だとロズウェルはひとり悦に入っていた。
数分後、ロズウェルは雑木林に囲まれた暗い道を歩いていた。
隣には先ほど腰を抜かしていた男。真後ろには片足を引きずる軍兵。彼の持つ長剣が絶えずロズウェルたちを狙っている。
兵士の後ろには女三人と患者一人。彼女たちはなぜ、その素敵な男性は私達を助けてくれたのですと言えないのか。
想像は正しかったものの、こうなる展開までは予想していなかったロズウェルは、兵士に聞かれないように小さな溜息を吐き出した。
(衛兵が火を点けたからって、ギルドが全員暴漢じゃないんだけど。少なくてもリマンスキー嬢は、ボクがなにもしてないって知っているはず……アッ、まさかギルドに全部罪をかぶせようってしてる?)
逃げていったのは、以前宮殿で見た男に違いないという確信があった。
金の髪をして、違う色の瞳を持つあの男だ。
(名前はええと、アールステット子爵。貴族院の総務長に就任した奴だ。ミューンビラーの一派だという噂もあるけど、オーライン仮議長とリマンスキー嬢の推薦だったはず)
そう考えれば、彼らもこの陰謀に加担している可能性はある。疑い始めれば、足元にいる蟻ですらなにかを企んでいるように思えてしまう。
しかしギルドの人間としてまず懸念すべきは、ジョルバンニがどこまで関わって、本当に破壊を望んでいるかということだ。
隣を歩く男を横目で見る。年はたぶん四十前後。髪型はつばのない帽子のようで、目がしょぼしょぼと小さく、口元がだらしなくて、表情は怯えた犬みたいなこの男が、悪事を働いたようには思えなかった。
「もたもた歩くな!」
背後にいる兵士の怒鳴り声が聞こえてきた。背中を突っついているのは剣の先だろう。しかし下手に反撃したら返り討ちに遭うことは分かるので、ロズウェルは黙って歩を早めた。
軍兵は完全にいきり立っていた。彼が興奮した様子で説明した話によれば、離宮の玄関に火を点けたのは、暗い表情をしたあの憲兵だったそうだ。ちょうど話の中に用を足しに行っている間、どこからか持ってきた油樽をエントランスにぶちまけ、松明を投げ込んで離宮を燃やそうと試みたとのこと。そこへ軍兵が戻ってきて、ひとしきり剣でやり合ったのち、相手は森の中に逃げていったらしい。
その後、炎はなんとか消し止めて ――夕方まで降っていた雨で建物が湿っていたのが幸いしたのだろう―― 中の人間を助けようと裏に回ったところで、こそこそと逃げだそうとした男を捕まえたというわけだった。
(油を撒く前に、衛兵がアールステット子爵を中に入れたんだとしたら、ギルドと貴族はやっぱりグルってことか。その前にあの子爵はなにしに来たんだ……?)
そんなことを考えつつ、細い道を西に向かって歩いて行く。宮殿の南側にあるちょっとした雑木林の中だ。明かりは兵士が持つ松明のみ。空はまだ雲が覆っていて、たまに顔を覗かせる半月の光はあまりに頼りなかった。
この先にあるのは陸軍本部である。いきり立ってはいるが、軍兵が早く上官のいる場所に行きたいと思っていることは明らかだった。
すると____
「アッ、アッ、アアアアアッ!!」
ロズウェルのすぐ横で、恐怖を含んだ叫び声がした。見れば怯えていたサンダースが、さらに怯えて尻餅を付いて天を指さしている。その方向へ顔を上げると、ちょうど黒い影が西から北へと旋回していく姿が、枝と枝の間から見ることができた。
「ま、ま、ま、魔物!!」
「落ち着けって。あれは皇帝陛下の使い魔。東公園で水を吐いてた」
「だって、あれは作り物……」
「じゃないらしいよ。ボクも動くのは初めて見たけど」
「ウゲッ!! 俺、あそこの水、何回も飲ん……」
「死んでねぇなら大丈夫ってことだろ!! 早く立て!!」
まったくどっちも興奮し易い連中だと、ロズウェルは肩をすくめた。そっと振り返れば、看護婦二人は完全に怯えた表情をしている。暗がりにいるリマンスキー嬢の顔は見えなかったが、どんな表情をしているだろうとロズウェルは思っていた。
なぜ彼女はこの兵士に素直に従っているのか?
同じ平民でる武器屋の自分はともかく、貴族である彼女なら“解放しなさい”と命令をすれば、なんとかなるかもしれないのに。
(子爵がまた襲ってくるのを恐れている? それともなにか企んで?)
考えても分からないことを考えてもしかたがないと、ロズウェルは早々に諦めた。
「さあ行くぞ。本部できっちり取り調べてもらうから覚悟しろ!」
ロズウェルの立場も、リマンスキー嬢の地位も完全に失念している軍兵は、長剣を握り直して、サンダースの背中を突っついて立ち上がらせた。
陸軍本部に行くことはロズウェル自身、なんの問題がない。あそこには父親がいて、ディンケル将軍がそばにいる。そうしたらこの腹立たしい兵士にちょっとしたお仕置きをしてくれることも期待できた。
だが____
「ウァアアアアアア!!」
「またかよ!」
兵士と同じ気持ちでロズウェルもサンダースを見る。
帽子型の髪をした男は、全貌を指さして恐怖に顔を引きつらせていた。
「あ、あ、あれ!」
「あれってなにが……えっ!?」
さすがのロズウェルも叫ばずにはいられなかった。
真っ黒ななにかの集合体が、前方にある木の下でワサワサと動いている。最初は羽虫の群飛かと思ったのものの、よく見れば黒い人型を象っていた。
――こいつらを殺せってこと、父さん?
それは、確かにその黒い集合体の方角から聞こえてきた。
――こんな数じゃ全然足りないよ。ここを壊していいって、あの片腕男も言ってたじゃないか。そうしたらボクは……オレハ……ボクは……オレハ……
たぶんここは剣が峰だ。
それが分かったとしても、この時ばかりは“ボクは優秀”とは思わなかったロズウェルだった。
☆ ★ ☆
エディク・アズベルト・イワノフ
作画:スガシ(管士)様