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黄金の天子 ~我が皇帝に捧ぐ七つの残光~  作者: イブスキー
第八章 流星
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第193話 少女は恐怖を胸に抱く

「だれ……?」


 ともすれば叫び出しそうな気持ちを抑え、エルナは入ってきた者にそう尋ねた。しかし声の震えだけは抑えきれず、ぎこちなく胸の下で組んだ指先も震えている。

 ほんの一瞬、真横にある空のベッドに視線を走らせたが、すぐに正面の扉へとそれを戻す。人物の顔はほとんど見えない。最小限に火を落としているサイドテーブルのランプは、暗闇は防いでくれているものの表情を見せるだけの力はなかった。


「だれ……なの……?」


 もう一度同じ質問を繰り返す。

 背格好から男性だとしか分からなかった。





 皇帝の私室を出た足で私室に戻ったエルナだったが、休もうという気にはなれなかった。獣爵とともに宮殿を出て行ったらしい彼のことが気がかりだった。

 窓の外を見下ろせば、宮殿の西からやってきた兵士の隊列が、正門へと繋がる馬道を行進していった。この宮殿に来てから何度も見た情景だ。

 今夜、緊急に戒厳令を敷いたのはどうしてだろう?

 ディンケル将軍はなにも知らない様子で、唯一知っているだろう人物は問いただす隙も与えず消えてしまった。


(あの人がなにか言ったせいだと思うけど、でもいったい……?)


 ギルド情報書記官であるクライス氏について、エルナはほとんどなにも知らない。その口ぶりと態度から頭脳と容姿が自慢らしく、次女のミラも何やら騒いでいた。エルナ自身は全く興味が湧かず、毎日事務的な会話を交わすだけだった。


(それになぜ、私にあんなご命令を……?)


 離宮にいるエルフのそばにいて欲しいと言われた。返事をした時は単純に女性同士だからと思ったが、看護婦が常にそばにいるのだから必要性が見当たらない。噂によればまだ目覚めてはいないようだ。

 深い意味などないと考えれば確かにその通りで、いつからとも言われなかった。だから明日でも明後日でもかまわないと考えても間違ってはいない。


(今夜からでも間違ってはいないわよね?)


 どうせこんな状況では眠れやしないのだ。患者はずいぶん回復しているという話だから、今夜意識が戻るかもしれない。そうしたら刺された時になにがあったのか一番に聞き出せる。

 決意したエルナは手早く髪を整え、男装のような上着の襟を正し、なるべく人に見つからないように私室を出た。とは言っても宮殿内外はいつもの三倍近くの兵士が徘徊している。そんな中を小娘が一人行けば注目の的になるのはしかたがないが、情報書記官という役職が少し言い訳になっていた。

 しかし兵士らとすれ違ったのは宮殿の周りだけ。裏庭園の間を通る小径を辿っていくうちにとうとう誰にも出会わなくなった。

 目的地は宮殿の南側にある広大な裏庭園の外れ。裏庭園は円錐型に整えられた木々と、幾何学的な形をしたレンガ積みの花壇を組み合わせた典型的な王宮時代の造りになっている。

 まだ夜は明けそうもない。空を覆う雲に、薄らと輪郭だけの月が透けていた。それでも足元の心配をせずに済んでいるのは、綺麗に並べられた石畳と、所々に立っているオイルトーチのおかげだ。

 ひんやりとした夜風が心地よい。真夜中に御者を起こすのをためらって徒歩で選んで良かった。と思っていたのは最初の頃だけで、背後にある宮殿全体が見渡せる場所まで来た時には、後悔する距離だと悟っていた。


(最近あまり歩いていなかったせいね)


 幼い頃は領民の子供たちと一緒に丘を駆け回り、時には泥だらけで城に戻って二人の姉を呆れかえらせた。


“エルナは男の子みたいだわ”


 それが四つ上の姉の口癖だった。

 あまりのお転婆ぶりにこれでは嫁に行けないと思ったのか、ある日母親が教育係という女性と連れてきた。


“お嬢様、ご令嬢はいつも品格ある振る舞いをしなければなりませんわ”


 彼女の最初の挨拶は確かそんな感じだ。それからは許可なく外出することもできなくなり、食事の作法だけではなく動作一つ一つまで数え切れないほど注意を受けた。

 けれど、昨日までは野原を転げて遊ぶような子供が、一朝一夕に令嬢になどなれるはずもない。生まれ変わったつもりで、いやたとえ生まれ変わったとしても、椅子から立ち上がるだけで優雅さを作るにはやはり訓練が必要だった。

 そんな訓練の厳しさに辟易した幼いエルナは、何度も二人の姉に愚痴をこぼしたが、その度に彼女たちは品格ある微笑みを浮かべて、「私たちも通ってきた道よ」とたしなめられた。


(ノーマ姉様、大丈夫かな)


 控えめで大人しい身重な上の姉が、どんな思いで拘束されていた義兄を待っていたかと思うと、エルナの心が痛んだ。

 そればかりでない。故郷には母と幼い弟がいる。たとえ母の最後の手紙に“貴方の思う通りに”と書いてあったとしても、叔父や信頼の置ける家臣がそばに付いていても、心の安泰を得るには足りなかった。


(私、なにをやっているのかしら……)


 抱く野心がどうしようもなく醜いものに感じるのは、濡れた草木や土の香りが故郷を思い出してしまうから。

 思い悩むうちに徐々に歩みが遅くなり、やがて立ち止まりかけた時ハッと我に返った。


(駄目よ、ちゃんと前に進むの! 信じなくちゃ!)


 ここを素晴らしい国にすることが、いずれ家族の為にもなる。それができるのは彼しかいない。そして自分は許される限りおそばにいよう。

 決意を新たにエルナは足を速めたが、次第にまた鈍くなっていった。


(そういえば、あのパーティで会った男に彼女は刺されたのよね?)


 あの男が犯人だとジェイド ――幼なじみがなにもしなくて良かった!―― が証言している。それに対して皇帝は今のところなにも語らない。ただ瞳の奥に大人びた哀しみが少し増したようには感じられた。


(だからやっぱり一連の暗殺事件は、彼の命令ではなかったはずよ)


 そう信じようと思う反面、皇帝であるのならもっと積極的に事件の解明に動くべきだと以前は考えていた。ミューンビラー侯爵の親族であるギレッセン男爵の殺害に始まり、皇帝の父イワノフ公爵暗殺事件、アーリング元将軍の甥モデスト氏の謎の死、離宮に眠るラシアール族の女性殺害未遂、バタレーク子爵の屋敷で起こった惨殺事件、それ以外にも暗殺されたと噂されるギルド幹部が二名いる。オーライン伯爵の考察によれば、ほとんどの者が皇帝にとって面倒な存在だったという。


(けれどあの男に殺害を指示したと考えたのは、短絡的だったのかも……)


 皇帝はそんな人ではないと思う一方で、ミューンビラーやオーラインの話がどこかに引っかかり、本人の口から絶対に説明をしてもらおうと考えていた時期があった。もしそれが叶わないのなら、諦めて故郷へ戻ろうとも。そんな自分を情報書記官という立場に就任させ、なんのわだかまりも持っていないという態度が素直に嬉しかった。

 それが彼のやり方だというのなら、これからは信じて付いていこう。治政に善悪を振りかざす必要はない。必要なのは国が国として機能すること、全員が幸せという理想よりも、半数以上が幸せという現実的な道を探す方が先だと考えるべきだ。


(私も少しは政治家っぽくなったかな?)


 結局、望んでいるのはそれ。愛でも恋でもない。優美で奥ゆかしく楚々とした妻である姉に憧れたことは一度もなかった。むろんミューンビラー家の姉妹のように派手で煌びやかな女になろうとも思わなかった。


 ふたたび歩み始めると、すぐに小さな屋敷が見えてきた。建物の前には兵士が二人。片方はギルド憲兵の、もう一人は陸軍の制服を着て、どちらも長い剣を杖代わりにして気怠そうに立っていた。

 エルナが近づくのを見とがめた彼らは、訝しげな表情で顔を巡らす。


「皇帝付きギルド情報書記官、エルネスタ・リマンスキーです。陛下の勅令により本日から数日間、この離宮に来ることになりましたので通して下さい」


 穏やかに微笑んだにもかかわらず、兵士らの訝しげな表情は和らがない。


「このような時間にですか?」


 憲兵の方が代表して言った。

 そんな反論する兵士にエルナは苛つきを隠せなかった。


「陛下のご命令をあなた方に詳しく説明する必要がありますか?」

「いえ……それは……」

「それとも私が情報書記官ではないとお疑いでしょうか?」

「わ、分かりました」


 渋々といった様子で憲兵が二段上にある玄関までの道を空け、片足を引きずって軍兵が階段を上がり、両開き扉の片側を開けた。

 エルナが中に入る時、その軍兵がこっそり耳打ちをする。


「あいつ、三日前に配属されてきたんですが、ずいぶんと気負ってるらしくて。失礼を言って申し訳ありませんでした」

「新しい仕事を始めたばかりの頃は皆そうですわ」

「ありがとうございます」


 所属が違う新米を気づかった軍兵は、小さな敬礼をして扉をゆっくりと閉じた。

 エルナは振り返ったまま、すれ違っただけの兵士たちを思う。人の良さそうな軍兵は怪我でもしているのだろうか。衛兵が笑みすら浮かべないのは、本当に気負いだけなのだろうか?


(なにかを疑いだしたらきりがないわね)


 正面に向き直り、内部を見回す。離宮と言ってもけして宮殿のような造りではない。昔、水くみ女を愛人にした国王が、彼女を囲うために作らせた小さな屋敷だ。エントランスに入ってすぐ前には細くて急な階段がある。その両側の扉はどちらも一枚だけで、扉の質感から左側が従者用だと思われた。

 エントランスの天井にから吊り下げられているシャンデリアは、楼台が五つしかない小ぶりなものだ。すべてにロウソクは立っているが二つだけが灯されて、黄ばんだ漆喰の壁と、木製の古い床にゆらゆらと光の影を落としていた。

 粗末とまでは言わないまでも、愛人にお金を注ぎ込むのを極力避けた内装だ。そのせいなのか、過去の亡霊が出てきそうな雰囲気があった。それに気圧されまいとエルナが唾を飲み込んだその時、背後で扉が開く音がした。

 驚いて数歩下がる。悲鳴を上げなかったのはたまたまだった。


「やあ、これは奇遇ですね!」


 そう言って微笑んだ男の爽やかさが、エルナの緊張をやや緩めてくれた。


「ク、クライス情報書記官!?」

「そんな堅苦しい呼び方ではなく、ぜひロズウェルと……」

「いえ、結構です」

「ならクライスさんと。ボクはエルネスタさんでいいですか?」


 食えない男だ。半ば呆れ半ば安堵して、「いいですわよ、宮殿の外でなら」とエルナは冷静に答えた。


「それにしても、なぜここに?」

「陛下のご命令で武器庫の備品を点検に来たのですが、あいにくボクは武器の構造に精通していないので、父に任せて少し散歩をと思いまして」

「陸軍本部からここまで、散歩にしてはずいぶん距離がありますわ」

「なかなか鋭いご指摘ですね。ええと、少々気になることがありまして、言葉にするのは少し難しいのですが……、今宵、陛下だけではなくブルー将軍も街を飛び立ったのはご存知ですか?」

「いいえ、知りません」

「ちょうど半時ぐらい前に将軍の使い魔が上空を飛び去るのを見かけました」

「だから離宮へ?」

「まあ、そんなところです」


 どうも納得がいかない説明に首を傾げる隙もなく、クライスは狭い階段を勝手に登り始めた。


「ちょ、ちょっと!?」

「ここは患者以外、看護人二人と使用人が一人しかいないんですよ」

「だからと言って……」

「大丈夫です。全員ギルドが手配した者たちなので、ジョルバンニ議長が様子を知りたがっているので見に来たと、ボクが言えばいいだけですよ」


 そんな言い訳が通用するのかと思いつつ、どんどん上がっていくクライスを追いかけてエルナも階段を登った。

 一度折り返してから到達した二階は、廊下の両側に扉がある古いスタイルの構造だ。扉の数は合わせて五枚。三つ並んでいる右側は物置もしくは従者部屋、左側の二つは主人の部屋に違いない。問題は二枚のうちどちらに患者がいるのかということだが――、クライスはためらうことなど一切なく、左手前の扉まで行ってノブをつかんだ。


「クライスさん、ちょっと待っ――」

「真っ暗ですね。ここではないみたいですよ」


 首だけを中に突っ込んだ男の、暢気な声が聞こえてきた。

 こういうやり方はどうにも慣れない。大胆に思っていた自分は、案外臆病者らしいとエルナは内心苦笑した。

 けれどクライスのペースにばかり付き合わされるのも癪だったので、彼が扉を締めている間に廊下を進んで、もう一枚の扉の前へと歩み寄った。

 扉の下から薄い光が漏れている。だからこちらが正解だと分かったけれど、もちろん令嬢らしく品格あるノックをした。

 すぐに中で気配がして、開かれた扉から顔を出したのは白い服をまとった中年の看護婦。ぽっちゃりとした唇が特徴的な彼女は、腫れぼったい目を見開いて驚きを表した。


「あの……どちら様……」

「こんばんは。私は貴族院情報書記官エルネスタ・リマンスキー、彼はギルド情報書記官のロズウェル・クライス氏です」

「はあ……」

「患者の様子を見に参りましたの」

「こんな夜中にですか……?」

「それは――」


 その言い訳を考えてなかったエルナが口ごもると、代わりに背後からヒョイとクライスが顔を出した。


「今夜、戒厳令が敷かれたのはご存知ですか?」


 目を丸くしたまま女は小刻みに首を横に振る。


「やはり。もしかしたら外敵が来る危険があるとのことで、ブルー将軍も防衛に当たっています。我々は将軍の代わりに患者の様子を見に行くように皇帝陛下とジョルバンニ議長から命令されて来たのですよ」


 よくもまあ、そんな言い訳を思いつくものだとエルナは感心した。もちろん悪い意味で。しかしクライスの言葉が功を奏して、丸まった女の目が少しだけ小さくなった。

 エルナはそんな彼女のふくよかな体の後ろを覗き込んだ。窓際にベッドが見える。その横に椅子があり、黒髪の女性が腰掛けていた。茶一色の瞳からエルフだとすぐに分かる。両手はぶらりと垂れ下がり、まるで人形のようだった。


「ずいぶん回復をされているようですね」


 話を逸らそうと、エルナは視線をそのままに女に尋ねた。


「そうですね、最初の頃に比べればずいぶんと」

「意識はお有りなんですか?」

「たぶん……」

「たぶん?」

「話はできませんし手足も動かせません。けれど寝ていない時は、水と食べ物は嚥下できますから。人間なら瞳の動きでもっと分かるのでしょうけど……」


 白目がないエルフは表情が読みにくいと良く言われる。純血の人間よりも瞳が大きい皇帝もその傾向があるので、女の言わんとしていることはエルナも理解した。


「精神的なものか、怪我の後遺症のどちらかだとお医者様はおっしゃっています。怪我はかなり深くて、出血も酷かったようですから。何度かラシアールが白魔法をかけたみたいですけれど、効果がなかったようです」


 一度言葉を切った彼女はやや声を落とすと、


「たぶんこれ以上の回復は望めないというのがお医者様のご意見です……」

「そうですか」


 可哀相にと言う気持ちで、エルナはもう一度ベッドの方を見た。

 確かアーニャという名前だった。痩けた頬や、小枝のような腕が見るに忍びない。ブルー将軍はいったいどんな気持ちで毎晩彼女を見舞っていたのか。それを考えれば、皇帝の前で見せた怒りも納得してしまう。大切な人であればあるほど、その哀しみはきっと深いものだったはずだ。

 だとすれば、皇帝と将軍が和睦するなどあるのだろうか?

 このままラシアールが暴走を続けたその先にある未来は……?


 その時、背後にいるクライスがエルナの肩を叩き、“ちょっと”という言葉を使って扉から少し離れた場所まで来るように促した。


「ちょっと考えたんですけどね、ボクがここに来た理由」

「え?」

「どこか引っかかっていたんだと思うんですよ。なぜ今日を選んだのか、どこから情報が流れたのか」

「選んだってなにを? 情報って?」

「ああ、そうか、言ってないんだっけ。今ここで説明するのは少々複雑ですけど、要するにだれかなにかを企んでいるということは確かだと思います」

「企むってなにを!?」


 曖昧な言葉の連続に、エルナは少々苛立って声を荒げてしまった。


「シーッ、声を落として。ええと、誰かは分からないですが、このソフィニアを壊滅させようという企みがあることは確かですよ」

「まさか!?」

「けれど人間とラシアールが争えば、遅かれ早かれそうなります」

「そんなことをして、いったい何になると言うの?」

「私怨でしょう。むろんそれがだれかなんて、さすがのボクにも分かりませんよ。けれど、あらゆることを想像すれば、皇帝すらそのだれかに含まれる」

「陛下がそんなことを考えるはずがないわ!」

「あの方はずっと人間に虐げられてお育ちになったのでしょう? なのにエルフからは反目され、すべてに恨みを抱いていてもおかしくはないです」


 あまりにも背筋が凍りつく想像だ。またあの悲劇が来るのだとしたら、本当にこの国は終わってしまうかもしれない。


「エルフの可能性は……?」

「ククリは一枚噛んでいると思いますがラシアールはどうでしょうね。もしソフィニアを壊したいのならこんな回りくどいことはしないと思います。ボクとしては、だれがなにかを企んでいて、その企みを利用して他のだれが別の企みをという感じで、複雑に絡み合っている感じがします。その企んでいる者の中にジョルバンニ議長やミューンビラー侯爵が含まれている可能性は大いにあります。けれど最終的に、帝都破壊を望んでいる私怨に飲み込まれているんじゃないかと。このボクが考えたことですからほぼ間違いでしょう」


 得意げに言い切ったクライスに呆れるべきか、感心するべきなのか。

 それにまだ、彼の考えには説明が足りなかった。


「でもどうしてそれが、貴方が離宮に来た理由になるの?」

「あの部隊をラシアールに襲わせて人間の怒りを煽ろうとしているのなら、ラシアールにも同じことをするかもしれない。一番手っ取り早い方法は、ブルー将軍が大切な人を抹殺すること」

「そんな……」


 否定できるものがなにもない。そればかりかここに来る間、ずっと感じていた言い知れぬ不安は、自分もなにかを感じていたからなのだろうか。


(だから彼は私にここへ来るように頼んだの? 彼女を守れという意味で? それとも本当は私にも恨みを抱いていて、彼女とともに……)


 疑いがムクムクと膨れあがる。

 それを抑えようと、エルナは“違う!”と心で叫んでいた。

 信じて付いていこうと決めたはず。それが自分の道なのだと。


「もしそれが本当なら、今夜が一番危険ってことですわね?」

「ですね」

「でしたら、私たちも罠を作りましょう」

「逃げるのではなく?」

「想像だけで動いて間違っていたら面倒なことになるわ。それに患者と一緒に逃げるなんてできそうもないもの」


 咄嗟に考えたエルナの作戦を聞いて、得意げに自説を語っていたクライスの表情がたちまち曇った。


「そんなことをすれば、エルネスタさんが危険なのでは……?」

「言っておきますが、私は貴方の話をすべて信じたわけではないですから」

「このボクが間違えることなどほぼないですが、そうおっしゃるのなら」


 そうして直ちに作戦は結構された。と言っても大したことをしたわけではない。看護の女性を説き伏せて、患者を彼女の部屋へ移し、それぞれの部屋にエルナとロズゥエルが待機するだけだ。もちろんロズウェルは最後まで嫌がったが、奥の部屋でいいとエルナが言ったことで仕方なしに納得した。


 薄暗い部屋に独りポツンと座り、来るかどうかも分からない敵を待つ不安は、想像以上だった。夜がこんなに辛いと思ったのは、城が魔物に襲われたあの時以来だ。それを忘れるために、エルナは遙か遠い過去に思いを馳せた。

 父のこと、母のこと、姉達のこと、弟のこと、そして幼なじみのこと。


(そういえば彼の家で、初めて陛下に会ったんだわ……)


 恥ずかしげに微笑み、照れたようにうつむき、哀しげに視線を反らす姿が懐かしい。初恋の相手に抱いた感情はないけれど ――しかも彼には想う者がいるのだから―― 自分に向けられる視線が嬉しいと思うようになったのは確かだった。


(だから絶対に信じる)


 本当にだれかがここに来るなら、その相手を自分の目で確かめよう。絶対にソフィニアを壊させやしない。この国は彼の物なのだ。


 やがて何十年も時が過ぎたのではと思う頃、扉が開かれる音がした。

 最初はクライスかと思ったエルナだったが、扉の前でなにも言わない相手に心臓が壊れそうなほど動き始める。


「だれ……?」


 ともすれば叫び出しそうな気持ちを抑え、エルナは入ってきた者にそう尋ねた。しかし声の震えだけは抑えきれず、ぎこちなく胸の下で組んだ指先も震えている。

 ほんの一瞬、真横にある空のベッドに視線を走らせたが、すぐに正面の扉へとそれを戻す。人物の顔はほとんど見えない。最小限に火を落としているサイドテーブルのランプは、暗闇は防いでくれているものの表情を見せるだけの力はなかった。


「だれなの?」


 もう一度同じ質問を繰り返す。

 背格好から男性だとしか分からなかった。カーテンは半分ほど開けていても、雲に隠れた月は味方にはなってはくれない。

 けれどあと一歩。あと一歩近づいてくれれば、きっとランプの光が届くはず。そうしたら力の限り悲鳴を上げよう。相手が怯むほどの大きな声で。

 男の荒い息が聞こえてくる。酷く緊張したような、高ぶったようなそんな呼吸だ。


「貴方はなぜここに来たの? いったいだれ……あ、まさかクライ……」


 刹那、すべてがほぼ同時に起こった。

 僅かに届かなかった光が一瞬にして届く。雲に隠れていた月がランプの光に力を貸したのだ。映し出されたのは、見覚えのある顔、見覚えのある瞳。


「あっ、貴方は!?」


 男は胸元に手を入れる。

 取り出されるのはきっと凶器。

 銀色に光るそれが襲いかかってきたあとは、

 手が――

 足が――

 体が――

 動かなくなる!


「ヒッ」


 小枝のような腕をしたエルフの姿が脳裏に浮かんだ時、耐えがたい恐怖が引きつった悲鳴となって、口から漏れた。


「イヤ……」


 しかしそれが本当の叫びに変わる直前、窓の外から怒号が聞こえてきた。


「てめぇ、なにしてやがる!!」


 だれに向けて発せされたのかは分からない。

 分かるのは、その声が助けてくれたのだということ。

 胸元に手を入れていた男は、声が聞こえたと同時に数歩後退して、身を翻すように扉から出て行ってしまった。

 パタンと閉じられる音が合図になり、知らぬ間に立ち上がっていたエルナは崩れるように椅子へと腰を下ろした。


「ふざけんな!!」


 窓の外でまた怒鳴り声がする。

 分かっていたはずなのに、決意したはずなのに自分の弱さに呆れつつ、エルナは頬を伝っていた恐怖の涙を指先で拭った。

 震えるのはまだ早い。



☆ ★ ☆


挿絵(By みてみん)

 作画:C.Century様

 アシュト・エジルバーグ(メチャレフ伯爵家嫡男)


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