第192話 この世の神は悪なりき
(死にたい……)
そんなふうに思ったことは数あれど、恥ずかしさでは一度もなかった。だから思い出すたびに火が吹くほど顔が熱くなり、ユーリィはフェンリルの体毛に顔を押し付けた。
凍えるほどに顔も頭も体も冷やすにはどうすればいいのか。髪を掻き乱す風だけが、今は冷静にさせてくれた。
(やっぱりあの薬のせい……?)
逞しい男になりたいとは願っている。けれど力が欲しい時にあそこも変化してしまうのは色々辛い。
(クライスの奴、言ってくれればいいのに!)
むろんあの場では言えることではなかったと知っている。エルナもいたのだから。それでも恨みをあの優男にぶつけずにはいられなかった。
(ブルーも“初めてのご経験”なんて言うことないのに……確かにそうだけど)
継承問題がやや現実化したようで気が重くなった。子供ができない体なら、自分一代の玉座だと開き直れる。以前それが不可能かもしれないと確かめたのも、今後のことを考える為だ。世継ぎができず不毛な争いが起きる前に、政権を渡すに相応しい人物を探すのは、早ければ早いほどいい。
けれど、もし子供ができる体なら……?
(いや、違うから。可能だからなんだよ!)
神だの天子だのと戯言を言っていた父親を思い出せば、子供に自分のような辛い運命を背負わせるなど考えられない。血の繋がりがすべてではないはずだ。今まで自分が手に入れた物、これから作ろうとする物を渡すに相応しい者が現れたら、その者に託せばいいだけ。
(僕にはヴォルフがいる)
愛するモノと、信じられるモノと、信じてくれるモノを守る為だけに自分はここまで生かされてきたのだ。性別も種族も種類も関係がない。星の意思などクソ食らえだ。守りたいと思うものを守ってなにが悪いのか。自分すら守ろうと思わなかったあの頃に戻れないほど、自分は成長してしまったから。
(だから僕は行くんだ)
目の前には夜を染みこませた大地が広がっている。半時前と同じように、フェンリルはその大地を駆けていた。すぐ後方にはブルーの乗る魔物が付いてきている。しかし目的地はソフィニアではない。事態は想像以上に深刻で、ユーリィにとってあまり良いものではなかった。
ラシアールが輸送部隊を狙っているのは想像通り。ただしラシアール単独ではなくククリも参戦するとのこと。となれば脅しという生易しいものではなく、殲滅される可能性は大いにある。むろん命令違反の奴らがどうなろうと自分の知ったことではないと無視はできる。
けれど「実は」という言葉で始めたブルーの告白が、ユーリィを突き動かす。
数分前、彼はこんなふうに切り出した。
「実は、長老の孫が人質に取られてまして……」
叱られた犬に似たその表情に、以前のブルーが戻ってきたようでユーリィは内心嬉しかった。
「孫? まさかククリの連中は子供を?」
「いえ、違います。長老は齢九十八ですから」
「あ、そうか」
エルフの年齢は、若い見た目に比例していない。ブルーですら三十ニ歳だ。しかし寿命の長いエルフなので、人間に換算するなら四分の一ほど引けばいい。ブルーなら二十四、九十八なら約七十四、長老の孫は二十八なので二十一というわけだ。
「つまり血気盛んな年頃だな」
ユーリィの隣に立つヴォルフのが渋い顔でそう言った。
「そういうことです」
「え? つまりどういうこと?」
体の変化と精神的ダメージと頭痛のせいで、ユーリィは二人のやり取りがいまいち分からなかった。
「体ではなくて思考の拘束、俺の友人……副官と同じです」
言いかけたブルーは一瞬ユーリィから目を離す。例の件を今は蒸し返したくないという気持ちの表れなのだと思い、ユーリィもまた僅かに視線を反らしてそれに応えた。
「思考の拘束って……?」
「エルフの世界を作るというククリの言葉に支配されています。けれど奴らのように人間を滅ぼすという強いものではなく、我々の国という意味で」
「あっ! ラシアールが欲しかったのって、爵位ではなく国土か!」
「ええ……」
爵位にはそれぞれ領地が付随している。その領地の管理者としての称号だ。領地は皇帝ないしギルドからの貸し出しで、厳密に言えば管理者の所有物ではない。なので爵位と領地を切り離して考えなかった。
エルナ達も大量の爵位を渡すことを気にしていたが、ラシアールが土地だけ欲しかったとは想像もしていないだろう。ユーリィ自身も今の今まで気づかなかった。王宮時代から五百年以上続く体制が、思考の基盤になり過ぎている。新たな国を作ろうとしている皇帝としては、反省せざるを得なかった。
「紛れ込んだククリ――と言うか俺が招き入れたんですが、その口車に乗ってしまった者が、俺の副官も含めて数人いました」
「そのククリはまだ見つかってないんだよね?」
「はい。ですがもう十分反逆の芽が出たので、すでに帝都には居ないかもしれませんね。長老は孫セバが唱えるあの伝説を心配し始めて……」
またもやブルーの視線がフッと逸れる。しかしそれは気づかいではなくたぶん狼狽。だからブルーが自ら語り出すまで、ユーリィは静かに待った。
「――……貴方が天子であることが、長老には心配なんです」
「僕はそんな者じゃ……」
「間違いなく天子ですよ、俺たちの伝説に出てくるあの男にそっくりの」
「あの男って?」
「マヌハンヌスです」
この大陸に住む人間の誰もが知っているその神を、ブルーは冷淡な声で“あの男”と言った。それから僅かな沈黙でユーリィの反応を確かめて、その先はまるで呟くようにポツポツと語り続ける。
「これは人間には言ってはならないという掟ですが、お二人は厳密には人間ではないですから……」
「うん」
そう返事しつつ横に立つヴォルフは見上げると、彼は腕を組み、いつもにも増して不機嫌そうな表情でブルーを睨んでいた。
「我々の伝説にもマヌハンヌスという男が登場します。けど彼は神ではなく悪魔でした。人間の伝説では、空から降ってきた瘴気によって魔物が生まれ、エルフが誕生したとされていますが、我々の伝説ではこの星が誕生した瞬間から瘴気があり、魔物もまた存在していたのです。この星が秩序を保っているのは、今も昔も精霊や精獣です。ところが伝説ではマヌハンヌスという人間が現れて、精霊たちを操るようになりました。彼はひたすら人間のためにその力を使い、人間の災いとなる魔物を異界へと追いやりました。エルフの大半も消し去られ、人と友好的関係が結べる知能ある種族だけが残りました。ラシアールは瘴気と魔物を操れるエルフとして、簡単に言えばマヌハンヌスに利用されたのです」
「利用って……」
「もちろん伝説には“利用”などという言葉はありませんよ。我々は“協力”し、人間と仲良く暮らすようになったというのが、伝説の終いですから。ですがセバはそれを“利用された”と解釈したのです」
「だから僕も利用していると考えたのか?」
「それだけではありません。マヌハンヌス自身の存在も問題視していました。精霊を操るとは、星の掟に背くこと。貴方もまた精霊を操れる方です。だからそのうち星が貴方を排除しようとするのではと懸念していました」
星の掟とはいったいなんなんか?
リュットも似たようなことを言っていたらしいことはヴォルフから聞いた覚えがある。しかしユーリィ自身はあまり真剣には考えなかった。
「あ、でもさ、竜騎士っていうのがいたってリュットに聞いたけど、竜だって精霊の一種なんだろ?」
「竜騎士のひとりだったのがマヌハンヌスです」
「でもその頃まだエルフはいなかったって」
「いましたよ。ただし大半は魔物と変わらなかったようで、人食いの種族もいたようですが」
「でもリュットが……」
ラシアールの伝説が絵空事にしたくて、ユーリィは必死に食い下がった。
自分は天子なんて存在のはずがない。神だの悪魔だのも嘘っぱちだ。まして星に意思があるなんて、どんな蛇説より酷いではないか。
「万を超える年月を過ごしたリュット様でも、すべてをご存知とは限りませんよ」
「でも……」
「その伝説が嘘か誠かは置いておいて、お前はユーリィが天子だということは信じているようだな、ブルー」
それまで黙っていたヴォルフが口を開く。声は人間のそれであるにも関わらず、ユーリィにはフェンリルが発したように感じられた。
「精霊や精獣を操ることは、俺達ラシアールにもできませんから。それができるのは星か悪魔だと幼い頃から教えられてきました」
「僕は神でも悪魔でもないし、操ってもいない!!」
友と呼ぶにはおこがましいかもしれないけれど、レネもガーゴイルもリュットも裏切られることのない大事な味方だ。ただそれだけだ。
「俺は貴方がこの世界を、ご自分の都合で作り替えると思ったんです。あのマヌハンヌスがしたように、いらないモノは排除して星の意思に逆らって。けどご危篤だと聞いた時、貴方がこの世界を見捨てられようとしているんだと思って、そう思った自分に驚いたんです」
「へぇ。だがお前は輸送部隊襲撃に加わろうしてただろ」
「迷ってましたよ!」
らしからぬ激しい表情でブルーは揶揄したヴォルフを睨み付ける。しかし魔物のようなヴォルフの視線は、冷ややかにブルーを見つめ返すだけだった。
「だけどセバとともに行かないとラシアールから追放すると長老に言われて……。だから奇跡が起きて皇帝がもし俺を止めに来たら、その時は素直にやられようかと思ってました」
「そんな気がしてた。だってお前、凄く辛そうだったもん」
「もう迷いませんよ。なにがあったにしろ今はアーニャも手厚く看護して頂いているし、姉貴も貴方を弟のように思っているみたいですからね」
「ジュゼは……」
言いかけたユーリィを止めるためか、ヴォルフが肩に手を置いて少し前に出た。
「ラシアールを追放されてもいいのか?」
「ラシアールであろうとなかろうと、俺はユリアーナ皇帝に従う魔将軍ですから」
「じゃ、行こう」
「あいつらを止めるのは俺一人で十分ですよ、陛下」
「ラシアールたちだけでなく、ククリもだぞ? 今回の件はこれだけじゃ済まないような予感がする。ブルーが知っているのかと思ったけど……」
知らないと長身のエルフが首を横に振るのを見て、
「この先にいるだれかが、きっとなにかを知っているはずだ。出発するぞ!」
「御意」
ブルーが使い魔の背に飛び乗る同時に、ヴォルフがフェンリルへと変化した。その青鼠色の体に手をかけた時ユーリィはふいに決意して、ブルーへと顔を向けた。
言うなら今しかない。
「ブルー、全部を言うことはできないけど、お前が知りたかったことを教えるよ。あの日僕は止められなかったんだ」
「だれをですか?」
「僕を愛し、僕も好きだと思っていた奴だよ」
魔物の体がピクンと震えるのを感じた。
だからその体毛を指に絡ませ、心で謝る。
(ゴメン……)
フェンリルはなにも言わず、ただ真っ直ぐ前を向いていた。
それでもたまに思い出してしまうのは、この手のひらにはまだあの男の肉を刺した感触が残っているからだ。皮肉めいた笑みを浮かべ、哀しげな目で見つめるあの男の望み通りに、恐らく一生消えることはない。だから彼はこの暗い大地のどこかで、安らかに朽ち果てているだろうとユーリィは感じていた。
「――陛下!」
その声がいつの間にか過去へと沈んでいた心を、現実へと呼び戻した。
意識していなかった視界にある景色を、ユーリィは思考へと流し込む。
すぐ前にあるのは、暗黒色の影で象られた森。その中から一筋の光が上空へと上がっていくのが見えた。
「なに、あれ!?」
「光玉のようですね。水晶の中に光を入れたものです」
「ジュゼが月光を入れて使っていたあれか」
「似ていますが少し違います。あれは月光つまり瘴気の光ではなく太陽光。ククリが作ったものですよ」
確実になにかが始まろうとしている。
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作画:蒼糸様
キャラ:エルネスタ・アウネ・リマンスキー