第19話 異種混合
寒気と頭痛が、強烈な眠気を押し退けて、ユーリィを覚醒させた。
背中を絶えずだれかが摩ってくれている。感じる匂いに、それがヴォルフであるとすぐに分かった。
ベッドの中で、彼は優しく抱きしめてくれている。この寒気を追い出そうと必死になってくれている。それだけで嬉しかった。
「気がついた?」
わずかな気配を察したのか、ヴォルフが囁いた。
「また気を失ったみたいだね、僕」
「苦しくないか?」
「うん、平気。今夜は時間が短かったからかな」
「そうか」
髪にキスをされた。彼はその行為が好きで、隙あらばすぐに唇を寄せてくる。
昔はちょっとウザかったが、今は彼の言うところの“愛情表現”だと思って受け入れている。大切にされるのは悪い気はしない。自分にその価値があるのか、未だに分からないけれど。
「あのさ……」
「ん?」
「僕、子供は無理だろ?」
顔に触れているヴォルフの胸が、大きく息を吸い込んだ。
ややあって彼が返事をする。
「ああ……」
「やっぱりね」
いつも途中で意識がなくなるから、自分がどうなったのか確認したことは一度もない。だけど、想像通りの返事に驚きはなかった。
「まさかそれを確かめるために、今夜ここに来たのか?」
「あ、いや、ええっと、昨日の朝やめちゃったろ? だからあの続きを……」
「本当に?」
「あー、うん、もちろん確かめようとは思ってた。でも、ついでみたいな感じ? それも含めて今夜は頑張ろうって思ったんだ、ダメだったけどさ。っていうか、頑張ってもあんまり意味ないか」
自虐したつもりはないのに、ヴォルフは体を放すと、顔を覗き込んできた。
薄闇の中でもその眼に憂いが感じられる。違う色の瞳は、どちらもくすんだ茶色に見えた。
「君はエルフの血が濃く出てるんだから、仕方がないんだぞ?」
「分かってるよ」
「成熟してないって、君も言ってただろ?」
「そうだけど……」
自分には一生無理なかもしれない。
そう思っただけだ。特に昨日は、母の真実を実感してしまったから。
人とエルフが交わって生まれた子供は“奇跡の血”と呼ばれることがある。それは犬と猫ほどかけ離れた異種の間には、なかなか子供ができないことを意味していた。運良くできても死産か流産。“虚弱なキメラ”ということも多々あるという。
母はその“奇跡の血”。しかも人に犯されたエルフがその命と引き替えに産んだ子供だ。不思議なことに、祖母は成熟期前に母を身ごもった。そんなことがあるのかと、少し前にラシアールのブルーに尋ねたら、ないことはないが非常に珍しいと教えてくれた。
ずっと母には子供に対する愛情がないのだと思い、密かに傷ついていた。産まれてきて良かったのか、それすら疑ったこともある。
だけど、憎しみや悲しみが消えて少しずつ見えてきたものは、彼女の理解力の薄さだ。
実の母をそんなふうに思いたくないし、正しくないかもしれないけど、彼女が“虚弱なキメラ”なのではという考えが捨てきれない。だから、その母から産まれてきた自分はやっぱりどこか足りないのではと思えてしまうのだ。
別にそれが嫌だというわけではないけれど……。
少し自分の考えに囚われていたユーリィを、心配げな表情でヴォルフが覗き込んでいた。
「君は子供が欲しいのか?」
「違うよ。ただ、はっきりさせたかっただけ」
「どうして?」
「政略結婚とか、それ以外にも色々あるからさ」
「そうか……」
夕食時のオーライン夫人や、ジョルバンニのように妙な気を回して、強引に相手を押しつけられたら堪らない。その為にも、自分の中できっちり結論を出しておきたかった。
「僕に子供が無理だって分かれば、ジョルバンニも諦めるかもしれないだろ」
「やつは、君が成長するまで待つって言うかもしれないぜ?」
「何年先か、もしかしたら来ないかもしれないことに、あの男が待っているとは思えない。それに僕も次の手を考えるさ」
ずるいとは思ったが、今回アルベルトを巻き込んだのは、彼にすべてを任せられたらいいなと思ったから。公爵家に迎え入れられることをずっと願っていた母と、本来なら跡取りとなるはずの弟フィリップ。ふたりの為にもこれが一番いい方法で、しかも自分は重荷を下ろすことができる。一石二鳥どころか三鳥だ。
「次の手?」
「うん。でもヴォルフは気にすることないよ。いざとなったら何もかも捨てて、おまえと逃げるから」
「そうだな」
きっと信じてくれてない。
声色が沈んだから、すぐに分かった。
ヴォルフの胸に顔を押しつける。信じてくれるといいのにとそれだけを願い、ユーリィは睡魔に身をゆだねることにした。
ふたたび目が覚めたのは、すっかり日が昇っていた頃だ。夢は全く見なかった。頭痛はまだ残っていたが寒気はない。あんなことをした後なのに、体調はそれほど悪くなかった。
そのことをヴォルフに言いたかったのに、残念ながらそこは彼の部屋でなくて、以前に使っていた広くて豪華な部屋だ。もちろん本人もその場にいない。
きっと彼に運ばれたのだろう。アルベルトにバレるのがよほど怖いらしい。
(ちぇっ……)
最近ずっと一緒に寝ていたからなんだか物足りなくて、ヴォルフがいつも寝ている右を向いて、シーツを撫でる。知らない間に、独りぼっちには耐えられない者になっていた。昨夜だってホントはあんなんじゃなくて、ちゃんと抱いて欲しかったのに。
(僕の状態があんまりヒドいんで、ヴォルフのやつ、途中で冷めちゃったんだよなぁ)
でもキスをされれば気持ちいいし、触られれば感じるし、興奮だってする。知ってしまった快感はもう忘れられないから、昨日みたいにやりたいって思うこともあった。
それなのに、どうしても具合が悪くなってしまう。ヴォルフに気を遣わせてしまう。翌日に身動きが取れなくなるのも厄介だ。
(子供はどうでもいいんだけどなぁ、こんなのが一生続くのはさすがに嫌かも)
同じ年頃の男とは、体力や体格の面もそうだが、性的なものも違う自覚はあった。
エルフだからと言われればそうかもしれない。
けれど、同い年のエルフより背は高いし、声変わりもしている。成熟期にならなければ性的興奮はしないと前にエルフの少年に聞いたが、自分はちゃんとする。確かに女の子には興味がないけど、それはヴォルフがいるから……。
(……だよね?)
自問したところで答えが出るはずもなく。
そもそもヴォルフとはあまりにも違いすぎる。彼と比べれば、自分の体は幼児と一緒だ。本当にエルフという理由だけなんだろうかという思いがやっぱりあった。
(これ以上は自分で検証は無理だよなぁ。だれかにはっきり聞いた方がいいかも。やっぱり聞くならエルフかな。ブルーが一番いいんだろうけど)
問題はなんて聞くべきか、だ。
たとえば彼の前で素っ裸になって、“これって普通?”とか尋ねるみたいな……。
想像した途端、違う意味で頭が痛くなってきた。
(うわっ、ないからそれ。やったら、すさまじく変態になるし。そもそも朝からこんなこと考えてるのも不毛すぎ)
もうやめにして、起きるべきだ。それとも起こされるまでは寝てていいだろうか?
すると、その迷いに答えるかのように、扉のノック音が聞こえてきた。
(ヴォルフかな?)
期待しつつ返事をする。しかし現れたのは鳥……じゃなくてシュウェルトで、なんだかがっかりした。
「ユーリィ様、まだ寝ていらしたのですか?」
バタバタと羽を動かし歩く鳥のように、チョビ髭は室内に入ってくる。
「あ、うん」
返事をして体を起こしたら、脳天に激痛が走り、思わず頭を抱えてしまった。
「う……」
「どうなされました?」
「ちょっと頭痛が……」
「そういえば顔色もお悪いようですね。お風邪でも召したのでしょうか」
今朝は苦しくないし、寒気もないので大丈夫だと思っていただけに、この不意打ちはダメージが大きい。
「今日は寝ててもいいと思う?」
「それは私には判断つきかねます。ディンケル副長にお伝えしましょうか?」
「うん、そうしてくれると嬉しい」
「お食事は?」
「もちろん、いらない」
こんな頭痛でなにかを口に入れたら吐きそうだ。
そう思って答えたのに、チョビ髭は納得してくれなかった。
「ダメです。お風邪の時こそちゃんと食べないと。そうですね、豆を煮て……」
「豆はもうヤダ」
さすがに毎日の豆には、ヘルマンでなくても辟易している。
「でしたら、ちょうど麦が手に入ったので、山羊のミルクで煮て……」
「それ、大っ嫌いなやつ。絶対食べないから」
シュウェルトは小さなため息を吐き出して、わがままに対抗した。
「だから、いらないって言ってるのに」
「ダメです。ではキノコも少しあるので、麦とキノコと卵のスープはいかがですか?」
「……それなら食べられるかな」
「ああ、ようございました。早速作らせましょう」
「そこまでしなくても、一日ぐらい食べなくても……」
「ユーリィ様の場合、一日どころか三日もちゃんとお食べにならないで、倒れられる寸前ということがありますからね。そういえば少しお痩せになりました? ソフィニアではどなたがお世話をしているのでしょう? まさか三日も同じ服を着ているなんてことはないでしょうね?」
従者というより、まさに保護者だ。
(というか、母親?)
そう考えると少々気持ち悪いというか、こそばゆいというか……。
「心配しなくても大丈夫だって」
「ああ、私もソフィニアに参りたいぐらいです」
「あっ、それ、いい考え。もし僕がソフィニアに戻るとしたら、それでもいいよ?」
「本当でございますか!? ではすぐに準備に取りかかりますので、これで失礼!」
喜び勇んで出て行くシュウェルトを見送って、ユーリィはふたたび横になった。
チョビ髭のおかげでこの広い部屋はとても清潔な匂いがする。だから宮殿に連れて行くのも悪くはない。
だけど本当にソフィニアに戻らなくてはならないんだろうか?
このままアーリングがいい感じに統治してくれないだろうか?
英雄がいい感じに統治して、自分は上手いことすべてをアルベルトに押しつけ、狼魔になったヴォルフに乗って、フェンロンに行く。
(だったらいいなぁ)
そんな想像をしつつ毛布をかぶり、目を閉じると、頭痛が少し治まってきた。
うつらうつらと意識が沈んでいく。
夢と現実の狭間で、過去がぐちゃぐちゃと混ざったような幻を見た。
そこにはヴォルフがいて、懐かしい友がいて、兄がいて、青い狼魔がいて、そしてハニーブラウンの髪をした少女がいた。
彼女が遠くでなにかを言っている。
とても明るい笑顔で必死に訴えている。
だけどあまりに遠すぎて、なにも聞こえなかった。
いったい彼女は……。
誰かに起こされたような気がして、ユーリィは目を覚ました。
覗き込んでいる顔がある。しかしそれはヴォルフではなく、ディンケルの厳つい顔で、あまりの驚きに頭痛がふたたびやってきた。
「ビックリさせるなよ」
「申し訳ありません。ノックはしたのですが、お返事がなかったものですから。お加減が悪いとシュウェルトから聞きましたが?」
「頭が痛いんだ」
「顔色がよろしくないですね」
そう言って彼はきょろきょろと辺りを見回した。“なに?”と言うようにユーリィが眉をひそめると、
「グラハンス殿はいらっしゃらないのですな?」
ディンケルがなにを考えているのか、すぐにピンときた。
この具合の悪さは、ヴォルフが関係しているのだと思ったに違いない。確かにそれは正しいが、隠し通すべきだと心が警鐘を鳴らした。
「いないよ」
「どちらに?」
「さあ、今朝は会ってないから、知らない」
「昨晩は?」
「自分の部屋で寝たんじゃないのかな。用があるなら探してみれば?」
「いえ、そこまでのことではないので」
そう言いながらも、彼の視線はベッドの上を滑っていく。きっと情事の証拠が残っていないか、確認しているのだろう。
ヴォルフの部屋に行ってて良かったと思った。ふたりのことをいちいち詮索されるのは鬱陶しいから、隠すに越したことはない。
「で、起きた方がいい?」
「いえ、今日はお休みになっていて大丈夫でしょう」
「そう? そしたらアーリングが全部上手いことやってくれるのかな? というか、もう僕は彼に任せても大丈夫? しばらくここでのんびりして、イワノフ領が落ち着いたらまた少し旅してみたいし。あ、その前にソフィニアにいるガーゴイルは連れてこないと。あいつ、ずっと水を出してるから可哀想だ。ラシアールのだれかに頼もうかなぁ」
「いいえ、それはなりませんな」
「なんでだよ」
文句を言いつつ起き上がったら、強烈な痛みが頭に襲いかかった。
「うぅ……」
「無理をしてはなりません。あとで煎じ薬をお持ちしましょう」
「あれ、苦いから嫌い」
「苦くないように、ミルクを入れますよ。それともお砂糖にします?」
「うーん、ミルクがいい」
「ではそうしましょう。さあ、横になってください」
“うん”とうなずいて横になって、“あれ?”となった。
チョビ髭にしてもディンケルにしても、ものすごく子供扱いだ。というか、幼児のそれと一緒と言っても過言ではない。
こいつら、もしかしたら僕の年齢を知らないんじゃないだろうか。
毛布の中から眼を出して、シーツを整えている司令官を睨みつける。その視線に気づいたのか、ディンケルは動きを止めた。
「なにかありましたか?」
「おまえ、僕の年齢を知ってるよな?」
「もうすぐ十七歳におなりですな」
「だったら、その幼児扱いは止めろ」
「そんなつもりはないのですが……。そうですか?」
「苦いのは嫌いだけど、ちゃんと飲めるから気にするな」
「なるほど、分かりました。ではそのままお持ちしましょう」
そう返事した司令官の眼はなぜか笑っていた。
きっと馬鹿にしているんだろうなと思った。そんな馬鹿にするような相手をどうして主君にしようとするのか、さっぱり分からない。
「さっきの話だけど、アーリングに任せた方がいいと思うけどな、僕は。あいつは尊敬も信頼もできる立派な男だ。それとイワノフのことだって、エヴァンスに管理させれば、なんの心配もいらない。あいつ、すごく頭良いし、色々と気が回る。双子の兄がパラディス王国の王女と結婚しているから、外交的にも有利だと思う。他にも僕なんかよりずっと相応しい人間がたくさんいる。そもそも僕が人間かどうかも微妙だし……」
「侯爵!」
突然、声を荒げた家臣に驚いて、ユーリィは口を閉ざした。
「そういうことは、おっしゃって欲しくないですな」
「なんで? だって……」
「アーリング士爵はとてもご立派な方で、自分も尊敬しております。ですが、いつかはあの方を越える存在になりたいというのも正直な気持ちです」
「なら、僕は?」
「生涯お守りし、そして守っていただきたいと思っている方です」
ユーリィには全く理解不能なことを言うから、どう返事をしたらいいのか分からない。家臣の言葉を頭で反すうし、その意味を必死に考える。それでもやっぱり分からなくて、なんだか悲しくなった。
「なんで僕は、いつまでも拘束されてるんだろう……」
「侯爵、我々は貴方を心から信頼しているだけですよ。さあ、今日はゆっくりお休みください。明日にはソフィニアに戻られるように、士爵から先ほどご連絡がありましたので」
絶望的な報告をして、ディンケルは部屋から出ていった。