第188話 醜悪なる星彩
純白色の扉の前に並ぶは十人の雑兵。全員が矢をつがえたクロスボウを構えている。皇帝の寝室はさほど広くないので、人の足で二十歩ほどいけばもう反対側の壁にはたどり着く。つまり、矢を放てば確実に命中する距離にいる。
彼らの後ろには俺を睨み続けている偉丈夫。視線で俺を射殺すことができるのなら、その男はそうしただろう。説得という冷罵を発することを今日は一度もしていない。その代わりの実力行使だ。
そういえば今日はエルナもアルベルトも顔を見せていない。昨日までは説得役としてやってきては過去話を垂れ流し、俺の気持ちを変えようと頑張っていた。
ユーリィが意識を失ってから三日が過ぎていた。あの日以来、雨はずっと降り続いている。まるで俺の代わりに空が泣いてくれているかのように……。
『お前の愛で死なずにいられたら、這いずってでも生きていく』
その言葉が、抑えていた俺の独占欲を解放してしまった。
ユーリィが皇帝の座に就いて以来、俺の脳裏にあったのは頓死した支配者たちの名前。その中にはユーリィの父親もいた。そいつらが俺をあざ笑う。人間とは醜い生き物だと。
それでもユーリィを信じていた。奴らを信じていた。死を覚悟して街を守った彼を天子だと崇め、忠義を尽くしたいと訴え、玉座を押しつけたのは、奴らも彼を欲しているからだと。
しかしこの世界には醜い者しか存在していなかった。そいつらが彼を汚していく。異界にいる醜きモノたちよりも酷い腐臭をユーリィに擦りつけて、お前は臭いと鼻をつまんでは怒り出す。
それが許せなかった。
頓死した者たちとともにユーリィの名が連なるぐらいなら、俺の腕の中で幸せに殺してしおう。そうして俺もこの世界から消え去ってやる。
俺をそんな気持ちにさせたのが、ユーリィのあの言葉だった。
だから今まで以上に激しく抱いた。這いずって生きる姿など見たくもない。ユーリィはプライドという輝きを放ってこそユーリィなのだ。
この三日間繰り返し思い出していたのはあの夜のこと。抑えてもなお漏れる嬌声、快楽と苦痛の狭間で流す涙、背中にしがみつく細い指。意識を失う瞬間まで、彼は俺の愛を貪欲に求めてきた。
本当は死にたいのだ、俺の腕の中で。
そんなふうに思えたから、彼の最期を看取ったあとは全てを炎で焼き尽くそう。こんなくだらない世界など早く終わりにしてしまえと、魔物の俺がずっと怒っていた。
「最後通告です、獸爵閣下! そこをお退き下さい!」
その時、軍服の偉丈夫ディンケルの声が室内に響く。その口調は過去の記事どんな場面より厳しく激しかった。
従うものかと俺は唸り声で拒絶を表す。たとえ矢が降ってこようとこの決意に変わりはなかった。
「陛下に万が一のことがあれば、この国がどうなるか今一度お考えください。そうならない為にも、一刻も早くご回復をしていただければならないのです、獸爵」
そうしてまたお前らはユーリィを苦しめる、責め立てる、蔑み怒る。しかし決して国のためなんかではない、自分達の利権や欲望の為だ。なにもできないくせに、なんとかしろと彼を一生脅し続けたいだけだ。
「そうですか、残念です」
将軍は小さく指を鳴らす。すぐさま兵士達がキリキリと弦を引き始めた。矢じりの先には俺がいるのだろう。
あんな物がすべて当たろうと屁でもない。それより前にあいつ全員焼き殺しても構わないのだ。
魔物を前にした兵士らの顔が引き攣っている。上官の命令に逆らえない哀れな連中だ。ディンケルにとって雑兵は雑兵に過ぎず、皇帝もまた使い捨ての彼らと何ら変わりはない。それを忠義などと誤魔化す根性が気に入らなかった。
ディンケルと俺が同時に口を開く。命令が先か、炎が先かというその刹那――
純白の扉が前触れもなく開け放たれた。それに驚いた兵士の一人が矢を放つ。照準を見失った矢が逸れてベッドに向かうのを、俺は口で捉えて噛み砕いた。
「なにをやってる!!」
ディンケルが怒鳴りつけた相手は失態を犯した兵士だと思われたが、するすると中へ入ってきた人物だったかもしれない。飄々とした雰囲気のその男は、室内をグルッと見回したのち、あの嫌味な雰囲気でこう述べた。
「おや、これは酷い」
緊迫した雰囲気を一瞬で消し去る腑抜けたセリフだ。そのせいでディンケルの怒りの矛先は、俺からその男へと移っていった。
「貴様!! なにが酷いと言うんだ!!」
猛獣のような勢いで怒鳴り声である。だが相手が悪かった。
「色々酷いですが、一番酷いのはクロスボウですね。手入れを怠ってませんか? ああ、これは照準が少し曲がってる。こっちは台座がガタガタだ。引き金も半分に折れてますね。こんなのを見たら父がどんな顔をするやら。一斉攻撃なんてしたら三本に一本はあらぬ方向に飛んでいったでしょう、たとえばベッドとか。危なかったですね」
にやりと笑ったクライスを睨むディンケルの顔が赤くなり青くなりで、見ている分には小気味がいい。無造作に切りそろえた口髭をピクピクと動かしている様子も哀れで面白かった。
「貴殿はいったいだれの許可でここに来たのだ?」
「だれの許可が必要なのか分からなかったので、勝手に入りましたがなにか? 少なくても外にいる兵士たちは、ボクに許可が必要とは考えなかったようですね。ま、当然でしょう、ボクですから」
「ギルド議長の差し金だと認めるつもりはないのだな?」
「あの人、わりと早寝なんですよ、知ってましたか?」
「そんなくだらない話で誤魔化すな!」
「いえいえ、誤魔化したわけではなく」
「ではいったいなにをしにノコノコとやってきたのだ?」
「なにをしにって、それは……」
ディンケルを捉えていたクライスの視線が、兵士から室内へ、室内から俺へ、そして俺からその後ろへと移っていく。
「むろん陛下と話をしに?」
「貴様、なにを言って――!?」
クライスの視線を追って、偉丈夫の顔が俺の方へと向けられた時、わけの分からない怒号が室内に響き渡った。
矢庭に巨漢がこちらへと突進してきた。それはまるで転がる岩石のようだ。
虚を衝かれた俺は、炎を吐き出そうと口を開く。だがそふたたびそれを止めてしまったのは、滝のように巨漢の両目から滴る涙だった。
「陛下ァアアア!!」
俺の存在など完全に無視をして、将軍は横をすり抜けていく。
それを追って振り返れば、幻のような儚さで彼は上半身を起こしていた。
「お気づきになられたのですか、陛下!」
ベッドの縁で膝を突いたディンケルが、ウゥと嗚咽を漏らしつつそう言った。
「ゴメン……心配かけちゃったみたいだね」
「本当に心配いたしました、陛下。ああ、そんなにおやつれになって。早くだれかお食事を、いやお薬を、その前に医者を……」
「ずいぶん眠っていたみたいだからそんなに辛くないよ」
そう言ったのち俺を見たユーリィは穏やかに微笑み、この世の優しさをすべて集結したようなその表情に俺はただただ見とれていた。
おれから目を離したユーリィは、顔を少しだけ上げて前方を見据える。
「で、なんの騒ぎ?」
愛らしく彼はチョコンと首を傾げた。
「あれはつまり……、オイ! お前達、早く矢を下ろせ!!」
「だれを狙ってたの? 僕?」
「め、滅相もありません!」
「なら……」
ユーリィの視線が俺へと戻ってこようとした矢先、兵士の後ろからこの世の嘲りをすべて集結したような微笑みを浮かべたクライスが歩み寄ってきた。
「クロスボウの手入れがなっていないと言っていたところですよ、陛下。武器屋としては見過ごせませんからね。ところでご体調は?」
「貴様、陛下のご体調をクロスボウのついでのように!」
ディンケルは今にも掴みかからんばかりの様子だったが、言われた本人はフフと鼻で笑って、
「やっぱ、お前って面白いな、クライス」
「幾多の褒め言葉はもらってますが、面白いとおっしゃって頂けるのは陛下だけですので、自分も新鮮で嬉しいですよ」
いや、お前それ褒められてないから。
もし人の姿をしていたなら確実に俺は呟いていただろう。
「さて時間も時間ですし、早速話をしたいのですが?」
「貴様、俺に殴られたくなかったら、とっととここから出ていけ!」
「やだなぁ、陛下がお目覚めになるタイミングで来たボクに嫉妬したからって、暴力に訴えるなんて将軍とは思えないですねぇ。顔と頭脳だけじゃなく、ボクは生まれつき運が良いんですよ、諦めて下さい。あ、それから……」
それまでニヤけていた男が瞬時に真顔となる。その効果を狙っていたために、今までわざとおちゃらけていたのか?
(いや、あれは素だな)
クライスは自惚れが強いだけで、優秀とはかけ離れた腰抜けの小物だ。多少の願望は含むが、俺の印象は間違ってはいない。だからユーリィも即座に拒絶すると信じていた。
「お人払いでお願いします」
「なんだと、貴様!!」
とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったらしいディンケルが、クライスの襟首を掴んで引き上げる。だが爪先立ちになったクライスは、悲鳴を上げることもなく相手を睨み返していた。
「待て、ディンケル!」
「陛下、この忌々しいネズミは自分が始末を……」
「いいから手を離せ!」
息切れ気味に叫んだ皇帝の制止に逆らうことができなかったのか、将軍は渋々とクライスから手を離した。
「クライス、今すぐに話さなければならないこと?」
「ええ、今すぐでお願いします」
「そう分かった。ディンケル、兵士たちと外で待機してて。それから僕がいいと言うまでは、だれも中に入れないように」
「しかし、陛下!」
「お前を信用してないんじゃないよ。今は目の前で無意味な争いをして欲しくないんだ、疲れるからさ。お前にはあとで僕から伝えるから。でも僕が信用できないというのなら逆らってもいいけどね。僕に忠義を尽くす義務はどこにもないんだから」
そう言われて、将軍は引き下がらないわけにもいかなかったようだ。涙のあとがまだ残る顔を苦渋にゆがめ、御意と小さく呟いたのち、肩を落として部屋から退散した。
「じゃあクライス、話を……あ、その前にフェンリルは人間に戻って」
言われなくてもそうするつもりだった。つまらない寸劇がいつまでも終わらないのなら全員まとめて食い殺そうと思ったぐらいに。早く人の手で、蘇った愛しき者をひたすらに抱きしめたかった。
魔物から人へと、青きオーラを放って変げする。一度目にしたことがあるクライスは眉一つ動かずに眺めている。そんな男を押し退け、俺は二足歩行でベッドに近づき、身を屈めて両腕でしっかり抱きしめた。
ヒトとは思えぬ甘い体臭が、眠っている欲情を刺激する。
あの夜の夢が、妄想となって脳裏に浮かんでは消えた。
「ユーリィ……」
「やっぱり僕は生きていかなければいけないみたいだね?」
「もし生きるのが辛いのなら……」
殺そうか?
その言葉を飲み込んで、彼の温もりを感じていた。
「たぶん辛いのは、自分の愚かな姿を見るのが辛いからだよ。僕も少しはクライスを見習わないとね。さあ離して」
言われるがままに体を起こしてクライスを横目で眺めれば、奴は無表情に俺たちを眺めていた。
「それで話ってなに?」
「聞いたことしか言いませんので」
それからロズウェルは、自分が聞いたことを手短に話し始めた。そのいくつかは俺も知っていることであり、俺自身が言ったことでもある。特にジョルバンニの“共通の敵”というセリフはずっと胸のどこかに引っかかっていた。
「なるほどね。で、クライスは僕になにをして欲しいんだ?」
「自分がなにをしたいかは分かりますけど、陛下になにをして欲しいかなんて考えてもいないですよ。今の情報で貴方がどうなさるのかを見極めた上で、自分の行動を決めようと思っているだけです」
「もし放置すると言ったら?」
「そうですねぇ、武器を抱えて地下にでも籠もって売りさばくか、もしくはこの街を離れるか、セシャールに移住というのも悪くはないですね」
「逃げることばかりかよ!」
俺の指摘に、クライスは僅かに眉を動かして、
「優秀な者は自分ができることを知っているばかりではなく、自分ができないことも知っているのですよ、獣爵。このボクが戦えるとお思いで? 色々ないざこざに巻き込まれるのも真っ平です。そうだなぁ、素敵な女性が現れて抱き合うような場面もあれば完璧ですよね、お二人のように。ただ混乱している最中ではボクもさすがに大勢を相手にはできないので、二人ぐらいがちょうどいいですね」
煽られているのか馬鹿にされているのか分からないまま、俺の怒りがムクムクと膨らみ始めた時、ユーリィがクスクスと笑い始めた。
「やっぱりクライスは面白い。いいよ、これから僕がなにをするか特別に教えてやる。これから獣爵はフェンリルにまた変げして、それに乗った僕は輸送部隊の様子を見に行く」
「なっ!?」
冗談じゃない。今さっきまで死の淵を彷徨っていたじゃないか。
強い拒絶を込めて首を横に振った俺に、ユーリィは僅かに首を傾げた。
「なぜ?」
「なぜ? なぜだって!?」
「僕は這いずってでも生きていくって言ったじゃないか」
「その結果、死ぬことになるかもしれないんだぞ。この世にいるのは醜悪な連中ばかりだ。そいつらのために、君が死ぬなんて俺は絶対に許さない」
「僕だってこの世にいる者だぞ、ヴォルフ。僕は天子なんかじゃない。それにジョルバンニの言う“共通の敵”は一理あるからね。でもだれをその敵にするかは僕が決める。僕はだれかを助けに行くなんて言わなかっただろ?」
そうだった。彼は一度たりとも自分の死に様など気にしたことはなかった。血しぶきに染まろうとも、狼に襲われようとも、槍に狙われようとも、最期の瞬間までどうやって生きるか、そればかりを考えていた。
「僕が僕らしく生きるために這いずるんだ。だれに責められようともうなにも気にしない。僕がそうでありたいと願ったことへの文句なんか耳を貸すもんか」
「それでも君はずっと傷ついてきた」
「その点クライスは凄いと思う。僕も少し見習いたい」
「お褒めにあずかりありがとうございます。ああ、もし行かれるのなら、巨漢のオカマはできるなら見逃していただけませんか。あれはただの野獣なので、野に放っておけば問題はありませんので」
「天敵だって言ってたのに、案外優しいね」
その褒め言葉に、クライスはいっさい反応せずにそっぽを向いた。
「さて、行く前になにか飲んでなにか食べよう」
「本当に行くつもりなのか?」
「行くよ。僕は戦いが好きだって、お前も知ってるだろ」
透けるように白い顔にはいっさいの曇りはない。そればかりか、青い瞳は星彩より美しく輝いている。
「僕は死ぬまで支配する側にいたい。この世界にいる者たちが醜悪だと言うのなら、それが僕の醜悪。でも構わない。さっき目が覚めた瞬間から、この星全てを支配する者になると決めたんだ」
この決意がのちに大きな戦いの要因となることを、その時の俺はまだ知らなかった。
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作画:蒼糸様
レティシア・リリュ・オーライン