第186話 消えゆく世界の残光にて
夜中に振り始めた雨は朝になっても止むことはなく、ソフィニアは珍しくずぶ濡れとなっていた。
身支度を整えたセグラスは、ダイニングテーブルの椅子に腰かけ、朝食を摂っていた。メニューは毎日ほぼ同じ。野菜スープに焼いたパン、そしてお湯で柔らかくした干し肉が一切れ。パンは八等分してスープに浸して食べる。これを十年以上続けていた。
長いテーブルの反対側には、昨夜抱いた娘が座っている。まだ眠そうな目をした彼女は、短く切ったのが気になるのか金髪をしきりにいじっていた。
「どうした、食べないのか?」
別に娘が食べないことを気に病んだわけではない。食べないのなら目障りだから追い出そうと考えただけだが、優しさと捉えたのか娘は気恥ずかしそうにスプーンを手に取った。
「食事が気に入らないのなら食べなくてもいい」
「いいえ……そんなことは……」
この距離であってもセグラスの瞳に、娘はぼんやりとしか映らない。だから髪型とその色、背丈と体格、そして肌の色もあの者そっくりに見える。しかしベッドの中ではただの女に過ぎず、案外つまらない玩具だった。
娘はスプーンを握ったまま、チラチラとセグラスの横を盗み見ている。彼女がなにを気にしているかさすがのセグラスも気づいていた。
「あの、セグラス様。早くご返事をお願いします」
そう言ったのは横に立つ老執事。普段はあまり感情を見せない男が渋い顔でずっと立っているものだから、娘は自分への当てつけだと思っているのだろう。
セグラスが若い頃から仕えるこの執事は、基本的に主人のこういう遊びを快く思っていない。特に今回は娘がだれに似ているのか一目瞭然で、それが気に入らないようだ。
“このようなことが世間に知られれば、ジョルバンニ家に傷が付きます”
最近増えてきた小言だ。そんなふうにセグラスに言えるのはこの執事だけだった。
「返事と言っても、私にはなにもすることがあるまい?」
執事を見ることなくセグラスはスプーンにパンの欠片を乗せると、それをスープに浸して口に運んだ。
「それはそうですが……」
「食事が済むまで待たせておけ。つまらないことをいちいち尋ねに来るのだから、それぐらいの時間はあるだろう」
「つまらないこと……ですか」
「それに私が行ったところで対処などできるはずもない」
セグラスの言葉に反論するのは諦めたのか、執事はもうなにも言わなかった。
皇帝危篤の知らせは、セグラスが身支度中に、宮殿からやってきた衛兵長によってもたらされた。伝言を聞いた執事によれば、ベッドの中で荒い呼吸を繰り返しているとのこと。もちろん意識はなく呼びかけにも答えない。まるで死人のように唇にすら色がない顔色で、いつ亡くなってもおかしくない様子らしい。しかしそんな状態でありながら医者に見せられないのは、魔物に変げした獣爵がベッドの横に座り込み、近づこうとする者を威嚇しているからとのことだった。
現在ディンケル将軍が獣爵の説得をしているようだが全く動かず、どうしたらいいかと衛兵長がセグラスに泣きついてきたのだった。
「昨夜はお楽しみになられたのだな……」
「は?」
「なんでもない、独り言だ」
死を覚悟した自暴自棄なのか、獣人に陵辱された結果なのかは分からない。
分からないが、万が一のことを考えなければならないだろう。だが残念なことに期待できそうな持ち駒がなかった。
「それにしても、陛下にもしものことがあれば……」
「それほど心配ならお前が宮殿に行ったらどうだ?」
「まさかそんなことは。この国がどうなるのか少々憂慮しただけでございます」
この二十年、余計なことはいっさい言わなかった男に、その態度を変えさせたのだとしたら、皇帝はやはり良き素材だと思わざるを得ないだろう。
しかし欲しいのは狂気と執着だ。勝利する鳥はたとえ片翼が壊れようとも、敵の急所のみを狙い続ける。その姿が身震いのするほど美しいのだ。
「差し出がましいことを申し上げて申し訳ありませんでした」
深々と頭を垂れている老執事になにを言おうかと、セグラスは肩越しに振り返る。すると、執事の背後にあるステンドグラスの黒いシミが目についた。
嵌め殺しのそれは、明かり取りの役目も担っている。この食堂の窓はすべてカーテンが引かれているので、その小さな飾りだけが外との繋がりだった。
なんだろうかと目を細めて注視をする。汚れなら早急に掃除をさせなければと思いつつ、ぼんやりとした視界に少々苛立った。
やがてそのシミは徐々に小さくなっていく。それが再度同じ形に戻った時、セグラスはある生き物を確信した。
(蝶か……)
外はどしゃ降りに近いことは雨音で分かる。その雨を嫌って貼り付いているのかもしれないが、セグラスはそうとは考えなかった。
「メイソン、宮殿には一時間以内に行くと伝えなさい」
「かしこまりました」
食堂から出て行く執事を見送って、今度は正面に座る少女を見た。彼女も蝶の存在に気づき、不思議そうにそちらを眺めている。呆けた様子のそんな少女に、セグラスはきつい声で命令を下した。
「お前はすぐに部屋に戻りなさい」
「え……でも……」
「私はもう食べ終わった」
ナプキンで口を拭い、それをテーブルの上に置くと、
「今日から五日間、部屋からは一歩も出ないように。食事は部屋に運ばせる」
皇帝に万が一のことがあったなら、最初にすべきはこの娘の始末だ。理想の覇者を閨の中で辱める妄想をしたいがために、拾ってきた玩具なのだから。
そんなことを考えつつ、セグラスは静かに部屋を出た。
廊下から二階へ戻る途中、裏口の扉を解錠してそのまま書斎へ。カーテンがすべて閉じられた室内は、机にあるランプがわずかな光を作っている。その中を歩けるのは機能を失いつつある瞳ではなく、習慣という過去だ。入口から机までちょうど十二歩、左手を伸ばせば椅子の背が手のひらに当たった。
腰を下ろして眼鏡を少し上げてから、セグラスは親指と人差し指を使って両目を軽く押した。そうすることで光に感じる痛みが少しだけ和らぐ。もちろん一時凌ぎにしか過ぎないのも分かっていた。
(やはり半年だな……)
冷静な分析ができる平常心は保てていることに満足をして、目に当てていた手でランプを少しだけ引き寄せた。
卓上にある書類は、帝都の治水計画書だ。雨が多くなるこの時期が来る前に本来ならある程度の目途を付けるはずであった。
(問題は、完璧な要塞都市になるまで半年を要するかどうかだ)
水だけではない。食料の備蓄、防衛、治安、その全てを早急に安定させ、起こり得るだろう戦闘に備えるつもりだった。
こんなわずかな時間でも眼球に疲れを感じてふと書類から目を離した瞬間、セグラスはある気配を感じた。
首を右へと巡らして、部屋の片隅に顔を向ける。だが、存在が見えたわけではない。相変わらず闇は闇でしかなかったが、その闇には深い暗域があり、それがなにか悟っただけだった。
「良いことでもありましたかな?」
嫌味を含めたつもりはなかったが、結果的にセグラスの声はそんな調子になってしまった。だが暗域は動かない。光の中にいるこちらの反応を窺っているのだ。それを判ってセグラスも沈黙し、暗域を凝視する。
ずいぶん長い時間が経ったように感じられた頃、ようやく暗域の中に赤い光が二つ現れた。くぐもるような声が室内に流れてくる。
「ええ、息子が復活をしたことをご報告に」
「おめでとうございます、とでも申し上げておきましょうか」
「貴殿にはそうめでたくもない話かと」
「強い敵が欲しいという願いが叶いました」
暗域にいる者は返事をせず。赤い眼光が四つに見えるのは眼病の錯覚と分かっていても、あまり良い気分ではなかった。
「ほぉ。されど現在、皇帝は……」
「さすが情報がお早い。魔法を操りたいと思ったことはないが“幻虫の術”というのはなかなか興味をそそられますよ。ところで例の件、おまかせできますかな?」
「日時は?」
「三日後の夕刻に帝都を出発して、ファセド港には深夜には到着すると思われます。積み荷は綿花と、恐らくギーフ茶の葉が少々」
少しづつ高くなってきた雑魚どもの鼻をへし折っておく必要がある。敵がだれなのか分からせるためでもあり、動きを封じるためでもあった。特に皇帝の命が危うくなった今は、反抗心を沈めるには恐怖こそが妙薬だ。セグラスにとってだれが勝つかではなく、どうやって勝つかが重要だった。
「皆殺しでもよろしいか?」
「どうぞ、ご随意に。ゴミ虫を駆除して頂けるのはありがたい」
「まるで貴殿が皇帝のようですな」
「私は覇者にはなれませんよ。だからこそそれを作りたい。しかし自分に負ける者など端から必要ではないので、新たな計画の準備をするつもりです。もし陛下がお隠れになったら、貴方のご子息を支援してもよろしいですよ。むろん私の眼鏡に適う覇者であることが条件ですが」
「つまりエルフの世界を作ってもいいとおっしゃるのか?」
「できるものなら」
このククリが裏取引をしたいとセグラスに言ってきたのは三ヶ月前。条件は女性捕虜とサロイド塔にいる一人の解放だった。
むろん無条件に飲んだわけではなく、こちらからは休戦を提案し、その協定が結ばれることとなった。もっともサロイド塔の一人は解放ではなく脱走という手段を使ったが。
その後エルフは定期的に現れて、今日のような会話を繰り返す。お互いに手の内を少しずつ見せ合っている状況が三ヶ月続き、まるで共謀者のような関係になっていた。
「エルフの世界と言えば、ラシアールを上手く丸め込んだようですな」
「丸め込んではいませんよ。彼らが我々の言葉を信じただけだ。それに嘘ではありますまい? 切り捨てる者が皇帝であるか貴殿であるかの違いは些細なこと。不要になれば無慈悲に排除していくことでしょう、これからも」
「まあ、そうですな」
腹の探り合いのような会話をいつまで続けていくべきか、セグラスは考えていた。化け物が復活し、皇帝の命が危ういとなれば、もう少し突いてもいいかもしれない。自軍が不利になった時、防御だけしていても活路を開けないのは取引にもボワットにも良くあることだ。
「ところで人間からラシアールを離したのは、エルフの世界を作るご準備として?」
「まさか」
「でしょうな。プライドが高いククリが、他のエルフと共存したがるはずがない。もしそんなことをすればラシアールに食われることは必至」
「どういう意味だ?」
暗域が揺れるのを眺め、セグラスは密かにほくそ笑んだ。
まだこちらに分がある。しかし一つ手を間違えれば、たちまち世界が終わってしまうことも分かっていた。
「我々からラシアールの戦力を削いだのは、いずれこの世界を壊そうと思っていることに間違いはない。ご子息を復活させたのもそのため。しかし私は、勝つか負けるかという勝負をしようという自分の言葉に従って、それらをすべて見過ごしてきた」
「皇帝を真の王者にという絵空事の夢のために」
「絵空事でもないでしょう。嘗てククリはあの方に敗れ去った、あの方とあの魔物に。それにラシアール軍が加われば、たとえご子息が復活したところで同じことの繰り返しになるでしょうな」
「だから我々のためにラシアールが削がれるのを見逃してきたと?」
しかしセグラスはそれには答えず、机の引き出しから羊皮紙を一枚取り出した。
そこに書いてある数字を確認し、それを読み上げる。
「半年前の捕虜の人数は、女子供二百七十三名、男七十八名。うち十歳以下と思われる子供は二十二名。内訳は男児二十一名、女児一名。女で五十未満だと思われるのは三十二名。一番若い女は二十五だと調査報告がある」
「なにが言いたい?」
「この二十年、ククリにはほとんど女が生まれていないのでは? 人間に比べてエルフは繁殖能力が薄い。調べによれば、ククリは特に男の発情期が短く、そのために古来より母系制をとってきた。一人の妻に二人ないし三人の夫。その妻が三人以上の子供を産むことにより人数が減るのを防いでいたのでしょう。しかし他のエルフとの交わりを嫌ったため、徐々に近親交配が進み、女児が生まれなくなるという危機に陥った」
「なかなか面白い見解だ」
「繁殖に困らない人間にはなかなか面白い話ですよ。けれどあなた方には面白くもない自体だったことでしょう。その自体を打開するには、砂漠という不毛な地から緑溢れる地へと移ることだと考えた。水晶というお宝を抱えたままでね。そこでイワノフ一族に目を付けたというわけです。計画通りに進めば今頃はイワノフ公爵領地、もしくはベネーレク伯爵領地を手に入れていたはずではなかったですかな? だが、想定外のことが起きた。貴方のご子息が予想外の暴走を始め、それに対抗した皇帝が想定以上にお強かった」
「仮にそれが本当だとしても、私の与り知らぬ話です」
「ええ、貴方はイワノフ公爵家、もっと言えば皇帝陛下の子守をなされていたのですからな。むろんククリの長であり、実の妹であったジータ・メッサと貴方が裏で繋がっていなかったことを前提にした話です。そういえばご子息はご兄妹の間に生まれたお子さんでしたな?」
暗域にいるエルフは返事をしなかった。
それを肯定とみなして、セグラスは先を続ける。
「しかし一番想定外だったのは、貴方自身の気持ちですよ」
「どういう意味か?」
エルフの語尾がきつくなる。
正解だとセグラスが確信した瞬間でもあった。
「近親相姦により生まれた子供より、幽閉された雇い主の子供への情が強くなってしまった。実の息子は掟を破った罪の象徴、雇い主の息子は人間に虐げられたエルフ。その二つを比べただけでも、どちらに愛情を抱けるのか私でも理解できる。しかもあの方は、精霊や魔物を惹き付ける力がおありなので尚更」
「そんなことは……」
「今日ここにいらっしゃったのは聞きたかったのでしょう? 私があの方を救う気があるのか無いのか」
「素晴らしい想像力をお持ちだ。いっそ戯曲でもお書きになったらいかがか?」
「確かに素晴らしい台本になりそうですな。ククリ復活を夢見て、ラシアールに領地の要求をさせ、ご子息を復活させた。しかしその張本人が、実は敵である皇帝に新たな伝説を作るためだったという物語は、観客を飽きさせないことでしょう」
「そんな奇天烈な劇をだれが見に行くのか」
「ではなぜ、貴方は皇帝を殺さなかった? 貴方ならできたはずだ。その姿を消し“幻虫”を操る貴方ならいくらでもその機会はあったはずだ。しかしそれをしなかった。さらに言えば、どんなに藻搔こうともククリは絶滅を免れない種族だと分かっている。復活した実の息子はただの魔物にすぎない。ならば私怨にこの世界を壊してしまおうか? いや違う。どうしても滅んでいくのなら、せめて愛する息子が覇者となる餌になりたい。それが自分の愛情だと……」
「馬鹿馬鹿しい!!」
怒りを露わに暗域から出てきたエルフの赤い瞳は、その声とは裏腹に悲しみが宿っていた。それを哀れだと思いつつ、セグラスは最後の詰めに取りかかった。
「しかしまだ甘い」
「なにが……」
「ラシアールを操るにも中途半端、まだこちら側に戻せる可能性を残している。ご子息を復活に使ったのも同族の命。数を減らして皇帝が負けないように工夫でもしたかのように。もっともそんな手ぬるい陰謀にも負けて、自暴自棄に命を落とされるのならその程度の方だったと諦めた方がよろしいですな」
「貴殿こそ、皇帝の味方でありながら裏切ろうとしている卑怯者ではないか」
「皇帝の味方? そのようなことを言いましたか? 私はこの世界に美しく強い覇者を産み出したいだけです。その翼に集る汚らしい虫は追い払い、相応しい戦いの場を設け、洗練された覇者としてね。それがだれであろうと気にも留めませんよ。さあ、早くお戻りになり、ご子息を磨き上げてください。覇者として、もしくは覇者に相応しい敵として」
絶望しかないこの世界の、残光に舞う鳥は美しく強く。
そうでなければならない。
(さて、“我が皇帝”がまだ息をしているか確かめに行くか……)
暗域の消えた闇を眺めつつ、セグラスは口の端を小さくゆがめた。
☆ ★ ☆
作画:八月しぐれ様