第181話 至極の一瞬
15R指定により年齢に満たない方はご移動をお願いします。またBL要素をかなり強く含みますので、苦手な方もお手数ですがブラウザバックをお願いします。
夜中になる前に、俺は宮殿に戻ってきた。
忌まわしきサロイド塔の悪臭がに染みついているような気がして、エントランスで何度も袖の匂いを嗅ぐ。そんな俺の様子を、エントランスを守る四人の衛兵はそっぽを向いて見て見ぬフリをした。
やがて嗅いだところでしかたがないと諦め、顔を上げる。
ユーリィはもう寝ただろうかと。
二階まで吹き抜けの天井にはマヌハンヌス神が描かれてあり、日中なら苛つくその無慈悲な視線もほとんど見えなかった。
目前にある広い階段は、途中で左右に分かれ二階へと繋がっていた。それをノソノソと登り、エントランスを見下ろせる廊下を進んでから、奥にある少し狭い階段をふたたび上る。足は鉛のように重かった。
(あいつが生きているはずはない。幻だ)
宮殿に戻るまで、何度も自分にそう言い聞かせていた。
あの時、驚いて息を呑んだ刹那に煙のように消えてしまったのは、塔にこびりつく亡霊がざわついただけ。だから幻を見たとユーリィに話したところで意味などない。
そんな結論とは裏腹に、漠然とした不安が間違いなく胸にはあった。
(まさか“時の穿孔”を開けた時、奴らがなにかしたのか?)
いやと首を横に振る。
もともと俺がいた魔界は、この世界から無理やり切り離されたせいで時空がかなり歪んでいる。時間という観念はほとんどなく、一瞬後が一瞬前に繋がっていることはしょっちゅうで、過去も未来も存在しない。その歪んだ時間の中で、魔物だった俺は時空に開けた穴を使って自由に行き来が出来た。
だがこの世界には明確な一筋の時間だけがある。俺ですら“時の穿孔”に飛び込めば、思い通りの時空に出られるかどうか分からなかった。ましてエルフごときが簡単に呼び寄せられるはずがない。
(やっぱり幻という結論しかないな。だから必要になったら言えばいいさ)
しかしサロイド塔に行ったことは言わなければならないだろう。言ってしまえば内部の様子を尋ねられるに決まっている。尋ねられれば言わなければならなくなる。問題はどこまで正直に言えばいいのかということだ。
捕虜であるククリたちはほとんどが瀕死の状態だった。手枷足枷に加えて、腰には鉄球に繋がった太い鎖が何重にも巻かれていた。もちろん身動きなどできるはずもなく、看守をしている兵士の話では、食事は床に放置されてた大皿に朝夕二回長いスプーンを使って食べ物を置くのだそうだ。残っていたそれを見たが、残飯の方がマシというほどの餌だった。皿の隣にはバケツがあり、やはり鉄格子の外から水を注ぐ。どう考えても犬猫以下の扱いだ。生気ががありそうな者は一人もおらず、今夜か明日には死に絶えそうな者さえいた。
(ユーリィがあの状況をどこまで知っているかだな)
知っていて放置しているのなら問題はない。しかし知らなかった場合、ややこしいことになる。俺としては極力政治的なことに関わりたくないし、そういう立ち位置でない場所からユーリィを守りたかった。
そんなことを散々考え、自分がどこに居るのかさえすっかり見えなくなっていたその頃、鍵が外される音と同時に扉が開いて、中から白い細腕がヌッと出てきた。
「なっ!?」
服を掴まれ引っ張られる。肩越しに振り返れば、二人の衛兵がこういう時に限ってこちらを凝視していた。
「で……?」
数分後、足を組んでベッドに腰掛けるユーリィは、膝まである真っ白な寝具を着ていた。布地は柔らかそうだが作りは単純。前と後ろの生地を縫い合わせて、袖をつけただけのもの。大抵は母親の手作りだ。確かに俺も五、六歳までは着ていたが、それ以降は大人と同じく普段着で寝ている。それなのにシュウェルトは十七になる少年の為に作らせて、それを見たユーリィは幼児扱いだと酷く怒ったものだった。
けれど俺からすれば幼児と同じと思ってはいない。そればかりか襟元から見える鎖骨も裾から見える足もなまめかしく感じて、目がチカチカした。
「“で?”っていうのは?」
「遅くなった理由」
「ジョルバンニに呼び出された」
「こんな遅くまで話し合ってたのかよ?」
「いや……ええと、ちょっと頼まれて……塔に……」
「なに? 聞こえない」
なんだか知らないがユーリィの機嫌はずいぶん斜めだ。俺が遅くなったのが原因かと思いたいところだが、なんとなく原因は他にありそうだった。
「なにかあったのか?」
「別になにも。ただブルーに和解を申し込んだけど断られた。代わりに明日シュランプ長老と会うことになった。僕としてはできる限りのことをしているつもりだけど、あいつに伝わらないのがちょっと苛ついて……」
「長老からなんとか伝えてもらえればいいな」
「まあね。それより、ジョルバンニになにを頼まれたんだって?」
誤魔化しきれずにユーリィが話を戻して、俺は心の中で舌打ちをした。
「塔の調査を依頼された。君があいつに頼んだと言われたが……」
「ジョルバンニの奴、ヴォルフを使うのかよ!」
ジョルバンニに対するものだと分かっていても、口を尖らせて文句を言われればつい首を引っ込めたくなる。もちろん俺もそうしてしまい、青い瞳に睨め上げられた。魔物であれば尾は腹の下に隠していることだろう。俺は犬ではないとは分かっているにもかかわらずだ。
「あ、いや、つまり人間には手に負えないと……」
「人間の手に負えないからお前に頼んだのかよ。あいつ、馬鹿じゃないの」
なぜだか俺が馬鹿にされたような気がした。
「俺ならなんとかなると思ったんだろ、きっと」
「人間だった頃、ヴォルフはククリに痛い目に遭わされたじゃん。お前、わりと単純だし。だからフェンリルに変化しても、ククリをどうにかできると全然思えないけど」
これは確実に馬鹿にされた。
それに少々腹が立ち、言わなくてもいいことをつい言ってしまう。
「確かに俺は単純かもしれないけどな、ヤバそうな奴ぐらいは嗅ぎ分けられる。ククリの選別をすればいいだけだろ?」
「企んでそうな奴も見分けるんだぞ。できる?」
「そんなのは――」
簡単だと言いかけてふと考える。あの中に正常な意識がありそうな者は一人でもいるだろうかと。
「なんだよ、いきなり黙って」
「本当にククリがなにか企んでいるのかと疑問がね。休戦協定を結んだから……」
「あのロジュが大人しくしているわけがないって。裏でこそこそ動いているのは明白。塔の看守を買収して何人か逃がしたし、ラシアールとの件もあるからね。それにさ、アシュトの弟が一緒にいるんだぜ」
「目的はなんだ?」
「なんとなくだけど、これからなにかやらかす為の時間稼ぎをしている気がする。もちろん単純にこっちに揺さぶりをかけているだけかもしれないけどね」
あの幻も関係していることなのか?
なにかの予兆なのか?
残念ながら俺にはさっぱり予想がつかない。あるいはユーリィならなにか分かるかもしれないから、やはり言ってしまおうか。
だがその決断するより先に、彼が話し始めてタイミングを逸してしまった。
「お前、塔の中には入ったんだろ? どうだった? 自分で確認したいと思ってるんだけど、僕が行けばククリたちを刺激するとジョルバンニに止められてさ。それにしたって死者が多すぎるって言ったら、エルフは体力がないし、他の犯罪者より待遇を良くするわけにもいかないとかなんとか。なんか誤魔化されてる気がするんだよね」
「まあ、以前に比べて塔の環境が改善されたということはないかな……」
むしろククリたちを苦しめて殺そうとしているとしか思えない待遇である。けれど、ククリには俺も恨みがあるので、彼らを救ってくれとあえて訴える気は起こらない。
するとユーリィは急に立ち上がって、俺の方に顔を近づけてきた。
「なっ!?」
「前にサロイド塔に行った時、お前、凄く臭かったから……」
言葉通りにクンクンと鼻を鳴らして、俺の服を嗅ぐ。
このままでは白状させられるのも時間の問題だった。
(そうしたらまた政治的な話がグダグダと続いて、明日も明後日もそんな話ばかりになりそうだ)
見下ろす首筋に色気があり過ぎるから、予想できる未来に嫌気がさす。確かに彼を守りたいとは思っているが、お預けを食らった犬でいたいと思っているわけでもない。毎晩会えるようになっても、こんな話で終わるのは真っ平御免だった。
(いっそ本気で俺が調査してみるか……)
単純馬鹿と思われているのも癪に障る。このままでは本当に番犬扱いで、魔物ではない方の俺の存在意義が分からなくなる。特にあのハーンにユーリィの心が揺れたのだと知ってからは、モヤモヤとした気持ちがずっと胸にあった。
「やっぱりちょっと匂うよ?」
そう言って顔を上げたユーリィの腰に手を回し、強引にベッドへと押し戻した。
「え、なに!?」
「政治の話は終わりにしよう」
驚く少年を押し倒し、その上から覆い被さる。
なにか言いかけた口を唇で塞ぐと、舌を、歯を、口腔のすべてを何度も舐った。
(この光は……心地良い……)
内なる魔物が呟いた。
その昔、地の精霊が言っていたユーリィにある光を、今ははっきりと感じられる。そのせいなのか体がどんどん熱くなってきて、夢中で貪り続けた。
だが、唾液が滴った耳筋から首元へと唇を這わせた時、その喘ぎ声に苦しみの息が混じり始めていた。
(まだだめか……)
もうそろそろ体が成長しているだろうと期待していただけに、落胆は否めない。
けれど熱が冷めていく虚しさを味わっても、もう二度と傷つけるつもりもなかった。
渋々と引き下がるように愛撫を止める。途端、白肌をピンクに染めた少年が、腕の中で苦しげな息とともに呟いた。
「お前……いきなりすぎ……」
「悪い」
「いいけど……」
恥ずかしそうに言ってから、彼は顔を背ける。その耳元にもう一度唇を落とすせば、ほんのりと甘い香りがした。きっとあの呪いの残り香だ。
これから先、この香りを求めてハーンのような虫どもが群がってくるに違いない。
(香りだけじゃなく、この光もか)
改めて大変な相手に惚れてしまったと思いつつ、俺は体を起こした。
「止めるの……?」
顔を戻した少年は、なじるような視線で俺を見上げる。
それを見てなんとか理性を保てたのはたぶん奇跡だ。次はない。
「明日、ラシアールと話し合いがあるんだろ?」
「そうだけど……」
「ずっと一緒にいるんだから、色々落ち着いてからでいいさ」
「うん」
「俺も明日からククリたちを調べることにする。ジョルバンニの命令に従うのは癪だが、君の手助けになるなら構わない」
「できるの?」
「できるさ。奴らの問題をさっさと片付けて、じっくり楽しもうぜ」
むろん次の日に俺を待ち受けている奴が何者か、その時の俺が知るよしもなかった。
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フェンリル その1
作画:ひえひえさんは森の人様
後日、別の絵師さんが描くフェンリルをアップします。
作者としてはどちらもフェンリルらしくて甲乙付けがたく、とても気に入ってます。